108という数字

「年末年始は地元帰んのか?」
「ん〜今年は親の都合で帰らないっぽい」
「じゃあ東京で初の年越しか」
「そうなるね」

 冬休み前の教室で確か苗字は倉持とそんな話をしていた。ふーん、今年は地元帰んねぇのか。こっちで年越しすんのね。てことは大晦日も正月もあのマンションにいるわけね。
 机に肘をつき外を眺めるフリをしながら聞き耳を立て、ついついヨコシマなことを考えてしまう自分がいた。

「30日まで冬合宿で翌日から実家帰るんだけど…31日の大晦日、俺んち遊びに来る?」

 あれから数日。今日まで何度も脳内シュミレーションしたセリフを二人きりになったタイミングを見計らって彼女に告げる。
 よし。噛まずに言えたな、なんて緊張と焦りが顔に出ないよう必死に冷静を装いながら苗字の反応を待つと、返って来たのは予想に反したものだった。

「いいの?行く!」 

 滅多にない俺からの誘いだったからなのか、苗字は目を輝かせてそう言った。
 あれ、意外な反応。もっと照れたり恥ずかしがったりするかと思ったんだけど。こいつ、家に呼ぶってどういう意味か分かってんのか?あまりにトントン拍子で進んでいくせいで逆に戸惑ってしまったが、楽しみが出来たおかげで地獄の冬合宿を乗り越えられると思い、とりあえずよしとした。
 まぁ、結局は合宿最終日あたりで満身創痍になり、浮かれる余裕なんてこれっぽっちもなかったけど。

 


* 
 



「あ、倉持おつかれ〜死ぬ死ぬ言ってた割にみんな元気そうじゃん」
「昨日死んで今日生き返ったわ。つーかなんでここにいんだよ」

 12月31日。冬合宿を終え、西国分寺駅へ向かうと待ち合わせ時刻より30分も早く改札前で苗字が待っていた。なんでこんな早い時間から待ってんの!?そんな焦りを他所にぞろぞろと歩く野球部の帰省集団は良くも悪くも目立ってしまい、俺が声をかけるより早く苗字が倉持に声をかけていた。

「聞いてない?今から御幸の家に、」
「あーー!!苗字さん!どうしたのかな今日は」
「はぁ?改札前集合って言ったの御幸でしょ」
「おーおー、合宿終わった途端にデートかよ」
「いやいや、家に遊びに行くだけだから」

 デートって、そんな大袈裟な!と笑う苗字とは対照的に、倉持は雷に打たれたような衝撃を受けて固まってしまった。最悪だ。よりによって一番知られたくない奴に知られちまったじゃねーか。野球部の奴らと鉢合わせないようわざわざ待ち合わせの時間ずらしたってのに、これじゃ全部水の泡だ。

「オイ、何でバラすんだよ…!」
「はぁ?なんで?」

 思わず苗字を引き寄せて耳打ちするが、「そういうのもう気にしなくていいって言ったの御幸じゃん」そう言って不機嫌になる様子にぐうの音も出ない。いや確かに言ったけど。言ったけども!

「おい聞いたか?実家に苗字を連れ込むらしいぞ」
「ついに御幸が大人の階段を…!」

 ざわ…!と途端に騒ぎ出す2年生の面々にしまったと思うがもう遅い。倉持とゾノを筆頭に好き勝手に話を膨らませ、気付いた時には手遅れだった。
 慌てて弁解しようとするもナベには気まずい顔をされて目を逸らされるし、ノリと白洲は苦笑いで俺を見つめるばかり。麻生に至っては舌打ちをしながら俺を睨んでいた。

「あ〜〜〜だから嫌だったんだ!ハイもう行くぞ!」
「えっ、ちょ、待って!」

 一刻も早くここから立ち去りたい俺は苗字の腕を掴んで改札を抜けた。良いお年を〜!と叫びながら俺に引き摺られていく苗字は相変わらずマイペースに笑っている。
 全く、こっちの気も知らないで呑気な奴だな…そう思いながら一度だけ後ろを振り返ると、健闘を祈ると言わんばかりに倉持とゾノが無表情でこちらに向かって敬礼していた。いいからもう放っといてくれ!









