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「ねーえ、チトセぇ」
「なに?」

 自分の膝にこの国のお姫様が乗っているだなんて、なんだか不思議な感覚だ。

「突然ですが、ここで問題で―す。『生まれた瞬間から死んで、そして生かされ続けるもの』はなーんだ?」
「急になによ、それ」
「もー、分かんないなら素直に言いなさいよぉ。じゃあねぇ、今度は簡単な問題。わたしの名前はなーんだ?」
「ちょっと、いい加減にしなさいよ。どうしたのよ、マミヤ。疲れてんの?」
「そーよぉ。マミヤなの。わたし、マミヤ・リネットってゆーの」

 急に訳の分からないことを言い始めたマミヤに覚えたかすかな苛立ちは、その一瞬で霧散した。「え……?」乾いた声が唇を割る。
 膝の上から、暗い緑色の瞳がまっすぐに見上げてくる。
 弧を描く唇は、そのくせぎこちなく引き攣っていた。

「王族ってね、出生届に苗字書かされるのよぉ。知らなかったでしょう?」

 そんなこと、知らない。
 マミヤの頭に置きっぱなしの手が震えた。
 他のプレートではどうか知らないが、このプレートの大多数の国が苗字というものを持たない。それがないわけではなく、確かに存在するが、生きているときに名乗ることは皆無と言っていい。
 苗字は死者のものだ。生者のものではない。
 死んでから初めて、名前の後ろに家名がつく。自分の家が持つ名を知らないわけではないから、いくらでも口にすることはできる。だがそれは、普通ではありえないことだった。誰もが避ける。このプレートにおいて最大の侮辱が、相手をフルネームで呼ばうことだ。

「出生届に苗字って、それ、」
「面白いわよねぇ。苗字なんてふつー、遺書くらいにしか書かないってゆーのにねぇ」

 遺書には家名までを書き残す。それは死者からの手紙を意味するからだ。「死んだものだと思ってくれ」との意思を残すものだ。
 マミヤは笑う。
 この世に生まれてから一番最初に与えられたものをチトセの前に広げて見せて、それがどんなにかつらく苦しいものか知った上で、その上で、笑うのだ。

「わたし達はね、生まれたときから死んでるの。だからどんな扱いされてもしょーがないんですって。王族の命は、国のものであって個人のものじゃないのよぉ」
「そんな……」

 ぱたり。透明な雫がマミヤの頬に落ち、滑っていく。
 いくつもいくつも落ちていく雫は、マミヤの瞳から溢れるものではなかった。
 繋いでいた手がほどけ、その指先がチトセの目元をそっと拭う。

「ぜんぶ、ぜーんぶ緑のために生かされてるのに、わたし達のこといらないって言うんだもの。酷いでしょう? 今まで散々利用してきて、これからもずーっと利用するつもりのくせに、いらないって言って捨てようとするのよ。わたし達からたくさんのものを奪っておいて、まだ奪おうとするの。嫌だったのよ。ゆるせなかったの」

 緑の瞳に、涙が滲む。ぷくりと膨れた透明な珠は、やがて表面張力が破れて眦からこめかみへと流れていった。綺麗な顔がくしゃりと歪む。溢れる涙が止まらない。
 チトセの涙とマミヤの涙が混ざり合い、マミヤの深緑の髪を濡らしていった。

「ゆるせなかった。ゆるせなかったのよぉっ! 我慢できなかった!! わたしはっ、この手で緑を守る人達の、一番近くにいるのよ! わたし達が生んだ緑を、白の脅威から守ってくれる人達の傍に! こんな地獄なんてない、緑の世界を眺められる場所にいるの! なのにっ、なのに、こんなのっ」
「うん、うん……!」
「わたし達を理由に、なんでこんなことするのよぉっ!! ねえ、なんで!? なんで、普通に暮らしちゃいけないの!? なんでっ」
「マミヤ、もういいっ、もう我慢しなくていいから! 全部吐いていい、我慢しなくていい! 大丈夫だからっ」

 覆い被さるように抱き締めて、チトセは必死に嗚咽を堪えた。それでも涙は止まらない。――あたしが泣くな。つらいのはマミヤだ。そう思って頬の内側を噛み締めたというのに、涙腺は決壊したかのように言うことを聞かない。
 抱きかかえた頭は、マミヤがいつも「薄い」だの「可哀想」だのと酷評するチトセの胸の中で、休むことなく吠え立てた。それは己の血に対する嘆きだったり、緑花院に対する恨みだったりと様々だ。
 チトセに強くしがみつき、マミヤはわんわんと泣きじゃくる。

 許せなかった。嫌だった。もうこれ以上、なにも奪われたくなかった。こんな血いらなかった。欲しくなかった。ただ普通に生きたかった。ただ普通に死にたかった。
 ただ、それだけでよかったの。

「ごめ、ね」
「え?」
「ごめんねぇ、チトセぇ。ごめん、ごめんねぇっ」
「やだ、なんであんたが謝んのよ、ねえ、なんで、」

 問いかけて気づく。
 空軍の立場を悪くさせるかもしれない。だから「ごめんね」だ。マミヤの行動によって、空軍の地位が揺らぐかもしれない。風当たりが強くなるかもしれない。彼女が守りたかったものは、彼女の行動によって壊されるかもしれない。
 ヒュウガ隊を送ったことによって、彼らまでもが命の危険に晒された。見知らぬプレートで命を落とすかもしれない。
 だから、「ごめんね」。
 チトセの夢は、特殊飛行部のパイロットだ。いつか必ず、あの場所に辿り着くと決めていた。それはまだ遠いけれど、いつか、必ず。
 それを奪うかもしれない。だから。だから、ごめんね、なんて。
 泣きながら謝り続けるマミヤをさらにきつく掻き抱き、「ばかじゃないの」と怒鳴りつけた。
 ああもう、本当にこの子は馬鹿だ。

「大丈夫、大丈夫よ。大丈夫に決まってんじゃない。みんなもピンピンして帰ってくるわよ。あの人達、後ろから鈍器で思いっきり殴ったって死にゃしないわよ。そのために鍛えてんじゃない。ね?」

 大丈夫。大丈夫だから。

「それにほら、あれじゃない、ほら。ね、大丈夫よ。大丈夫なんだってば、変なことになんてなりゃしないって。だって、そうでしょ?」

 大丈夫だから。
 祈るように、チトセは言った。


「あんたの話じゃ、あのムサシ司令が動いてくれたってんだから」


【21話*end】

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