陽の降りそそぐ場所

 3月。東京へ来て三度目の春を迎えた。

 念願の甲子園出場を果たした我が青道高校はセンバツで全国ベスト8という成績を残した。とは言え結果は準々決勝敗退。わたしからすれば拍手を送るほど喜ばしい結果だけど、果たして選手のみんなはこの結果をどう受け止めているのだろう。甲子園での応援を終え、一足先に東京へ戻ったわたしにはそれが分からない。

 惜しかったね、頑張ったね、良い試合だったよ?御幸にかける言葉としてどれを選ぶべきか悩んだ結果、

【お疲れ様、東京で待ってるね】

 そうメールを送り、自室のベッドに寝転んで瞼を閉じた。目に浮かぶのは甲子園の景色。また、夏にあの舞台へ立って欲しい。
 期間的にはまだ春休み中である3月30日。野球部が東京へ帰省したのを知ったのは【今帰ってきた】という御幸からのメールだった。

【ミーティングしたあと午後は丸々オフだから少し話したいんだけど】

 続けてそう連絡が入り、すぐさま返事をしてケータイを閉じる。それから1時間後、待ち合わせ時間にマンションの下に降りると御幸がエントランス前でわたしを待っていた。
 この男が昨日までテレビの中で活躍していたと思うとなんだか不思議な気分になる。たった数日間ではあるものの、甲子園という夢の舞台を経験してきた影響か、身に纏う雰囲気が少し変わったように見えた。

「おかえり」
「ん、ただいま」

 はたから見れば夫婦かとつっこみたくなるような挨拶を交わし、彼の元へ小走りで駆け寄っていく。ジャージ姿の右肩にはバットが担がれていて、帰ったばかりだというのに相変わらずの野球中毒ぶりに思わず笑いが溢れてしまった。

「帰ってきて早々に素振り?ていうかそれ持ってきたんだ?」
「この後場所探してちょっと振ろうかと思ってな。あっちもこっちも野球部だらけでいい場所ねぇんだよ」
「ほんと努力してる姿見せたくないんだね、強がり〜」
「うるせぇ」
「それならいいとこあるよ」

 誰にも見つからない場所。そのキーワードに名案が浮かび、着いてきてと言いながらマンションのロビーへ招き入れる。どこ行くんだ?と不思議がる御幸をもったいぶりながら、オートロックを解除してエレベーターで屋上まで移動。

「こんなとこあったのか…」
「なかなかいーでしょ」

 到着した先は住人共用スペースの屋上庭園。扉を開けて奥へと案内すると、落下防止のフェンス越しに青道高校が一望できる景色に驚いていた。

「どう?ここなら誰にもバレないよ」
「…こういうとこって素振りやってもいいのか?」
「んー…まぁ今なら誰もいないし。バットすっぽ抜けなかったら大丈夫でしょ」
「でもお前見てるだけで暇じゃね?」
「別に?見てるの面白いから飽きないよ」
「ふーん…そんじゃーお言葉に甘えるとするかな」

 その気になった御幸を横目に見ながら傍にあったベンチに腰掛け、素振りを始めた彼をじっと眺めてみる。通学路である土手からグラウンドを眺めることはあったけれど、こんなに近距離で練習風景を見る機会は殆ど無い。いつになく真面目な顔をしてひたむきにバットを振る様子は、素人から見てもなかなか新鮮で見応えがあった。
 この一振り一振りが夏に繋がると思うと一分一秒でも無駄に出来ないんだな。改めてそう思った。

「ふぅ…ちょっと休憩」

 しばらく続けた素振りを辞め、首にかけたタオルで汗を拭いながら溜息を一つ。こうして疲労の色を見せる弱った御幸もなかなかレアで面白い。
 そういえば何も飲み物持ってきてなかったな、下の自販機でスポドリでも買ってこようか。そう思い立ち上がった瞬間、目が合ってちょいちょいと手招きされた。

「なに」
「ひざまくらして」
「はぁ?」

 語尾にハートマークが見えそうな声でそうおねだりされ、予想もしない展開に思わず間抜けな声を発してしまった。しかし甲子園での戦いを終えたばかりのまたとない彼の要望だ。今日くらい何でも聞いてあげよう、そう思い御幸に近づいてタイルデッキに腰を下ろす。膝を伸ばして座り、掌で太腿あたりを示しながらどうぞと声をかける。御幸は嬉しそうにそこへ頭を乗せてきた。
 誰の視線も気にしないで済むからなのか、こうしてふざけながら甘えてくるのもまた新鮮。春のぽかぽか陽気に当てられて、時折頬を撫でる風も心地良い。なんだか眠たくなってくる。風が吹くたびにふわふわと揺れる髪の毛を撫でると、くすぐったいのか目を細めて彼は笑った。

