30.

 カーテンの隙間から洩れる光が閉じているまぶたの上でちらちらと揺れて、私は眉根を寄せながらゆっくりと目を開けた。なんてことのない自分の部屋。低いテーブルの上に、昨日片付けそびれたコップが二つ。
 暖かいベッドの中でまどろみながら反対側に視線を向けると、柔らかく目を閉じてすうすうと寝息を立てている寿くんがいた。半開きの口はちょっと間抜けっぽいけれど、いつも眉間に皺を寄せてしかめっ面が標準な彼の無防備な姿がかわいらしくて私は結構好きだった。
 ひとり用のベッドの上、180センチを優に超えたガタイのいい彼と一緒に収まるのは、ちょっぴり、という表現では控えめすぎるぐらい窮屈だ。だけど、それでも傍に大好きなその人のぬくもりを感じられるのは、とってもしあわせなことだといつも思う。
 寿くんは男らしいみてくれに反してとっても寝息が静かで寝相も悪くない。枕の上に腕を乗せて、その上に頭を乗せている。いつもこうやって眠って、起きた時に「腕がしびれてる」だのなんだのと顔をしかめるのだから止めたらいいのにと思うけれど、きっとそれが彼にとって安心する寝方なのだろう。
 そんなことを思い出しながら、規則正しい呼吸をしている彼の顔をじっと眺めてみる。それにしても悔しいほどに男前である。しかし、眠っている時の少し幼い感じ、きっと今は私しか知らないんだよねって思ったらひとりでにこにこしてしまう。一方、寿くんの眠りは思いのほか深そうで、私の無遠慮な視線にも気づかずにすやすやと未だに夢の中。
 ちらりと部屋の隅に掛けてある時計に視線を向けてみたら、時刻は朝の七時を過ぎたころだった。三月の末、春休みも終盤の今、卒論の準備でなんやかんやキャンパスに向かったり会社説明会やら面接やらで外に出ることが多かったけれど、今日は久々になにもない日だ。
 ベッドの上でぐーっと腕を伸ばしてみたら、それと一緒にくあっと小さなあくびが漏れる。寿くんを起こさないよう静かにベッドを抜け出して、脱ぎ散らかした服の中からパーカーを手に取って羽織り、急いでジャージのズボンを履く。閉じたカーテンを開けると、外はとってもいい天気だ。

「わあ……!」

 思わず声を上げてしまったのには訳がある。ベランダの前、植わっている桜の木がピンク色に咲き誇っていたからだ。そういえば最近は急に暖かくなったからセーターを着なくなっていたし、コートじゃなくてジャケットを羽織るようになっていた。もうそんな時期かと、ちょっとだけ窓を開けて、ふわふわと風に舞うその花びらを部屋の中から眺める。

「お、すげえな」

 掛けられた声と、頭の上に置かれたあたたかくて大きな手のぬくもり。振り向くと、そこにいつの間に目を覚ましたのか寿くんが立っていて、そして私と同じように窓の外を眺めていた。

「あ、おはよう。起こしちゃった?」
「いや、目ぇ醒めた。名前の部屋、目の前こんなんなるんだな」

 部屋の中で花見できるってすげーな、と寿くんに言われて気付く。越してきた時はもう散ってしまっていたけれど、それからこの部屋で桜を見てきて今年で三回目。来年の今頃は大学を卒業して、きっとこの部屋を出てしまっているだろう。つまり、もうここからこの光景を見られることはない。そう考えたら華やかな目の前の状況に反してちょっぴり切なくてさびしい気持ちになった。

「そういや一緒に桜見んの、はじめてだ」

 はじめてのクリスマスも、はじめての大晦日もお正月も、夏の終わりに出会って冬の最初に始まった私たちの関係ははじめてばかりだった。これからは、どんなはじめてを二人で経験していくのかな。最後の学生生活、寿くんはバスケと教員採用試験の勉強で更に忙しくなるだろう。私だって今もまさに就活と卒論でてんやわんやだ。
 それでも、これから一緒に夏を過ごしたり、秋を過ごしたり、楽しいことやしあわせなことをたくさん共有していていけたらいいな。そんなことをちょっぴり考えただけで、心が春の陽気みたいにぽかぽかした。

