3.

「一生のお願い! お願いおねがーいっ!」

 学生食堂に響く声。ちょっと声が大きい! と私は人差し指を口元にあて、高校からの友人である彼女を落ち着かせるべく言った。事のあらましは、他学科の男子との合コンに人数合わせで来て欲しい、とお願いされたところから始まる。
 大学に入ってすぐの頃、誘われて何度か参加した似たような会があんまり楽しくなかったこと、男子も女子もなんだかとてもギラギラとしていて疲れてしまったので、以来その様なお誘いは断るようにしていた。嫌いとか苦手という以前に、どうしようもなく面倒くさいと思ってしまったからだ。

「名前があんまりこういうの好きじゃないって知ってるよ、でも急に女の子一人具合悪くて不参加になっちゃって、他に誘えそうな子もバイトとか予定とかあったりして」

 と、まあお決まりの流れだった。
 たしかに、この子は私がいわゆる合コンをあまり得意としていないことを知っていたし、それに気づいてからはあえて声を掛けないようにしてくれている。もちろん悪い子ではないし、高校からの友人なのでそこそこ付き合いも長い。そして、ほんとうに切迫詰まっているのだということがわかる。

「こんなことで一生のお願い使っちゃうのもったいないよ」

 しょうがないなあ、という私の返事を聞いた彼女はパッと目を輝かせ、お互いを隔てたテーブルなんてなんのその、それを乗り越える勢いで思い切り抱きついてきた。

「ありがとう! あーもう名前大好き! あたし今日の合コンで名前狙うから!」
「はいはい、もう本当に今回きりだよ」

 よしよしとあやすように彼女の背中を撫でながら、我ながら必死なお願いに弱いなあと心の中で苦笑いする。面と向かって言われてしまうと、どうしても「助けてあげなきゃ」という気持ちになってしまうのだ。
 でもまあ、ありがたいことに今日は金曜日だし、あとひとつ講義を終えてこの飲み会を乗り超えたら土曜日である。がんばろう、と心の中で自分のおしりをたたいて喝を入れた。


***


 男子側が予約していたのは大学の最寄駅にほど近い和風居酒屋の個室だった。いかにも合コン、と言った感じに男女に分かれて向き合う形で座っている。手前の端に座った私の目の前の席が空いていたが、どうやら一人遅れて来るとのことだった。

「それじゃあ自己紹介しまーす! オレは教育学部スポーツ科学科の」

 幹事らしき男子が声をあげた時、背後にある引き戸が開いた。

「ワリ、遅れた」

 私は控えめにちらりと後ろへと視線を向ける。どこかで聞いた事のあるような声。それもそのはず、入ってきたのは三井寿その人だったからだ。
 ぱち、という音が聞こえるんじゃないかというくらいバッチリと目が合った。私が三井くんに気がつくと同時に、彼も私の存在に気がついたようで「え?」と小さく声を漏らし、驚いたように目を見開く。たぶん、というか十中八九寸分たがわず、それこそ鏡のごとく私も彼とおなじ顔をしていたに違いない。三井くんはちょうど空いていた私の前の席に座った。

「お待たせしましたあ」

 間延びした女性店員の声と一緒に生ビールがいくつかと、女子の誰がが頼んだであろう軽めのアルコールドリンクが運ばれてくる。私はビールがあまり得意ではないので、ウーロンハイを注文していた。改めて乾杯の音頭が取られ、順番に手短な自己紹介を済ませると、そこここで会話が盛り上がり始める。

「……いると思わなかった」

 そう切り出したのは三井くんだった。彼は「苗字さん、こういうのに参加しそうなタイプに見えねえから」と付け足してからグイッとビールを飲む。お通しで出てきた枝豆をかじりながら、私は思わず苦笑いした。

「高校からの同級生に出てってお願いされちゃって、だからただの人数合わせ」
「なんだ、オレと一緒か」

 どうやら三井くんも人数合わせで呼ばれているらしかった。部活がミーティングだけだったので、幹事らしき彼の「出てくれたら今度メシ奢るから!」の一言で承諾したらしい。この男案外チョロいな、と思ったけれど、もちろんそれは口には出さずにぐっと飲み込む。何故ならば私もおなじようなものだからだ。
 取り分けてもらったサラダの皿を回すと、サンキュと言ってモリモリ食べている。それを眺めながら、男の子だなあとほっこりした気持ちになった。

