名前さんという人は俺が物心ついた頃には傍にいて当然の人物だった。姉の同級生であり友人であり、同じママさんバレーに通っていたこともあってかしょっちゅう俺の家に遊びに来ていたことは今でもはっきり覚えている。
 自主練のパスや運動前後のストレッチにはよく付き合ってもらっていたし、セッターを志してからは指先のケアに対するマニアックな話なんかで盛り上がった。
 面倒見がよくて可愛らしい年上の彼女は、薄い桃色の唇から覗く八重歯が特徴的。彼女自身はそれがコンプレックスだと言っていたが、俺は八重歯を覗かせて笑うその顔が好きだった。

「おいおいおい〜随分有名人になったな〜」
「ちわっす」

 高校を卒業し、プロ入りしてしばらくの事。日々練習や遠征、試合で忙しない中、たまたまオフだった日に実家に帰るとそんな彼女に再会した。久々会う名前さんは最後に会った時よりも大人の女性になっていて、だけどあの頃の面影はそのままで。離れて生活していても、どこかしらで目にするニュースやCMなんかを頼りに俺の活躍を心から喜んでいるように見えた。

「いや〜育ち盛りの高校の時もおっきかったけど、やっぱプロになると体つきが違うね?!」
「そうですか?」
「だってオーラが違うもん」
「じゃあ、そろそろ俺のこと男として見てくれますか」
「えーと…それは告白になるのかな?」
「はい」

 真顔でそう答えると名前さんはぽかんと呆れ顔になり、気難しそうに後頭部を掻いて小さな溜息を一つ吐いた。

「わたしアンタのおむつ替えたことあるんだからな」
「それ10回くらい聞きました」
「じゃあ10回も告白して玉砕してんだね」

 いや、これで11回目になるのか?という彼女の呟きを聞いて、俺はまた振られたのかと我に返り過去の記憶を思い出す。
 初めて告白したのは俺が中一の時だった。好きです、といったシンプルな告白の返事は笑いながらの冗談でしょ?だった。だけど俺の目を真っ直ぐに見つめてそれが本気だと理解すると、すぐさま声色を変えて続けた。「赤ん坊の頃から見てきたし、そういう目では見れないかな」そう言う彼女の目には困惑の色があった。
 ならば、認められるまで。答えは単純明快だった。成長期に背が伸びて身体が大きくなり、セッターとしての知識と技術も格段に上がった。全日本ユースに選ばれて高1年の冬に春高出場し全国ベスト8、その後は全国出場常連校に。プロ入りしてサーブランキング1位になり、オリンピックも経験して自分の名を全国、世界に轟かすようになったが、それでもことごとく玉砕。男として認められるって、これ以上何をすればいいんだ?そんなことを考えながら数年が経ち、今に至る。

「アンタも物好きだね〜その顔で有名人になってんだからモテるだろうに…」
「そんなことないです」
「きっと飛雄が鈍感なんだよ」

 気まずそうに俯く名前さんは声音を変えて、次に口にする言葉を渋っていた。嫌な予感は、瞬く間に的中する。

「美羽から聞いてない?わたし来年結婚するの」

 脳天直撃というのはこういうことか。言葉の意味を理解して頭に雷を撃ち落とされたような衝撃が走る。動揺が顔に出ないよう呼吸を整えていると、俯いていた名前さんが顔を上げて視線がぶつかった。少し照れ臭そうにふふ、と笑いながら髪を耳にかける彼女の左手薬指には、小さな石がきらりと光っていた。

「結婚、ですか。それは…おめでとうございます」
「ありがと」

 伏目がちに返事をする彼女はわずかに頬を染めながら薬指に光るそれを愛おしそうになぞっている。顔も名前も知らないその人を、心から慈しむ様子が見て取れた。

「旦那さんになる人ね、普通の会社員なんだ。だから、顔も肩書きも飛雄の方が断然カッコイイよ」

 内緒ね、と笑う名前さんは俺が今までに見てきた笑顔のどれよりも眩しく輝いていた。
彼女は指輪の贈り主よりも俺を持ち上げてそう話す。だけど俺はその人に勝てなかった。それどころか多分同じ土俵にすら上がれなかった、それが事実。
 息を吸うように己を鍛え、爪先を整え、実力と経験を積んで上へのし上がっても…努力しても、絶対に手に入らないものがある。大人になった今、やっとそれを知ることができた。
 ぐっと拳を握り締め、ゆるゆるとそれを開いてみる。掌には何も無く、十数年の想いが零れ落ちていくように見えた。

「バラエティ番組出るときは「初恋は名前さんです」って言っていいからね」

 取材されるの待ってるから!そう言って白い八重歯を覗かせて笑う顔はあの頃と全く変わらない。それが嬉しくて寂しくて、何故だか無性に泣きたくなった。
 勝手に過去の話にしないで欲しい。だけどそう言えなかった。俺だけがここに取り残されていると、そう思った。

「じゃあ、待っててくださいね」

 俺の中で彼女が過去になるのはいつだろう。瞼を閉じればいつだって彼女を思い出せる気がするのに。
あと何回、夢にみれば気が済むのだろうか。


(20201219/title:失青さま)


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