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 他の三人も、中核となる男を心配してか怪しい動きはない。その目が異質なものを見るようにライナを射抜くので、咳の中に苦笑が混じった。
 それにしても、嫌な予感がする。
 胸の奥の方に闇色の靄がかかり始め、大きな氷の塊が背中を滑るような感覚に襲われる。全身の毛穴が開くようなこの感覚は、幾度となく経験してきた。
 ――これは魔気だ。
 しかし男達がそれに気づく様子は当然なく、ライナの隙が生まれるその瞬間を、今か今かと待ちわびている。わざわざライナに目をつけた山賊の目的は、聖職者そのものだろう。聖職者の髪や装飾品、聖水など、彼らが求める者は実に様々だ。ロザリオの純銀は高く売れるし、銀髪や聖水は魔よけのお守りとして闇取引される場合が多い。もちろん、聖職者自体をどこかに売りさばくということも可能だ。
 だからこそ、こうして「聖職者狩り」が流行りだしてきたのだろう。
 そんなことをすれば余計に聖職者の数は減少し、力を持たない者達を守る存在がいなくなる。けれどそれを理解することは恐怖に怯える人間にとって難しく、受け入れがたい事実でもあった。
 ひしひしと魔気が濃くなっていく中、ライナは己の腕が小刻みに痙攣しているのを見た。感覚はすでにない。こうして男を捕らえているのは、もはや残された気力でしかない。
 己の命を危ぶめる存在。――ならば、見捨てるか。その問いへの答えは、否だ。ライナの白い歯が悔しげに唇を噛み、月の光さえ届かない茂みのさらに奥を、大きな瞳がねめつけた。
 
「<神の御許に、誓い奉る――盟約者は、聖血を授かりしライナ・メイデン>」

 荒れる雨の日のように激しく脈打つ心臓を抱え、ライナは冷えた空気をすっと肺に流し込み、静かに神言の冒頭を紡ぐ。
 突然の彼女の行動に、男達が大きく目を瞠って驚いた様子を示していたが、説明している暇も、構っている暇もない。視界の端に映る赤がとても憎く、血の滲んだワンピースの肩口を剥ぎ取ってしまいたくなる衝動に駆られる。
 聖職者の血は、神言を与えることによって魔物を縛り付ける最良の呪縛ともなる。だが、その武器にも盾にもなる彼らの血は、魔物にとっては最高の珍味となりうる。
 今ここに向かってきている魔物達は、間違いなくライナの血の匂いにあてられて引き寄せられたのだろう。この場を浄化したくとも、下手に隙を見せればこの男達にやられる可能性があった。
 こんなことなら、エルクディアやシエラの言うとおり朝にすればよかっただろうか。そう後悔しかけて首を振る。朝だろうが夜だろうが、襲われるときは襲われる。それよりも今は、とにかく早くあの竜を捕まえなくてはならない。
 急な神言に戸惑いを隠せない男達を尻目に言葉を紡ぎながら、ゆっくりと瞼を下ろして視覚を遮断した。そうすることによって他の感覚が研ぎ澄まされ、見えないものを感じることができる。

「動かないで!」

 目を閉じたライナを捕らえようと、一人の男が太い木の棒を振り上げたその瞬間だった。夜の静寂を紙を引き裂くよりも容易く破った奇声が、その場にいる者すべての耳朶を叩く。
 もつれる舌を必死に動かすが、神言はまだ完成しない。人でも獣でもないその声を聞き、男達はさらに困惑した。
 異質な鳴き声、聖職者の神言。これらが示し合わすものは、一つしかない。いち早くそれを悟った誰かが、ぽつりと「魔物が来た」と漏らしたのを皮切りに、辺りが騒然となる。腰紐に捕らえていた強靭な肉体の持ち主でさえ、恐怖に慄いて肩を震わせたのだ。ライナは小さく舌打ちすると、男を解放した。
 男は両膝を地に着き、赤く筋の入った太い首に己の手を当てて、その小さな目を極限まで開く。血色の悪い薄い唇がわなわなと震え、かろうじて声と呼ばれるものを搾り出して「助けてくれ」と懇願した。――人間とは、実に都合のいい生き物だ。

「<神の御名の下、この世に宿る精に乞う。悪しきものを拒む力を我に与えよ>」

 視線を上に滑らせれば、子供の頭ほどの大きさをした目玉の魔物が、コウモリのような皮膜の翼を羽ばたかせてこちらに接近してきていた。数は三体で、よく見れば翼は趣味の悪い迷彩柄だ。山に住まうためそれを保護色としているのかどうか、目的は定かではないがとにかく異様だとしか言いようがない。
 周りの空気が徐々に清浄なものへと変化していくのを肌で感じ、ライナは首から掛けられたロザリオを左手でしっかりと握った。もうほとんど左手の感覚はない。痺れが強く、こうして動かすのもやっとだ。
 もはや男達に先ほどまでの威勢は見受けられなくなっており、ひたすら恐怖に怯える小さな子供のようだった。

「<我と盟約を交わせし大気の精霊よ。罪なき者、我が望む者を守りたまえ>」

 広範囲に渡る結界だ。体力、気力共に大幅に消費する神聖結界よりも、風の結界の方が有効だろう。そう考えて神言を紡いだライナの頬を、風が叩くように吹きつける。
 こんな感覚は初めてだった。ライナの周囲をぐるりと渦巻いた風は、からかうように吹き抜けて消えていく。結界が生じない。

 ――風霊に拒まれた。しかし、なぜ。


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