つわものは揺るがない

 真っ白になった頭を現実に引き戻したのは球場を揺らすほどの歓声だった。膝をついて泣き崩れる周りのみんなを見て敗北を実感した瞬間、俺は思わず空を仰いだ。あの時見た空の色は、この先ずっと忘れられないと思う。
 整列を終えてスタンドへ駆け寄ると苗字は泣きそうになるのを必死に堪えて歯を食いしばっていた。負けた奴になんて声をかければいいか分からないんだろう、俺だって逆の立場だったらそう思う。
 あと1勝。それがどれだけ高い壁なのか、この夏再び胸に刻まれた気がした。

「俺、ですか」

 それから二日後の夜、監督に呼び出されて次期キャプテンの指名を受けた。試合に負けた悔しさを消化しきれない中喜んでいいものかどうか迷ったが、やっぱり認められたということは素直に嬉しい。あいつに言ったらどんな反応をするだろうか、そんなことを考えながらキャプテン就任を誰よりも早くメールで伝えたのに、苗字から返ってきたのは予想外の文章だった。

【ほんとに御幸?ゾノくんじゃなくて?】

「…ハァ!?」

 当然のように「おめでとう」を期待していた数分前の自分を殴りたい。その瞬間、人生で初めて壁に向かってケータイを送球した。思わず発した怒号と突然の行動にルームメイトの木村がびくりと震え、俺は堪らずその場に寝転んで目を覆った。
 そうだ、こいつはそういう女だ。最近妙に甘い雰囲気になることが多くてうっかり忘れてたけど、本来はここぞという時に可愛げがなくて一筋縄じゃいかない奴だったな。

「あ〜クソ、カッコ悪りぃ…」

 いつだったか、苗字に付き合ってもらい修理に出ししたそれを自分で投げて自分で拾う。そんな情けない行動に最早笑いさえ込み上げてくるが、その夜は怒りと恥ずかしさでなかなか眠れなかった。







「あ、いた。おはよ」
「…おー」

 翌日、休み明けの朝練を終えて食堂に向かう途中、会いたいけど会いたくない奴に出くわした。その口ぶりからして、どうやら俺を待っていたらしい。

「夏休みの朝っぱらからなんでこんなとこにいんだよ」
「散歩?」
「まだ7時過ぎだぞ?婆ちゃんかよ」
「ん〜新キャプテンの浮かれた顔でも拝もうかなって」
「………」

 誰が浮かれてるって?昨日のメール、まだ根に持ってんだぞ。そう言わんばかりに無言で睨むとさすがに悪いと思ったのか苦笑いでごめんごめんと謝られた。お前のせいでこっちは寝不足なんだぞ、本当に反省してんのかよ。

「冗談だって、キャプテン就任おめでとうって言いにきたの」
「へぇ?どっかの誰かさんは俺よりゾノの方が適任だと思ってたみてーだけどな」

 出来れば昨日貰いたかったその言葉にやっぱり嬉しいもんだなと実感するが、どうしても棘のある言葉を返さずにはいられない。あれ、俺ってこんなに器の小せぇ奴だったっけ?

「だからごめんって。だって投手陣のまとめ役しながらリードも考えなくちゃいけないのに、これ以上仕事増やしたら倒れちゃうんじゃないかと思って」
「なんだ、心配してくれてんの?」
「一応ね」

 けど、これからはもっと忙しくなるね。そう呟く苗字は風に靡く髪を耳にかけながら野球部専用グラウンドを見下ろす。俺と同じように朝練を終えて食堂に向かおうとする部員達を眺めながら、まるで慈しむように微笑んでいた。

「こいつら試合負けたばっかで二日も休みあったのに相変わらず練習してたんだぞ」
「うん、見てたよ。この二日だけじゃなくて一年中ずっとバット振ってる野球馬鹿」

 ふふ、と笑いながら彼女は続ける。

「テレビで甲子園見る度に、あの舞台に立って笑ってる人たちは誰よりも努力して汗水流して馬鹿になってるはずだって思ってた。カメラが回ってない場面でのドラマなんて、きっと計り知れないよね」
「…そうだな」
「わたしが野球の神様だったら、そういう馬鹿たちを甲子園に導くけどね」

 あんなに頼れる先輩達がいたって届かなかったんだ、どんだけ馬鹿になれば夢の舞台に立てるんだろうな。先の見えないゴールに目眩がしそうになるが、目標は高い方がいい。そう思わずにはいられなかった。

「御幸」
「ん?」
「あんまり言いたくないけど言うね」
「何だよ、改まって」
「…今まで以上にしんどいと思うけど、頑張ってね」

 頑張れ。それは苗字が嫌いな言葉。決勝戦前夜ですら言わなかった言葉を今ここで口にする覚悟を目の当たりにして、思わず目を見開いた。もう充分頑張ってるんだけど、どうしても言いたかったから。そう続ける彼女に思わず笑いが込み上げる。

「ははっ、苗字にそう言われちゃやるしかねーな」
「バカ、わたしが言わなくてもやんなきゃなんないの!」

 そう叫びながら突然近寄ってきたかと思えば、どこに隠し持っていたのかデカビタを俺の腹にぐりぐり押し付けてきた。いつから準備してたのか、すでにぬるくなっているそれを受け取りながら溜息を吐く。

「お前なぁ、もっと可愛げのあるモンなかったのかよ…」

 しかもまた甘いヤツじゃねーか。こないだから捻りがねぇなぁ…そうは思ってもこの女といると飽きないのが事実だった。
 借りていたお守りをポケットから出し、太陽に向かって翳してみる。朝日に照らされた朱色の刺繍がきらきらと光っていた。

「せっかく貸してくれたけどまだ返せねーわ」
「しょうがないから秋大まで延長させてあげる」

 後ろを振り返ってる暇なんかない、俺らは前に進むしかねぇもんな。


(20201217)

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