「寿くん」
「ん? どした」
「……ううん、やっぱりなんでもない」

 なんだよ、気になるじゃねーか、と寿くんは眉間に皺を寄せて目を細めているけれど、恥ずかしくてその言葉を口にすることはできなかった。言葉にしてから「重たいヤツ」って思われてしまうのがこわかった。先の事考えすぎだとか茶化されてしまったとして、へこむ自分の姿が容易に想像できたからだ。
 もっと早く寿くんと出会えていたらよかったのに、といままで何度思っただろう。そうしたら、二人で過ごす楽しさをもっともっと早く知ることが出来ていたのに。

「来年はもうこの部屋にゃいねーんだよな」

 ポツリと寿くんがつぶやく。心の中を読まれてしまったのかと一瞬ドキッとした。

「じゃあよ、次からは毎年違うとこに花見しにいくっつーのはどうだ? 楽しそうだろ」

 毎年、つまりこれからも、そして今年とか来年とかだけじゃないということ。その言葉に胸の奥がきゅうっと鳴った気がした。ちらりと彼の表情を盗み見てみたら、本当に何も考えずにぽろっと口にしたのだということがわかった。寿くんの思い描くこれからに私が存在しているということがうれしくて、ついつい緩む唇にぎゅっと力を入れる。

「なんだよ、ヘンな顔して」

 そう言いながら、寿くんはぎゅっと閉じられた私の唇を人差し指でつついてくる。まったくこの男は人の気も知らないで。いつだってこうしてとても自然に、且つさらりと攻撃力の高い発言を私にクリティカルヒットさせてくるのだ。

「これからも一緒にいてくれるつもりなんだって思ったから」

 うれしすぎて口がゆるゆるしちゃったんだもん。正直すぎる言葉が口から飛び出てしまったけれど、もういいやと諦めた。

「あ? ……そ、そんなんあたりめーだろが!」

 一瞬、眉をぴくりと動かした寿くんは、やっと自分が発した言葉の意味に気づいたらしい。腕で自分の口元をばっと隠したけれど、急速に赤くなっていく耳と目元を見れば照れていることなんかすぐわかってしまう。

「な、なんだよ重てーヤツとか思ったろ?」
「ううん、恥ずかしくて言えなかったけど私も思ってたもん」

 来年も一緒に桜を見たり、暑い夏を過ごしたり、季節を楽しんでいけたらいい。いつの間にか、さっきまで心の中にあったぐじぐじとしたネガティブな気持ちは目の前で舞っている桜の花びらみたいにふわふわとどこかにいってしまったみたいだ。少しだけ強く吹いた春の風と一緒に花びらが部屋の中に入り込む。

「頭の上、花びら乗ってる」

 そう言って、寿くんが笑いながら私の頭の上に手を伸ばす。そこで気がついた、彼の肩の上にも桜の花びらが乗っていることに。お互いに手を伸ばして相手の体に乗っている花びらをつまみあげて見せあったら、どちらともなくおかしくなって笑い合う。そんな他愛もないやりとりだけで心が満たされていくのだから、私ってやっぱりものすごく単純だ。


 ***

(三井視点)

 今日は久々に何もない日なの、と言った名前は「一日中ぼーっとして、これ以上ないってぐらいごろごろしようと思う」と続け、寝ぐせではねた前髪を直すこともせず拳を握った。ここのところ、というか年が明けてから、もともとのんびりしている彼女が忙しなく動き続けて気を張っていたのを知っていたので、存分にだらけたらいいとオレは頷いてみせた。
 そんなわけで、用意してもらった朝食を平らげたオレは自分の部屋に寄り、午後からの部活に出るには少し早めだが、大学へと自転車を飛ばしている。なんとなく何かしていないと落ち着かない気持ちになるのは自分に目標があるせいなのか、もしくは元来そういう性分なのか。
 今、自分にはするべきことがあって、それがはっきりしているということはつまり、ただひたすらに一本道を全力疾走していけばいいということだ。言葉にするとしんどい気がするが、そのほうがオレにとってはわかりやすくていい。
 あちらこちらで花を咲かす桜と、風に舞ったその花びらが清々しいほど晴れた空をふわふわと漂う。もう何日か過ごせばすぐに四月がやってきて、いつもより学内が賑やかになる。思えばいままでの三年間はあっという間だった。自分が学生でいられる最後の一年なんて、ものすごい早さで過ぎ去っていくのだろう。まあそれは単位落としたりしなきゃ、なんだけどな。
 春休み中の学内は閑散としている。ちらほら見かけるのはサークルや部活に出たり、図書館に用事があったり、リクルートスーツ姿の学生ぐらいだ。
 図書館に寄って部活の時間まで自習に充てようかとも考えたけれど、それよりも今日は体を動かしたい気分だった。部活の開始は十三時だし、今はまだ十時を過ぎたばかりである。まさか誰もいないだろう、と部室の扉を開けてみたら、そんな予想は見事に裏切られたわけで。

