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「そう拗ねるな。真面目な話、――大丈夫か?」
「え?」
「視察だ、馬鹿」
なんのことかと傾げた頭を容赦なく叩かれ、ようやっと話を理解する。
「大丈夫かって、でも、どういう?」
「あそこの馬鹿息子、物好きにもほどがあるがお前のこと気に入ってたろ」
そこまで言われて合点がいった。前回チトセが園長子息を護衛した折、フォローしてくれた中にソウヤもいた。そんなことにまで気を回してくれるとは思ってもいなかったので、純粋に驚きが胸を満たした。それが顔にも出ていたのだろう。容赦の欠片もない指弾を一発食らい、額がじんと痛む。
「……それって心配してくれてるんですか。それとも馬鹿にしてるんですか」
「両方だ」
きっぱり断言されて、またしても驚く。ソウヤのことだから、後者の方だと言うと思い込んでいた。
咄嗟に零れたのは不恰好な礼で、こういうときマミヤならばそつなく返せるのだろうと思うとさらに自己嫌悪の波がチトセを呑み込んでいく。
「だ、大丈夫ですよ。今回はあれに会いに行くんじゃないですし。それに気に入ったって言っても、あのとき限りのことだし。それに、」
「ハルナがいるし?」
「なっ……! なに言って、」
「事実だろ。俺は間違ったことを言ってるか?」
言ってない。言ってないから反論できず、腹が立つ。
ソウヤの目的が見えない。笑いに来たと思ったら心配されるし、一体なにをどうしたいのかまったく分からない。唇を尖らせれば、苦笑交じりに頭を撫でられた。突然の優しさも理解できない。
「お前、まかり間違っても浮かれすぎんなよ。相手はあのハルナだぞ」
「わ、分かってますよ! 仕事でそんな浮かれることとかありませんしっ!」
浮かれたことなどないと言い切れる自信はないが、脊髄反射の勢いでそう言い返した。
頭の中に意志の強い瞳が浮かぶ。綺麗な黒。どこまでもよく通る声は、程よく低く聞きやすい。大きな手に、広い背中。守られてばかりで、先を行くばかりで、いつまで経っても追いつけない。それがとても悔しくて――少しだけ、嬉しい。
目を反らしたチトセに、ソウヤは軽く溜息を吐いて肩を竦めた。
「……本当に分かってんのかねぇ」
聞かせるつもりがあるのか定かではない小さな呟きは、問いかける前にソウヤによって自主回収された。
「まあいい。それよか前から疑問に思ってたんだが、お前そんなんでよくお姫さんと友達やってられるな」
「は? マミヤのことですか? ――あいつ、確かに恋愛モラルは欠けてますけど、それ以外は普通にいい奴ですから」
むっとした口調になったのは、友人を貶されたように感じたからだ。マミヤの見た目に参らないソウヤからしてみれば節操のない女に思えるのかもしれないが、既婚者を相手にしても陰でこそこそと動き回るようなことはせず、常に直球の真っ向勝負で挑む心意気やよしとさえ言われる女だ。仕事の能力や判断力、人との距離感においても問題はない。
瞳に力を込めたタイミングで、ソウヤは溜息混じりに「先走るな」とチトセの肩を軽く叩いた。
「お姫さんの人格どうこうを言ってんじゃねぇよ。そっちじゃねぇ」
「じゃあなんなんですか」
「惚れた男の惚れてる女と、よくもまぁ仲良くしてられんなと思ってな。女の友情は脆いと聞いてたが、お前らはそうでもないのか」
「ああ……」
「なんだそのことですか」とあっさり返すには大人になりきれていないチトセは、やはりまだまだ子供だった。
ソウヤは意地が悪い。人を泣かせるのが大好きで、チトセだって何度泣かされたか分からない。それでも、普段の彼に棘はない。この話題にも棘はなかった。刺さるものがあるとしたら、それはチトセが勝手に傷ついているだけだ。少なくとも相手に傷つける意思はない。
純粋な疑問ゆえに、どう答えたものか迷った。自分の中の汚い部分が否応なく露呈することが嫌で、軽く唇を噛む。
「……あいつだから、平気なんです」
どうしてマミヤなのかと考えれば、自分よりも優れた条件ばかり見えてしまうので考えないようにしている。チトセとマミヤを比べれば、誰だってマミヤを取るだろう。それくらいは客観視できる。
入隊前に助けられたのは二人一緒のときだった。二人を庇ったハルナの背中は今と変わらず大きくて、その強い眼差しにチトセは一瞬で囚われた。――けれど、彼が囚われたのはチトセではなく、マミヤの方だった。そんなことは見ていればすぐに分かった。いつも厳しい表情が少しだけ和らぐのも、柄にもなく動揺するのも、マミヤが絡んだときくらいだ。
あれだけ分かりやすい態度だというのに、マミヤの方は気づいていない。そもそも恋愛対象が二十は上の女だから、四つかそこら上の男相手など歯牙にもかけていない。向けられている好意は部下に対する親愛であって恋愛ではないと、端からそうカテゴライズして割り切っている。
それは別にチトセのためではないし、チトセ自身、彼女にそうしてほしいと言った覚えもない。なにしろ、相談するよりも先に気持ちを見抜かれていたのだから操作しようがなかった。
マミヤはいつも懸命に好きな人を追いかける。無茶で、無謀で、曲がった攻め方はしないところが好きだ。軽くみられがちだが、そうではないことくらい二年も寝食を共にすれば理解できる。
悪い人ではないと分かるからこそ、チトセの胸は大きく軋んだ。
「お姫さんがハルナに振り向くはずがねぇから、安心して友達やってられるって?」
言い淀んでいたことをはっきりと口にされて大いに怯んだ。息が詰まる。その通りだと頷く勇気がない。それでも否定できるだけの言い訳も持っていないので、チトセは小さく首肯した。己の矮小さに恥じ入り、耳まで熱くなる。
恥ずかしい。情けない。
気づいてなくてよかった、範疇外でよかった、――見込みがなくてよかった。
好きな人の幸せを見守ることのできない薄汚さを自覚するたびに、自分が嫌いになっていく。こんなことは思いたくないのに、どうしても考えてしまう。これがマミヤではなくまったく別の人だったら、その人は振り向いてしまうかもしれない。そうしたら、――もう、手に入らない。
まっすぐに追いかけたいだけなのに、歪んだ感情が胸を暗く染めていく。あたしだけが幸せになれればいいだなんて、そんなこと、思っていいはずがないのに。
耐えきれなくなって俯いたチトセの頭を、ソウヤはまたしても軽く叩いてきた。