2.

 大学内にある図書館は居心地が良くて好きだ。ゆっくりと時間が流れていくような空気がとても落ち着くので、友達と時間が合わない講義の空き時間などはよくここで過ごしている。
 学内ではちょうど四限の講義が始まった頃。今日は三限で終わりだったのだが、講義後に友達との予定があり、彼女の講義が終わる四限までこうして時間を潰しているというわけだ。
 後期が始まって少しずつ課題も出され始めているし、溜め込んで手が回らなくなる前にさっさと片付けてしまいたいと思っていた。しかし、そう意気込んで図書館に来てみたものの、なんとなく気が進まない。資料も手元に持ってきているし、メモ用のルーズリーフも筆記用具も机の上に出している。けれど、こういう気分の時に無理やり進めたとしても全く捗らないということを、私は二年半の大学生活で学んでいた。
 控えめに周りを見回してみる。机に突っ伏して眠っている人、静かに読書をしている人、レポート作成に勤しむ人など様々である。うん、やめちゃおう。家に帰ってゆっくりやろう。思い切って早々に作業を諦め、広げたものを片付け始める。
 そんな時だった。突然肩をポンと叩かれて、少しだけびっくりして振り向くと、そこに立っていたのはこのあいだの講義で出会った三井くんだった。

「こないだはドーモ」

 彼はそう言うと、背負っていたリュックを下ろして私の隣の席に腰掛ける。ここに座っちゃうの? と一瞬驚いたが、どうやら彼は無愛想な見た目の割に人見知りをしないタイプらしい。

「あ、いえいえ。あのあとペン必要だったでしょ?」
「おう、マジで助かった、サンキュな。急ぐといいことねえわ」

 彼の話によると、あの日の前日は部活が終わってから自主練習をして、クタクタになって帰宅してから目覚ましをセットし忘れて寝落ちてしまい、寝坊をして家を飛び出したと、なんとまあベタベタな理由があったらしい。
 ところであの講義、三限なんだけど何度寝しちゃったんだろう。

「そうだ、なんか礼させてくれ」
「いいよ、あんな百円もしないペン一本ぐらい」
「いやそうはいかねえ。で、今は講義空きか?」
「うん、四限で終わる友達待ってるの」
「よし、じゃあここで話してると迷惑になるし、カフェスペース行こうぜ」

 飲みもんでも奢る、という三井くん。え? と頭の上にクエスチョンマークをいくつも浮かべている私に、早く立てと言わんばかりに顎で促してくる。強引な人だな、と思いつつ「やることも無くなったしまあいいか」と促されるまま荷物をまとめて立ち上がった。

***

 カフェスペースに着くと、三井くんはさっさと荷物を置いて飲み物を買いに行ってしまった。そして、あっという間に戻って来ると、私にアイスティーを差し出してきた。遠慮する間もなく行動を起こされてしまっては、もうありがたくご厚意に甘えるしかない。

「適当に買ってきちまったけど、嫌いじゃねえか?」
「ううん、好き。ありがとう」
「ん、なら良かった」

 三井くんはアイスコーヒーに口をつけながら「そういやまだお互い名乗ってなかったよな」と言った。ええと、私はあなたのこと知ってるんだけど。そもそも、目の前に座っている彼は学内ではちょっとした有名人である。

「苗字名前です」
「苗字さんな。オレは」
「知ってる、三井くん」
「ん? こないだ言ったっけか」
「受講票書いてるところ、ちらっと覗いちゃった」

 なるほどな、と言って三井くんはカラカラ笑った。この人、こんな風に笑うんだ。思っていたよりも少年っぽいというか年相応というか、強面なのに笑う姿はとてもかわいらしい。学内誌に載せられている写真の中、キリッとした表情でバスケットボールを持つ彼とは違う、目の前にいるのは同い年の男子大学生なのだと改めて認識する。背が高くてゴツゴツした男の子にかわいいって思っちゃうの、不思議な感覚だ。