「……おまえ早くね? 今日の練習午後からだぞ」
「いや、それはこっちのセリフなんスけど」

 トレーニング用のTシャツに着替えていたらしい宮城が、目を細めてこちらを見ている。

「えっ、何? もしかして三井さん、オレが早く来てるの察知して来たの? コワッ」
「バカ、きもちわりーこと言ってんじゃねー」

 いや見てこれ鳥肌! とか言いながら腕を押し付けてくる宮城を押しのけて、背負っていたリュックを下ろす。適当に押し込んできたTシャツと短パンとサポーターを取り出して、ちゃっちゃと着替えを済ませる。

「で、三井さんなにすんの? シュート練?」
「いや、とりあえず軽くランニングすっかな、天気いいし」
「お、いいねそれ」
「着いてくんのかよ」
「天気いいからね」

 マネすんなよ、と軽くヤツを小突いてからランニング用の靴をロッカーから取り出す。
 高校三年になってバスケ部に復帰した頃、そりゃあもう恐ろしいほどに体力が落ちていた。二年間のブランクはでかかったけれど、目の前に控えた夏の大会までに体力に特化した練習だけをするわけにはいかない。そして試合の度にバテバテになる始末。今思い出しても情けない。
 それもあって、夏の大会が終わってからは体力強化に重点を置くことにした。わざわざ坂ダッシュを何本もやって吐いていたら「またミッチーがゲロッてる」なんて、復帰明けで別トレーニング中だった生意気な赤頭に言われた覚えがある。
 大学に入っても自主的にスタミナを鍛えるためにランニングは続けていた。そうしたら、いつの間にかフルタイムで出場しても、見るも無残なほどバテることはなくなった。

「オレと三井さんって、腐れ縁だよね」
「そうかもな」
「なんやかんやであと一年も無いんスよね、一緒にバスケすんの」

 いつも生意気な言葉ばかりぶつけてくる宮城のそんなセリフに思わず言葉が詰まった。

「ガラにもねーこと言うんじゃねえよ、雪降ったらオメーのせいだかんな」
「三井さんも寂しいでしょ、カワイイ後輩とバスケできるのもラスト一年でさ」
「だからオメーはどっこもかわいくねーっつの」

 はは、と軽く笑っている宮城を無視して外履きに履き替え、軽く爪先で地面を叩く。
 暑くもなくて寒くもない、まとわりつくような湿気もなくて、過ごしやすいこの陽気が続くのは短い間だけだ。桜も一週間ほどで散ってしまうだろうし、あっという間にじめじめとした梅雨が来て、暑い夏が来て、秋が来て冬が来る。高校に入った頃のオレは、季節なんか気にしていただろうか。目的も目標も何もなかった、ただただ自分の中で暴力的な気持ちだけが渦巻いていたあの頃に、季節を感じる余裕なんか無かった。

「つーか宮城、オメーあんま講義サボんなよ。あとで痛い目見んぞ」
「二年間グレてた先輩のお言葉、しかと受け止めました」

 いちいち癪に障るんだよ、と靴を履いて立ち上がったばかりの宮城の尻に軽く蹴りをいれたら、奴は「うわっ」とか言いながら軽くよろめいた。向けられている恨めし気な視線に、自業自得だと無視を決め込んで、オレはストレッチを始めた。


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