あの子の背中

 電話帳を開いて発信ボタンを押すだけの単純な作業、かつてこれほどまでに緊張したことがあっただろうか。
 震える声を必死で抑えながら要件を伝えることに徹するが、逸る心臓に気を取られてそれどころではなかったかもしれない。

『大会前の忙しいときにごめん、急で申し訳ないんじゃけど今晩時間作れる?』

 ちゃんと言えていただろうか、動揺が伝わっていなかっただろうか。そんな不安を抱えながら指定した待ち合わせ場所へ急ぐと、部活終わりの彼が公園のブランコに腰を下ろして待っていた。
 約半年ぶりの再会、だけどそれも今日で終わりになるかもしれない。身勝手な理由で終焉を迎える準備をしていたわたしに、彼はなんと言うだろう。

「金曜の夜にいきなり帰省するとかどしたんや」
「うん、忙しい時にごめんね」

 隣のブランコに腰掛けて呼吸を整える。夏大前の大事な時期にこうしてわざわざ時間を作ってくれているんだ、一秒だって無駄にさせたくない。そう分かってはいるけれど、帰路を辿る新幹線の中で何度もシュミレーションした言葉がなかなか出てこない。
 怖い。自分の心変わりに尻軽女だと罵られてもおかしくないし、客観視すればそれくらい言われたって当たり前だとも思う。だけどやっぱり竦んでしまう。倉持の前で見せた威勢の良さはどこへいったんだ。

「言いたいことあるんじゃろ?はよ言えや」

 なかなか話を切り出さないわたしを察して、彼は溜息混じりに笑った。言葉は乱暴だが、声色は優しい。
 先陣を切ってくれたその優しさに、泣きたくなった。

「ごめん、今年の応援は行けん。わたし、他に好きな人ができた」
「…例のあいつか?」
「うん…」

 まっすぐに見つめて問いかけられたのは「あいつ」という言葉。半年前の冬から彼が口にしていた三人称が示すのは、御幸以外の何者でもなかった。
 心臓がうるさい、足が震える、なんて言われるんだろうか、怖い。ごくりと唾を飲み込んだ音がやけに頭に響く。
しばしの沈黙を破ったのは、彼の盛大な溜息だった。

「は〜やっぱりなぁ…いつかこうなる日が来ると思っとったわ」

 予想に反した反応、それに驚いて声を失う。
 気付いてた?いつから?わたし、そんな素振り見せてた?
 ぐるぐる回る思考の隅に去年の冬の記憶が蘇る。「そいつのこと気になるんか?」あの時見せた表情が脳裏を掠めた。
 もう半年も前になるのに、あの河原で話した時からこうなることを予想してたというのだろうか。

「この時期にいい度胸しとんなぁ」
「う…それは本当、悪いと思っとる」

 でも、中途半端な気持ちで応援したくなかったから。そう続けると、ほぉーん?という意味深な感嘆詞が返ってきた。それはどういう感情なんだろうか。

「…もう付き合っとるんか?」
「そんなわけないじゃん、告白すらしとらんし」
「へぇ…二股しとった訳じゃないんか」
「当たり前じゃろ!」

 なんでわたしが怒ってるんだ。冷静になって一人脳内ツッコミ。
 もしかして疑われてた?気持ちが揺らいでいたとは言え、そんな非常識なことするわけないのに。
 昂った感情をどうしていいか分からずブランコの鎖を握っていた手に力が篭る。そんなわたしを見つめた彼は、何を思ったのかふっと笑い、座っていたブランコから腰を浮かせて立ち上がった。

「よし、俺が振っちゃるわ」
「は?」
「別れるで、重荷になるつもりないって言ったじゃろ」

 頭がついていかなくて再び言葉を失っていると夜風が頬を撫でる。じめっとした、夏の匂いがした。
 普通なら機嫌を損ねてしまう場面なのに、この人は自分が悪者になろうとしてくれているのか。それに気付いた時、わたしの口から漏れたのはあまりにも単純な返事だった。

「…ごめん」
「謝るなよ、俺が振ったんじゃけぇ」
「うん」

 堪えきれずに溢れてくる涙を拭ってると、彼はわたしに歩み寄り頭を撫でた。ぽんぽん、と優しく触れる掌は出会った頃から変わらない温もりをしていた。

「頑張れよ」
「…うん、ありがとう」
「泣かされても慰めてやらんぞ」
「うん、うん」

 どこまでも優しい、優しすぎる彼に、頼りすぎて任せすぎて、結局最後までおんぶに抱っこだった。だけどこんな人だから、好きになった。
 東京になんて行かなければこんなことにはならなかったかもしれない。でも、生意気で口の悪い彼に出会ってしまった、好きだと気付いてしまったんだから、もうどうしようもなかった。

 今まで気付かないふりをしていた気持ちに向き合って、結局こうして大切な人を傷付けてしまったけど、その想いは無駄にしたくない。
 彼が背中を押してくれたように、頑張って一歩踏み出そう。そう思った。


(20201211)

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