時間と言葉と彼と彼女

(奥村side)


 どういうわけか顔見知りになってしまった相手は2学年上の苗字先輩。顔を合わせて会話したのは一度きりだったはずなのに、何の因果かあの日以来校内で遭遇することが急増した。

「あ!いつぞやの無礼者!」
「誰が無礼ですか」

 二度目に会った時は昇降口で無礼者扱い。

「青道の体操着似合わないね、ミステリアス美少年」
「変な呼び方しないで下さい」

 三度目は体育のため校庭に向かう途中でジャージ姿をバカにされた。

「元気してる?オオカミ小僧」
「沢村先輩の真似ですか… 」

 四度目は昼休憩に中庭で遭遇し、どこかで聞いたことのある呼び方をされた。
 会うたびに変なあだ名で呼んでくる彼女は、一体何がそんなに面白いのかいつも楽しそうに笑っていた。まるで女版沢村先輩だ。
「変な女」それが彼女の印象だった。

「あ!よく会うねぇ、えーと…」
「考えなくていいですから」

 次に会ったのは職員室の前。敢えて変な呼び方をしようとする彼女に辟易して「そろそろ人の名前覚えてくれますか」と五度目にしてようやくキツい言葉を放ってみる。だけど返ってきたのは、予想外の返事だった。

「知ってるよ、奥村光舟くんでしょ。なんなら漢字も書こうか?」

 まさかのフルネーム呼びと満面の笑み。そのダブルパンチに面食らって、用意していた文句を思わず呑み込んでしまった。変化球にも程がある。
 それなら最初から苗字で呼べばいいのに、なんでわざわざ変な呼び方をするのだろう。そんな不満が顔に出ていたのか「可愛い後輩見るとイジりたくなるんだよねぇ、ごめんね」と聞いてもいないのに理由付きで謝られてしまった。

 俺はいつからこの人の「可愛い後輩」になっていたんだろうか。一体何なんだこの人は。理解に苦しむ。無遠慮に人の懐に踏み込んでくる姿勢が好きになれず、正直苦手だと思った。

「光舟って綺麗な名前だよね」

 教室に戻るまでの道すがら、隣を歩く彼女は唐突にそう切り出した。そうですか?と返すとそうだよ、と笑う。どうやら俺の名前に興味があるらしい。

「初めて出会った名前だから気になるんだけど、光舟ってどういう由来?」
「さぁ…知らないので親に聞いてください」
「じゃあわたしが推理しよう!ん〜…光り輝く人生を、船乗りのように生きて欲しい、とか!?」
「意味が分かりません」
「ブフッ、確かに意味分かんないね…ていうか光る舟ってイカ釣り漁船みたい…ふふっ」
「人の名前で遊ばないでください」

 冷静に返せば今度はアハハ!と声をあげて本気で笑い始めた。本当に失礼な人だ。いつだったか無礼者呼ばわりされた事があったが、俺から見れば苗字先輩の方が充分無礼だと思う。
 そう呆れつつも、屈託のないこの笑顔が不思議と頭から離れないのもまた事実。そしてこの広い校舎の中で遭遇する機会が増えたのは、縁があったわけでも偶然でもなく―――無意識のうちに彼女を探し、目で追っていたのだということに気付くのは、もう少し先の話。

「苗字先輩…?あぁ、姐御か!あの人はキャップの彼女だよ!」

 後々沢村先輩から聞いた話により、苗字先輩は御幸先輩の彼女だと判明。だから御幸先輩が苗字先輩を頼ってスコアブックを届けてくれたのかと、今更ながらに合点がいった。あの時素直に彼女だと申告すれば良かっただろうに、敢えて理由を伏せていたということは御幸先輩の立場を考慮していたのだろうか。
 俺のことは変なあだ名で呼ぶくせに、そういうところは謙虚なんだなと思った。やっぱり変な女だ。





「また明日、練習頑張ってね」
「おー、じゃあな」
「あんまり後輩いじめないでよー」
「うるせぇ」

 それから数日後の部活前、例の二人が一緒にいるところを初めて目にした。苗字先輩を見つめる御幸先輩は部活や寮で見せるものとは別物で、いつもの悪巧みの顔じゃなく、柔らかい表情で笑っていた。
 あの人もあんな顔して笑うんだな、相思相愛とはこういうことか。なんて柄にもないことを考えてしまう。俺が知らない2年間の絆、それを目の当たりにした瞬間だった。  

 ( 信じてなかったわけじゃないけど、本当に付き合ってるんだな )

 苗字先輩の後ろ姿を見つめていると、それに気付いた御幸先輩と目が合った。もしかして見てたのがバレたのか…?
 なんとなく気まずいと思い、つい視線を逸らしてしまう。

「最近苗字とよく会うらしいな」
「はぁ、そうですね」
「イイ女だろ」
「…変な女の間違いじゃないですか?」

 まさかこんなところで惚気られるとは思ってもみなかったので、咄嗟に口から出たのは可愛げのない言葉。
 …まずい、やってしまった。本音とはいえ先輩の彼女に対して余りにも失礼だ。てっきり怒られるかと思って身構えたが、当の御幸先輩は機嫌を損ねるどころか腹を抱えて笑っていた。

「はっはっは!もうバレてんだなー」
「自分の彼女なのに否定しないんですね」

 呆れて溜息が出た。この人たちは揃いも揃って、どうしてこうも笑ってられるんだ。やっぱり付き合っていると感覚が似てくると聞くし、似た者同士になるのだろうか?
 呑気にそんなことを考えていると、ふぅ、という溜息と共に空気が変わった。それにハッとして顔を上げると、鋭い視線が俺を射抜く。