 電車を乗り継いで最寄駅に降り立った苗字は「御幸一也という人間はこの地で生まれ育って性格の悪い捕手に成長したんですね」なんて言いながら隣で嬉しそうに笑っていた。それから徒歩で帰路を辿り実家に着くと、今度は「御幸スチールって書いてある!」なんて興奮したり、親父に挨拶した後は工場の中を興味津々に見渡したりと、とにかく見るもの全てに反応していちいち忙しかった。

「は〜やっと着いた…何か飲むモン出すから適当に座ってて」
「うん、ありがとう。お邪魔しまーす」

 合宿疲れで全身バキバキの身体に鞭を打ちながら2階へと続く階段をやっとのことで登る。俺に続いてリビングに足を踏み入れた苗字は物珍しそうに部屋を見渡しながら目を輝かせていた。
 下町の普通の家だってのに何がそんなに面白いのか。そんなことを考えながら彼女のために入れたお茶をテーブルの上に置いた。

「別に何も面白いモンなんかねーよ」
「いやいや、全部新鮮で面白いよ」

 御幸がどんなところでどういう風に育ってきたか、それがここに全部詰まってるんだもんね。そう言いながら嬉しそうに笑うから、そういうもんか?と納得しておくことにした。
 それから俺の生い立ちが見たいと言う苗字のために押し入れから引っ張り出してきたアルバムを床に広げた。生後間もない頃の写真から、幼少期、小学校の入学式、鳴と出会った頃のシニア時代なんかの写真の数々。久々に見返すこともあってか、自分でもどこか新鮮だった。

「うわ!この御幸可愛い〜」
「だろ?」
「なんでこんな生意気でムカつく顔に成長したんだか…」
「オイ」

 ページをめくる度に子供のようにはしゃぐ姿を眺めながら、こいつ本当俺のこと好きだよなぁ、なんて一人こっそり自惚れてみる。
 そんなことを考えているとページをめくる彼女の手が止まり、「あ」と小さく呟いた。

「あー…うん、これが母親」
「この人が御幸のお母さん…」

 透明なフィルムの上から手を添え、切なそうに笑う彼女の顔を見つめていると何とも言えない気分になる。たまらず近付いて床に手を着くと、ぎし、と小さく音を立ててフローリングが軋んだ。

「…なまえさん?」
「ん、何?」
「あの〜こういう時はできれば目を瞑って欲しいんですけど…」
「はい?」
「…普通に考えてキスだろ、ここは」
「えっ、ごめん」

 はいどうぞ、と言いながら目を閉じる様子が何とも滑稽に思えて「…やっぱ辞めとく」と言いながら静かに苗字から距離を取った。

「なんか前にもこういうことあったな」
「投手へのリードは上手くても彼女へのリードは下手くそですね」
「上手いこと言った風な雰囲気出すな」

 ふふ、と笑う彼女に今更恥ずかしくなって溜息を一つ。よく考えてみたら工場に親父もいるわけだし、自分の家だと思うと何か調子狂うな。
 気まずい空気を誤魔化すように湯呑みに手を伸ばして一口お茶を啜る。それを見た苗字も同じようにお茶を口に運び、飲み終わるとその場に正座しながらやけに真面目な顔をして口を開いた。

「わたしね、御幸になら何されたっていいと思ってんの」
「ブフッ!」

 突然の告白に驚いて思わずお茶を吹き出してしまった。いきなり何言い出すんだこいつは。
 慌ててティッシュを2、3枚手に取り濡れた床を拭こうとするが、苗字は動じることなく話を続ける。

「けど、一回それ許しちゃったら、寮で野球漬けの残りの現役生活が辛くなると思うんだよね」

 だから引退するまでそういうのなしね。そう続ける彼女にパチパチと瞬きを繰り返しながら頭の中を整理した。
 要は来年の夏が終わるまで手を出さない、そういう約束をしたいらしい。

「…ダメ?」
「ん、分かった」

 迷いのない目で見つめられて思う。やけに落ち着いてるところを見ると、随分前から考えてたのかもしんねーな。
 夏が終わるまで、か。となると手を出すのは当分先だな。どこかホッとしたような残念なような、そんな複雑な思いで残りのお茶を啜る。だけど「キスならいつでもいくらでもいいよ」と笑う彼女には思わず口元が引き攣ってしまった。
 いくらでも、と言われてもな。それ以上の事が出来ないと分かりながらキスし続けるってのは男としては逆に辛いんだけど。

「耐えるしかねぇか…」
「はい?」

 この顔を見る限り、計算して弄んでるわけじゃなさそうだ。多分、この女はそういうの分かってねぇんだろーな。


(20210115)

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