1.レンツォとライナ [ 4/22 ]


 レンツォ・ウィズという男は、正直言って苦手だ。
 どれだけライナが「ライナです」と主張しても、彼は頑なに「クレメンティア様」と呼んでくる。敬意を払っているからだなどとのたまうが、敬意など微塵も感じられない。彼はただ、「クレメンティア」にしか用がないのだ。エルガートの公爵令嬢でなければ、ライナなどそこらを歩く小娘としか認識されない。それが嫌だというわけではないのだが、それでもやはり、不快なものは不快だ。確かに自分はクレメンティアだし、それを否定する気はない。
 なにが嫌なのだろう。そんなことを考えてみた。
 ちょうど今、部屋にはレンツォとライナの二人しかいない。シルディは自室で政務に励んでいるし、シエラとエルクディアは散歩中だ。借りていた本を返しに来た書庫に、たまたまレンツォがいた。それだけだ。彼はライナに気がつくと、軽く頭を下げるだけでなにも言わなかった。本はすぐに元の書棚に戻したし、もうここには用はない。けれどなぜか立ち去りがたく、用もなく書棚を眺めていた。
 レンツォは細い鎖のついた眼鏡をかけて、分厚い本を捲っている。速くなったり遅くなったりする音を聞きながら、ライナは別段興味のない「仮面の歴史」という本を手に取った。ディルートでは、大規模なカーニヴァルが開かれる。その際に人々は仮面をつけて素顔を隠す風習があるため、そのことについて書かれたものなのだろう。
 ページを眺めることもせず、なんとはなしにぱらぱらと捲っていると、背後に気配を感じてライナはひゅっと息を呑んだ。顔の真横に腕が伸ばされる。すぐ目の前に大きな男の手が現れ、一冊本を抜き取っていった。

「失礼。驚かせてしまいましたか?」
「い、いえ、大丈夫です」
「なら結構。……それにしてもクレメンティア様、随分と変わった本をお読みになるんですね」
「え?」

 片手で担ぐように本を肩に載せたレンツォが、ライナの持つ本のページを見つめて笑った。

「そちら、性風俗の文化史ですが」
「え? え、あ、きゃああっ!」

 開いたページに目を落とすと、そこにはあられもない姿の女性の絵が描かれており、ライナは悲鳴と同時に本を閉じた。ばくばくと心臓がうるさい。恥ずかしい。本を隠すように抱きかかえたが、レンツォはくつくつと喉の奥で意地悪く笑うだけでなにも言ってこない。言い訳のきっかけも与えてくれないということか。
 泣きそうなくらい恥ずかしい思いをしているというのに、なんの手助けもしてくれないだなんて。

「こ、これは、違うんです」
「別にそれ用の破廉恥な本ではなく、立派な文化史なのですから、そう恥ずかしがらずとも」
「違うんですっ! カーニヴァルのことが書かれているのかと思って、それで!」
「ああ、なるほど」

 ライナがこの本を見ていなかったことなど端から分かっているだろうに、大げさに頷いてみせるレンツォが憎い。ライナの腕から本を取り上げて書棚に戻すと、彼はその三冊隣の本を代わりに抜き出して手渡してきた。

「でしたらこちらの本がよろしいかと。……まあ、本当にご興味があるのでしたら、の話ですが」
「……ッ!」
「クレメンティア様におかれましては、私がいると気もそぞろになられるようで」

 なにも言いかえす言葉が浮かばず、ライナは耳まで赤くさせて本を抱き締めた。薔薇色の髪が、レンツォが笑うたびに揺れる。いつの間にかライナを書棚に挟むような形で接近していた男に、警戒心が湧き上がってきた。ぞくりと背筋を駆けた寒気に気づいたのか、目の前の男は楽しそうに笑う。
 本を持っていない方の手が、ライナの顔のすぐ横につけられた。分厚い本を間に挟んで押し返そうと試みるが、ライナの力ではびくともしない。

「いい加減にしてくださいっ」
「クレメンティア様、ご存知ですか? ディルートのカーニヴァルで、仮面をつける意味を」
「え?」
「仮面をつけて、衣装を纏って。そうすれば、身分も性別も、老いも若きも隠してしまえる。誰もが平等、誰もが自由。平民が貴族の屋敷に入ることも、大貴族のご婦人が娼婦に混ざって街頭で男を誘うことも可能になる。お分かりですか?」

 直接耳に流し込むような声が、甘く、低く音を変えていく。

「本来ならば許されない相手との密事すら、許される。そんな日なんですよ」
「ひゃっ……」
「おや、存外愛らしいお声を出されるんですね」

 耳朶に唇をつけながらそう囁かれ、ライナの肩がびくりと跳ねた。こらえきれなかった声が零れる。大きく音を立てる心臓を庇うのは、一冊の本だけだ。これがなければ、レンツォの胸がぴたりとくっついていたに違いない。首を傾けて避けたところで、反対側の耳が彼の腕にあたって逃げられない。
 余計に晒すことになってしまった耳元に、容赦なく呼気が触れてくる。

「その小さなお顔に仮面をつけて、ご自慢の銀の髪も隠してしまって。どうです、私と遊んでみませんか」

 わざとらしい水音が鼓膜のすぐ近くで鳴る。
 ぞくぞくとした感覚に、体が竦むのを感じた。耳の形を確かめるように唇で挟まれ、なぞられる。誘うような口づけに、肌が粟立った。突き飛ばしたくても力が入らない。睨み付けたくても、ぎゅっと強く瞑ってしまった瞼が言うことを聞かない。
 気を抜けば唇から余計な音が漏れそうで、ライナは必死に息を呑んだ。

「っ、そんな、気、これっぽっちもないくせに……!」
「そんなことはありませんよ? これでも本気です。クレメンティア様があの王子から私に乗り換えてくだされば、エルガートの王女様なりプルーアスの王女様なりを、王子の嫁に迎えることができますからね」

 しれっと言い放たれた言葉の意味に、今度は怒りで頬が熱くなった。

「離してください!」
「どうですか、私で妥協する気はありませんか? あなたを王妃にはして差し上げられませんが、少なくともあの馬鹿王子よりは満足させてご覧にいれますよ」
「離してくださいっ!!」
「まったく、つれない人ですね」

 残念だと言いながら、ちっとも残念そうではない口ぶりで、レンツォはあっさりと身を離した。離れていく直前に、耳朶に小さな痛みが走る。
 肩で息をするライナとは裏腹に、レンツォは涼しい顔で本を片手に書庫の奥へと消えていった。椅子を引く音が聞こえる。
 全力疾走したあとのような疲労感を覚えながら、ライナはその場に尻もちをついた。心臓がうるさい。顔が熱い。噛まれた耳を手で覆い、思いつく限りの罵倒を吐き出した。



(耳へのキスは、誘惑のキス)

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