「それ何飲んでんだ、烏龍茶?」
「ハイの方。実はあんまりアルコール得意じゃないんだけど、一杯目だしちゃんと空気読んでみました」
「得意じゃないなら無理すんなよ、こっから家帰んだろ」
「うん、でもそんなに遠くないの。電車乗らないし、ここから歩いてすぐだし」

 かれこれ実家を出て二年半だ。神奈川の実家から都内にある大学に通えないということもないけれど、平日はほぼ毎日通学することを考えたら移動時間がもったいないと感じたこと、そしてとにかくひとり暮らしをしてみたかった事もあり、渋る両親を説得して大学近くにアパートを借りている。

「オレも実家でてこっち住んでる」
「ひとり暮らし、気楽でいいよね。ちょっと寂しいなって思うときもあるけど」
「そうか? オレは寂しいって思ったことねえな」

 男の子ってみんなそういうものなのだろうか。私がお母さんだったとしたら、息子にそんなこと言われてしまったら悲しいし、むしろ自分が寂しいと感じるに違いない。ひとり暮らしは大変だけど、いい経験になるし自由だし楽しいことの方が多い。でも、ふとした瞬間になんだかちょっとだけ寂しいかも、みたいな気持ちになることがままあるのだ。
 お互いの学部のこと、高校時代のこと、他にとっている講義のこと、私の実家で飼っている猫の話、猫が好きだから余裕があれば今も飼いたいと思っているという話。そんな他愛もない話ばかりだったけど、彼との会話は途切れなかった。
 気づいたらあまり得意じゃないはずのアルコールもすすんでいて、自分が普段よりもすこしだけ饒舌になっているのを感じる。
 あっという間に二時間が過ぎ、退店時間だと店員から声をかけられた。

「あのさ、苗字さんも二次会いかない? あんまり話せてないからさ」

 会計をして居酒屋を出たとき、三井くんの隣に座っていた男子から声をかけられた。

「ええと……私あんまりお酒強くなくて。あと、明日早くから予定あるから今日は帰るね。せっかく声かけてくれたのにごめんなさい」

 そっか、と残念そうにしている男子の後ろで「ありがとね」と申し訳なさそうに口だけを動かした友人に「大丈夫だよ」という意味でひとつ頷いてみせる。
 本当は明日の予定なんかなかった。ただ「目が覚めるまで目覚ましもセットしないで心ゆくまで寝てやるぞ!」という気持ちだったので、嘘をついてしまったことに少し罪悪感を感じる。

「オレも帰る、苗字さん送ってくわ」

 両手をポケットに突っ込んだ三井くんがそう言いながら私の隣に並んだ。私がお酒を得意じゃないと言ったからなのかはわからないが、どうやら心配してくれているらしい。顔はムスッとしてるけれど、三井くんて実はすごく優しい人なのかもしれない。

「三井、おまえ送り狼になるなよ」
「あぁ!? なるかよバカ!」

 三井くんは冷やかしを一喝する。

「……その、ならねえから」

 それから、私の方を振り向いてボソッと呟いた。

「ふふ、そういうの気にしちゃうんだ。意外と硬派だね」
「意外とってなんだよ」
「いいえ、べつに」
「引っかかる……」

 相も変わらずムスッとした表情の三井くんだったが、そこにどことなく照れが混じっていることに気がついてしまった。なんていうか、もうとんでもなくかわいらしい。しかし、それを正直に口に出してしまえば彼の機嫌を損ねてしまうであろうことは明白だったので、あえて言わずに飲み込んだ。

「疲れたろ、大丈夫か?」
「ううん。えっと実はね、ちょっと楽しかったよ」

 正直な感想だった。きょとんとした顔をしている三井くん。

「飲み会ではちあうなんて思わなかったけど、三井くんとたくさん話せてうれしかったし」

 たまにはこういうのに参加してみるのもいいかもしれないね、と付け足す。たぶんこの楽しかったという気持ちにはかなり彼の存在が含まれる。もちろん、それは三井くんが私に気を使ってくれていたであろう部分も大きいのだけれど。