「実は三井くんのこと、結構前から知ってたの」
「ああ、学内誌だろ? 週バスか?」

 写真載ってることあるし時々言われんだよな、と漏らす彼に対して、私はふるふると首を横に振った。

「私、陵南の卒業生なの。三年前の夏の試合も応援席で見てたから」

 目を丸くして、ぽかんと口を開けた三井くんは「は?」と声を漏らした。

「すげえ偶然だな……」
「しかも三年間魚住くんとおんなじクラスだったよ。えーと、陵南のキャプテンやってたんだけど……覚えてる?」

 それを聞くと「覚えてるも何もあのデカいヤツだろ」という声が返ってくる。へえ、と驚きつつもどこか楽しそうな様子の三井くんだったが、ふと何かを思い出した様に表情を曇らせた。

「……あの試合、オレめちゃくちゃバテバテでさ、すげえカッコ悪かったんだよ」

 結果的に勝てたからいいも悪いもって感じだけど、と三井くんは続ける。彼によると、試合中にスタミナ切れを起こし、終盤にあえなく交代になってしまったとの事だった。言われてみればそんなこともあったような気がする。結果はどうあれ、彼の中でそれが悔しさの残る出来事だったということが、その言葉と表情から伝わってきた。よし、違う話題にしよう。

「部活、毎日大変だね」
「そうでもねえよ。好きでやってるし」

 バスケが本当に好きなんだなあ。それもそうだ、だって推薦で大学に入っているぐらいだし、お遊びのサークルじゃなくて部活でやってるんだから当たり前か。
 三井くんは一見強面で無愛想だけど、話をしてみると実は結構気さくな人なのだということがわかった。よくよく見ると顔も整っているというか、男らしくてキリッとしているし背も高い。そしてスポーツマンである。こりゃあさぞかしモテまくっている事だろう、女子が放っておくはずがない。そういう事に疎い私にだってわかる。
 そこでハッとした。もしかしたら今のこの状況って、あんまり人に見られたりしたらよくないのではないだろうか。焦って少しだけ周りをキョロキョロ見回してみたけれど、着席している学生たちは周りを気にする様子もなく談笑している。

「どした?」
「ううん! 大丈夫!」

 落ち着かない様子を不思議がられてしまった。私はふるふると首を振り、なんでもないという意思を伝えるために手をパタパタとさせてみた。そのリアクションが面白かったのか、三井くんは「おもちゃみてえな動きだな」と小さく笑った。

「そうだ、学部は?」
「あ、外語科なの」
「すげえ、オレ英語ぜんぜんわかんねえわ」
「旅行とか好きだし、外国にも興味あって」
「オレも外国とかに興味ないこともない」

 腕を組みながら、鼻息荒めにそう言った三井くん。なんとなくわかった、たぶんバスケ関係でだろう。バスケっていうとどこの国で盛んだったっけ。やっぱりアメリカとかなのかな。

「よし、じゃあ今度オレが英語でわからねえ所があったら苗字さんに教えてもらうわ。つっても、既にほぼわからねーけど」
「えー、なにそれ」

 思わずツッコミを入れてしまった。ただ少し話をしただけなのに、私の中で彼の情報がどんどんアップデートされていく。学内ではちょっぴり有名人な目の前にいる彼が、実際は同じ学年の普通の男子大学生なんだということに改めて気づかされる。

「それでオレが苗字さんにバスケ教えたらよ、えーとアレだ、ギブアンドテイクってやつ」
「でも私、球技苦手だし、きっと教えるの大変だよ」
「だな、あんま得意そうにみえねえ」
「サラリと失礼なこと言う人なのね、三井くん」

 話が盛り上がってきたところで、四限の終わりを告げる鐘が鳴った。友達とは正門で待ち合わせをしている。
 初対面ではないけれど、こうして会話したのはまだ今日で二回目だ。それなのに、時間があっという間に経過してしまっていた。二人だけで会話をしているのに、気まずさを感じることもなかった。楽しい時間はすぐ過ぎ去ってしまう、身を以てそれを体験した気分だ。

「そっか、このあと約束あるんだったな」
「ドタバタしてごめんね、飲み物ありがとう」
「……あのよ」
「ん?」

 三井くんは右手で自分の顎に触れながら、私をじっと見つめている。

「あー、いやいいわ。またな」

 三井くんは「じゃあ気を付けて」とヒラヒラ手を振っている。

「うん、また講義で。部活頑張ってね」

 おう、という彼の声を聞いてから、少しだけ駆け足でカフェスペースを出る。そういえば三井くん、最後になにを言おうとしたのかな。またな、という言葉が、何故だか頭の中に残っていた。



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