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 ナガトの手が、ステイのサインからカムへと変わった。足音を殺して小走りで廊下を進む。すぐさまダウンの指示が飛び、屈んだ頭上のガラス戸のすぐ向こうで、感染者の奇声が放たれた。屈んだまま、すり足状態で窓の下を抜けていく。このまま渡り廊下を渡って屋上まで戻る必要があるが、先ほど確認した端末には渡り廊下にも大量の感染者で溢れていた。
 たった二人で、それも穂香を背負った状態で無事に抜けられるだろうか。そんな不安が脳裏をよぎる。
 渡り廊下に差し掛かる手前の無人の教室にひとまず身を潜め、アカギとナガトは顔を寄せ合った。

「どうする」
「強行突破するしか道はないでしょ。とはいえ、ほのちゃんがいる以上、交戦は避けたい」
「渡り廊下まではこの調子で進むとして――」

 うるさいくらいに明滅している赤と白の点に、二人して苦笑が漏れた。

「そこまで行ったら、閃光弾投げて突っ走る。アカギ、走れるよな?」
「ったりめェだろ。穂香、今からいいって言うまでずっと目ェ閉じてろ。見てて面白いモンでもねェからな」

 同じ制服を着た学友達の変わり果てた姿など、見たくもないだろう。
 それに、閃光弾は健常者の目も同様に眩ませる。直前で合図してもいいが、その声を頼りに襲いかかられても面倒だ。顔を真っ青にさせたまま、穂香はぎこちなく頷いた。「しっかり掴まっとけよ」背負い直せば、ぎゅっとしがみつかれてなんとも言えない気持ちになる。
 救出訓練を行ったことはあったが、まさかこうして本当に誰かを背負いながら感染者と対峙する日が来るとは思ってもいなかった。それは己の甘さだったのだろう。特殊飛行部の隊員である以上、こうしたことは常に念頭に置いておかなければならない。

「それじゃ、行こうか。ほのちゃん、しっかりアカギにしがみついててね。なんなら首締まる勢いで締めちゃっても大丈夫だから」
「オイ」
「そんなヤワじゃないでしょ、お前。……行くよ」
「たっく……。穂香、目ェ閉じろ」

 背中の穂香が本当に目を閉じたのか、アカギは確認しなかった。恐怖に震える少女なら、どうせ言わずとも瞼を下ろしていることだろう。
 あちこちから聞こえる感染者の奇声は、それだけで心臓を震わせる。
 脳裏に浮かぶ上官達の鮮やかな戦闘シーンに、劣等感がくすぐられて歯噛みした。ハルナなら。ソウヤなら。スズヤなら。――ヒュウガなら。彼らなら、この状況をどれほど上手く切り抜けるだろう。
 ステイ、カム、ゴー。ありとあらゆる手信号に従いながら校内を進む。いつの間にか、穂香の忍び泣く声も聞こえなくなっていた。
 しばらくすると、感染者がうろうろと幽鬼のようにさまよう渡り廊下が見えた。肉眼で確認できるだけで六体の感染者がいる。荒い呼吸を落ち着かせながら、ナガトは閃光弾を手に構えた。「穂香、目」静かに告げれば、肩口で頷くのが分かった。
 緊張が高まる。ゴーグルをきっちりと装着し、互いに呼吸が整うのを待ち――、そして、ナガトのカウントが始まった。
 サン、ニイ、イチ――。指が一本減るごとに、その時が近づいていく。
 ナガトが腕を振りかぶった刹那、弾けた閃光と共に発砲音が轟いた。

「ギャああああァアアアあア!」

「なっ……」
「嘘だろ、完全寄生体!? くっそ、とりあえず抜けるぞアカギ!」
「ああ!」

 背中の穂香がガタガタと震えているのを肌で感じながら、アカギは渡り廊下をナガトに続いてひた走った。すぐ脇に目を押さえて呻く感染者達を見ながら、一直線に駆け抜ける。闇雲に振り回される腕を避け、銃声に釣られて押し寄せてきた感染者達から逃げるように中央棟へと滑り込んだ。
 教師でも生徒でもない男が、渡り廊下の真ん中で銃を掲げて嗤っている。高く響いた銃声。低く呻いた、子供とも大人ともつかない声。なにかが倒れる音。「いやぁっ」背中に聞こえる裏返った小さな悲鳴。
 すぐさまナガトが03を構え、男の腕に狙いを定めて引き金を引いた。しかし振り回される腕は予測がつかず、弾は無情にも空へと放たれる。
 この騒ぎに反応して、校舎内の感染者達が興奮状態に陥っているのが分かった。もしも囲まれたら抜けられない。――それはすなわち、死に直結する。

「ナガト!」
「分かってる! でも、あいつを放っておいたらこの子らが殺されるだろ!」

 最初に侵入してきた男が持っているのは、薬銃ではなくただの銃だ。健常者だろうが感染者だろうが、関係なく命を奪える殺傷力を持つ。

「だったら追わせろ、上で片付けんぞ!」

 リスクは跳ね上がるが、それしかなかった。
 感染者を引き寄せるには、目立てばいい。ただそれだけだ。大きな音を立て、ただひたすら走ればいい。そうすれば奴らは追ってくる。寄生体であればなおさらだ。
 ナガトは了承の言葉の代わりに、薬銃の消音機能を外して発砲を続けた。軽度感染の生徒達の足を撃ち抜き、追っ手をできる限り減らしつつ先へと進む。駆け上がる階段に蔓延る感染者を、アカギはやむを得ず殴って戦闘不能にした。一人が滑り落ちれば、後続の数人が巻き込まれて雪崩のように落ちていく。
 このまま屋上へと出てもいいのだろうか。報道陣は。一瞬そんなことを考えたが、嘲笑と銃声の響く中で迷う暇はない。日の差し込む扉のあった場所へと駆け込むと、埃っぽい空気が喉を焼いた。全速力で艦へと走る。
 とにかく、穂香を艦の中へ押し込まなければ。あと数メートルが遠い。ナガトがなにかを叫び、再び閃光弾が爆発した。心臓が破裂しそうだ。もつれる足でタラップを駆け上がり、ハッチを開けて、半ば落とすように穂香を押し込んだ。

「いいか、ぜってェ動くんじゃねェぞ!」

 見上げてくるぐしゃぐしゃの泣き顔にそう言いつけて、アカギは艦上部から飛び降りた。着地した衝撃が足裏から膝へと駆け上がる。
 出入り口で感染者を食い止めるナガトの背中から自分の装備品をもぎ取って、凄まじい勢いで階段を駆け上ってきた感染者を一人沈める。まだあの男は姿を現さない。だが、必ず来る。


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