「やべー、幸せだわー」
「どうしたの今日は…」
「たまには甘えたっていいだろ」

 口を尖らせてそう呟く様子にこっちが恥ずかしくなってしまう。ダメだ、今日は甘すぎる。

 2年前の春、初対面で泣かされた相手が今、自分の膝枕でくつろぎながら甘い言葉を囁いている。こんな未来を一体誰が想像しただろう。
 ここへ来るまでにいくつかの別れがあったけど、代わりに新たな出会いもあった。そのうち一つはこうして御幸に出会えたこと。見知らぬこの地で、こんなにも愛しく、心を揺さぶられる相手に出会えたことは奇跡に近いとさえ思う。人生何が起きるか分からないとはよく言うが、本当に不思議なものだ。

「2年前の自分には想像つかなかったな」
「は?」
「だって本当なら東京に来る予定じゃなかったし。おばあちゃんが御幸に会いなさいって、背中押してくれたのかな」

 あの日御幸に出会わなければ、おばあちゃんの話をしなければ、涙を流して御幸に助け舟を出してもらわなければ。わたしはいま、こうしてここにいなかったかもしれない。

「…会ってみたかったな、お前の婆ちゃん」
「御幸のこと大好きになってたと思うよ、高校野球ファンだったから」
「ははっ、マジで?」

 笑う御幸につられてわたしも笑っていると、御幸は何かを思い出したように「そう言えば」とジャージのポケットから見覚えのある薄ピンク色の布袋を取り出した。わたしが夏大決勝戦前夜に渡した、あのお守りだ。

「結局センバツ終わるまで借りっぱなしだったわ」
「秋大優勝にセンバツで全国ベスト8、まぁまぁご利益あったね。学業お守りだったけど」
「そうだな」

 苗字の婆ちゃんありがとう。目を閉じながら空へ向かってそう呟く御幸に、自然と口元が綻んだ。

 いつか御幸にも。喜びも哀しみも、強がりも弱音も、全てを打ち明けられる、ひだまりみたいに暖かい場所ができるといい。生意気だと陰口を叩かれていた1年生の頃、彼の孤独に触れた時、そう思った。
 だけど今は違う。倉持にゾノくん、川上くんに渡辺くん、名前を挙げればキリがないけど、御幸の周りにはぶつかりながらも支え合っていける仲間がいる。彼を頼ろうとする後輩がいる。御幸は、もう一人じゃないんだ。

「ほんとはね、薬師との決勝戦終わった後、御幸が倉持とゾノくんに支えられてるの見て、わたしなんか必要ないんじゃないかって思ったんだ」
「…んなことねぇよ」
「うん、御幸は俺の特別になって欲しいって言ってくれたけど、わたしの特別でもいて欲しいから」

 ひだまりみたいな場所。いつしかわたし自身がその場所を切望することになってしまったが、紆余曲折しながら今、念願叶ってここにいる。御幸の隣は、わたしの場所だ。これは誰にも譲れない。

「これからも傍にいてくれよ」
「もちろん、そのつもり」

 何でも聞いてあげるからどんとこいですよ。胸を叩いてそう言うと、御幸は再度わたしに向かって手招きした。

「こっち。もっと近付いて」
「今度は何…」

 かがんだ瞬間頭を引き寄せらせて唇を奪われる。触れるだけのそれを終えると、照れる間も無く、彼は優しく笑いながらわたしの名を呼んだ。

「好きだよ、なまえ」
「…その顔でその言葉は、反則でしょ…」

 たまらず掌で顔を覆い、天を仰ぐ。何でも聞いてあげると言ってはみたものの、これは予想外。こうもハッキリ言葉をぶつけられる事にこれほど破壊力があるとは思わなかった。
 未だ熱を帯びる頬を掌で押さえ、必死に平常心を取り戻そうとするがまだ無理だ。そんなわたしを見てくつくつと笑う御幸が生意気で、思わず「こうしてやる!」と叫びながら彼のメガネを取り上げていた。

「あ、オイ!」
「ふふ…やっぱり素顔見られるの恥ずかしいんだ?」
「返せって」
「嫌だ。もっと見せてみなさい」

 がばりと起き上がった御幸は恥ずかしそうに手で顔を覆い、わたしの手中にあるメガネに手を伸ばす。それをひょいと避けながら、仕返しとばかりにニンマリ笑ってみせた。
 顔を赤くする御幸の様子が面白くて可笑しい。笑いながら素顔を覗こうとするが、近付いた瞬間不意を突かれて再び唇を奪われてしまう。あぁ、この空気はダメになるやつだ。

「…ねぇ、素振りしなくていいの?」
「あとでやるよ」
「ホントに思ってる?」

 悪意を込めてそう言うと、素顔の御幸がふっと笑う。頬に伸びてきた御幸の手が優しくわたしを包んで、また距離が近くなる。
 目を閉じると触れては離れを繰り返し、その度に深くなっていくそれに酔って満たされる。まるで世界に二人だけだと錯覚してしまいそうだった。

 植え込みのオリーブの葉が風に吹かれて静かに揺れる。葉の隙間から差し込む陽の光が柔らかな木漏れ日となり、キラキラとわたしたちを照らしていた。


(20210121/fin.)

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