「…アレは譲らねぇからな」

 声音は変わらない。だけど目は笑っていなかった。本気か冗談かなんて、考えなくても分かる。手を出すな、そう牽制されたのだ。

 譲らないなんて、わざわざ口にしなくたって何の心配もないだろうに。あの人は俺のことを「可愛い後輩」としか認識していないのだ。万が一にも自分に勝ち目なんてあるわけがないのに。そんな事を考えてしまい、自分の感情に戸惑った。なんで、今になって。

「…っ!」

 この人は気付いていたというのか?全てを見透かされたような気がしてカッとなり、思わず目を逸らしてしまった。 






 次に苗字先輩を見かけたのはその翌日。昼休憩時間、校舎内の自販機の前だった。昨日の御幸先輩とのやりとりが脳裏を掠めてなんとなく気まずい。見つかる前に退散してしまおう、そう思った矢先に見つかってしまった。本当に間が悪い。

「聞いたよ、背番号貰ったんでしょ?1年の夏からベンチ入りってすごいじゃん!」

 小走りで駆け寄ってくる苗字先輩は、嬉しそうに笑いながら俺の腹を肘で小突いてきた。地味に痛いその攻撃に、やめてくださいと言いながら距離を取る。この人、いつの間にこんなに馴れ馴れしくなったんだ?
 そうは思っても、この頃には近付かれて触れられるのは嫌じゃないと感じるようになっていた。…ただ、それを自覚するのが癪だった。

「…御幸先輩は1年生で正捕手だったらしいじゃないですか」

 賞賛を素直に受け入れるのが気恥ずかしく、つい棘のある返事をしてしまう。こういう時素直に受け入れられたら良いのだろうが、我ながら捻くれ者だと思う。だけど、返ってきたのはどこか哀しげな色を含んだ表情だった。

「まぁ…御幸は色々あったから」

 あれでも一応苦労してたんだよ、そう続ける彼女は苦しそうに笑っていた。俺の知らない2年間が、また目の前に立ちはだかった気がした。

「奥村くんも、先輩を差し置いて背番号貰うプレッシャーがあると思うけど…無理しすぎないでね」
「…はい」
「まぁ、とりあえずご飯食べるとこからだね!」

 あと2年もあるし!そう言って励まそうとする様子にふつふつと湧き上がるものがある。自分たちは引退、卒業するけど君はまだ先が長いから頑張れ。そう言われた気がして自然と腹が立った。本当に、自分勝手だ。

「俺は…」
「ん?」
「御幸先輩にも負けないつもりです、あのポジションも奪うつもりですから」

 今まで好き勝手に近付いて踏み込んできたくせに、急に距離を取ろうとするその態度が気に食わない。散々振り回されたこっちの身にもなってくれ。そんな苛立ちから、気付けばいつか御幸先輩に宣言したことを再度口にしていた。
 怒るだろうか、それともバカにされるだろうか。しばらくぽかんとしていた苗字先輩は、すぐにその言葉の意味を理解したようで「ほんと御幸が言う通り生意気!」と、またしても笑った。

「沢村にも消えろとか言ったんでしょ?知ってるんだからねー」
「くっ…」

 今度は悪い顔で黒歴史をいじられる羽目に。どうして今その話を…というか何故苗字先輩にバレてるんだ。
取り返しのつかない事とはいえ、確かにあの発言は自分でもまずかったと思う。こればかりは軽蔑されるかも知れない…そう思ったが、それも杞憂だったようだ。

「ちょっとくらい笑ってみたら?」
「な…っ、」

 穏やかに笑いながら、何の躊躇いもなく俺に伸びた手が頬に触れる。笑わせようとしているのか、ムニムニと両頬の肉を引っ張られた。これがまた地味に痛い。
 やめてください、と頬を掴む彼女の手を剥がそうと、初めて自分から彼女に触れる。想像していたよりも薄く、柔らかく、滑らかな肌で、華奢な指。当たり前だけど年下の俺よりも小さい手だな。触れながらそんなことを考えていると、何を思ったか苗字先輩は大きさを比べるようにピッタリと掌を重ねてきた。

「大きい手だねぇ、さすが捕手」

 無邪気に手を取り、まじまじと見つめられる。だけど、その視線の先にはきっと御幸先輩がいるんだろう。
 瞬きをする度に長い睫毛が揺れる。それに目を奪われて動けない。出来れば気付きたくなかったその感情が、止めどなく溢れて仕方がない。この人は、俺がどんな目で自分を見つめてるかなんてこれっぽっちも気付いていない。なんて鈍感で、酷くて、罪深い人なんだろう。

「ねぇ、いい加減そうやって先輩を睨むのやめてくれる?」
「睨んでません」
「睨んでるよ」
「…時間を呪ってただけです」
「はぁ?何それ」

 意味分かんないから!と言いながらケラケラ笑う顔を見て、また胸が痛む。どうして、この人と2年も歳が離れているんだろうか。屈託なく笑う彼女と過ごせる時間は、もう1年を切っている。それを考えるともどかしくてやるせなくて仕方がない。

 だが、この歳の差があるからこそ、俺たちは出逢うべくして出逢い、こうして顔を合わせて会話するようになったこともまた事実。苗字先輩が御幸先輩の彼女で、俺が御幸先輩の後輩でなければ、きっとこうして関わることなんてなかったはずだ。ただ、それに気付いたところでどうしようもない。

 だけどこの感情だけは、紛れもなくここにある真実なのだ。


(20210130)

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