「……その、まあなんつーかオレもだ」
「ホント? じゃあ同じだね」
「だな、めんどくさがらずに顔出してみるもんだ」

 そうだねえ、と笑ったとき、不意にカクンと左足の力が抜けた。やっぱり私はあまりアルコールに強くないらしい。頭はしっかりしているからと油断していた。
 前のめりにつんのめりそうになって慌てて右手を出したが、転ばなかったのは寸でのところで支えてくれた三井くんのおかげだった。私のお腹のあたりを支えてくれている腕は筋肉がしっかりついていて逞しい。転びそうになったドキドキと、それとは違うドキドキが混ざって頭の中がごちゃごちゃだ。
 送ってもらっている上に迷惑ばかりかけて、どんくさいヤツって思われてしまったに違いない。恥ずかしさで顔が熱くなるのを感じながら、小さな声で「ごめんね」と彼に謝る。

「やっぱちょっと回ってんな、歩けるか?」
「だいじょうぶです」
「……じゃねえだろ、ホラ」

 掴まっとけ、と出されたのは三井くんの右腕だった。その腕の意味を理解しようと、何度かぱちぱちと瞬きを繰り返す。動揺しながら三井くんの顔とその腕を交互に見ている私に「いいから!」と言うと、三井くんはふい、と顔を背けてしまった。あれ、もしかして私だけじゃなく三井くんもちょっぴり照れてたりするのかな。

「えっと、その、お邪魔します」
「なんだそれ」

 困ったように笑う三井くんの、先ほど私の体を支えてくれた腕におずおずと手をかける。スポーツをやっている男の子の腕だ。すごくがっしりしている。そりゃそうだよね、現役の選手だもん、と心の中でうんうんと頷いてみる。

「ごめんね、たくさん迷惑かけちゃって」
「あ? 別に迷惑なんかかけられてねえよ」
「送ってもらってるし、今もその、助けてもらったり腕貸してもらったり」
「ここら辺街灯少なくて暗いのに一人で帰せねえだろ、それにオレも方向こっちだし」

 彼の横顔を眺める。意志の強そうな眉。しっかりした顎。通った鼻筋。

「見すぎ」
「バレてた?」
「見物料とるぞ」
「えー、ケチ」

 男前なんだからそんなこと言わないで眺めさせてくれたっていいのに、とぼやくと、三井くんは眉間にギュッと皺を寄せて私をじっと見つめたあと、ふいと視線を外してしまった。

「あ、私ここなの」

 そんな軽口を叩いているうちに、私の住む三階建ての学生向けアパートの前に到着していた。三井くんに「ありがとう」と声をかけてみたが、彼は口をぽかんとあけて固まってしまっている。これは見たことがない表情だ。三井くんて、こんな気の抜けた顔もするんだ。

「マジか」

 そう呟いた三井くんは私の顔と建物とを交互を見ながらひとつ息を吐いた。

「……こんなことあるか?」
「え? どういう意味?」
「苗字さんの部屋、何階?」
「二階の角部屋です」
「オレは一階の奥」
「……へ?」

 今度は私が間抜け面を披露する番だった。ええと、つまり。

「……同じアパート!?」
「偶然っつーのは普通こんな重ならねえよな……」
「三年ちょっと住んでるのに顔合わしたことないよ……?」

 階が違うしな、と言いながら頭をガシガシと掻いた三井くんは「部屋の前まで送る」と私を支えながら階段をのぼっていく。いや、それにしてもこんなことが起こりえるなんて。アルコールのせいか、それとも楽しい気持ちからか、ぽわぽわと愉快な気分になっていた脳みそが、今度はギュルギュルといわせながらこの事実を咀嚼しようと必死にフル稼働している。

「じゃあな、ゆっくり寝ろよ」
「うん。本当にありがとう、おやすみ」
「……ん」

 私の部屋の前に到着して、階段を降りようと背中を向けた三井くんが、踵を返しこちらに向き直った。

「携帯、あるか?」
「え? あ、う、うん」

 私が自分の携帯をかばんの中から取り出すと、彼はそれを強引にひったくり、なにやらカチカチと打ち込み始めた。彼が何をしているのかよくわからないけれど、私は呆気にとられてぽかんとするばかりである。

「……返す」

 それ、オレの番号とメアド。なぜかムスッとした表情の三井くんは、私の手に携帯を握らせながら、ただ一言だけそう言った。

「え?」
「ヒマすぎてどうしようもねえ時とか、あと変な虫が出たときとかに連絡してこいよ。駆除してやっから」

 三井くんはそう続けて、後頭部をぽりぽりと掻いた。

「んじゃーな、今度こそオヤスミ」

 後ろ手をヒラヒラと振りながら、階段を降りていく三井くんの背中をぼーっと眺める。握らされた携帯の画面に、打ち込まれたばかりの彼の連絡先が煌々と光っていた。


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