29.

 ピンポン、と玄関のチャイムが鳴ったのは二十一時過ぎだった。
 向き合っていたエントリーシートから取り付けてあるインターホンのモニターに視線を移しながら立ち上がる。書面とずっとにらめっこしていたせいか目の奥に疲れを感じて、瞼の上から眼球を指圧する。左手で受話器を取って「はい」と応答すると「名前? 私だけど」とここにいるはずのない人物の声が聞こえてきて、私はぱっと目を見開いた。

「お母さん!?」 

 モニターに映ったその姿にびっくりして、急いで受話器を戻してから弾かれたように玄関を開けた。そこには、大きめのボストンバックを抱えた母が顔の横で小さく手を振りながら「来ちゃった」とお茶目な様子で立っていた。

「なんで? どうしたの?」
「お父さんとケンカしちゃって飛び出してきたの」
「ええ!?」
「なーんて、うそよぉ」

 えええ、と私の口から力なく情けない声が漏れる。集中しすぎて疲れている脳みそと相まって、この人の謎のテンションとこの状況についていけていないのだ。とりあえず部屋の中に招き入れると「急にごめんねぇ」なんて、こっちの動揺を知ってか知らずか軽い調子で言っている。持っていたバッグを玄関先におろし、さっさと手を洗ってうがいまで済ませた母は、まるで友人がそうするかのように、自然な感じで私のベッドに腰かけた。

「それで、ホントはどうしたの?」
「今日ね、こっちのお友達とごはん食べてたのよ。久しぶりにお喋りしたら楽しくって、もう帰るのが面倒くさいなーってなっちゃったから」

 そうだ名前の家泊まっちゃお! って思ってね、と大学生が友達の家に泊めてもらうみたいなノリで言う。それなら連絡してくれたらよかったのに、と思ったけれど、それを口に出すのはやめておくことにした。高校三年に上がる頃、進路の話をしながらひとり暮らしがしたいことを打ち明けたら、最初は心配性の父にすごく渋られた。それでも、こうしてひとり暮らしを許してもらっているのは、一緒に説得してくれた母のおかげだったりする。

「就活どうなの? 上手くいってる?」
「んー……ぼちぼち」

 何社もの説明会に行って、エントリーシートを提出して、そのまま一次試験があるところは受けて、の繰り返し。手ごたえがあるかと聞かれたら、今のところ正直言って全然なかった。それでもありのままを口に出すとめげてしまいそうだったので曖昧に返事をした。
 今はもう二月の半ば。あっという間に試験期間が終わって大学は休みに入っている。去年までなら二ヶ月も春休みがあることに喜んで、友達と旅行に行ったり、アルバイトのシフトをたくさん入れたり、気になっていた映画をいっぱいレンタルして夜更かしをしたりしていたけれど、今年ばかりはそうもいかない。
 こんなに根詰めなくてもなんとかなるでしょ、なんて思っているお気楽な自分と、いま頑張らなきゃあとで絶対後悔する、と焦る自分。せめぎ合う二人の私は今のところ後者の勝ちだ。

「それで例の彼、三井くんだっけ? どこの部屋なの? 何階? お母さん挨拶したいなあ」
「え!? ちょっと何言って……!」
「アンタぼけーっとしてるし、きっと迷惑かけてるでしょう。娘がいつもお世話になってますって言っとかないと」

 こんなことを言っているけれど、ちがう。絶対にちがう。この人のことだから寿くんのことをひとめ見てみたいというのが本心だろう。

「ちょうど部屋に遊びに来てたりしないかなあって期待してたんだけど」
「あっちも勉強とか部活で忙しいし、夜に伺うと迷惑だよ」

 なによアンタたち若いくせに真面目ねえ、なんて言っている母のどこか楽し気な表情を見ながら、今日は寿くんが来ていなくてよかったと心の底から安堵する。
 そこで気付いた。この人が、たぶんそれを狙って何も連絡入れないでこの部屋を訪れたのだということに。思惑に気が付いてから、思わず漏れ出てしまった私のため息に、母は「なによその顔」と不満げな言葉を吐いたけど、その声音には隠しきれないわくわくが滲んでいた。


 ***


(三井視点)

 いや、何やってんだオレは。インターホンを押そうとしていた自分の指先をぼーっと眺めながら、ふと我に返る。
 授業が午前中で終わって、適当に学食で周りのヤツらとメシ食って、ちょろっと図書館に寄って少しだけ参考書を広げてみたけれど、集中力が切れてしまったのが十五時を回った頃。体育館は六限まで授業があって使用できないので、毎週この曜日だけは練習が休みだ。
 オレは広げた参考書やらノートやらを適当にリュックに詰め込むと、図書館を出て駐輪場へ向かった。それでチャリに乗ってアパートに帰ってきて、さも当然のように名前の部屋の前でその部屋のインターホンを押そうとしていたわけだ。自分の部屋に帰るかのように、とても自然に、かつ無意識に。
 あわてて指先を引っ込めて、手のひらで額を覆った。アイツだって就活だのなんだので大変な時に、オレはなんで当たり前のように部屋に上がりこもうとしてんだよ。
 出会ってからもう少しで半年が経とうとしている。それにしたって、名前の部屋に寄るのが当たり前になってるってどうなんだ、甘えすぎだろ。自覚したら急にこっ恥ずかしくなってきた。二月の半ばでまだだいぶ寒いけれど、クリスマスにもらったスヌードを思わず首から引っこ抜いてしまっていた。
 そういえば、今日は朝からどっかの会社の説明会だか選考だったかがあると言ってたような気がする。ひとりで彼女の部屋の前で赤くなったり頭抱えたり、こんな自分ぜったいに誰かに見られたくない。俯瞰して自分で自分を見ることなんてもっとしたくない。
 自分の部屋に帰って仕切りなおしだ。部活がない今日こそ勉強するのにちょうどいい日じゃないか。やり場のないむず痒いような気持ちを発散できなくて、オレは後頭部に手を当てながら踵を返す。背後の扉がガチャ、と音を立てたのはそんな時だった。

「ん? ……あら、あらあらあら!」

 振り返ってみると、名前の部屋から顔を出しているその人は、その部屋の住人である彼女ではなかった。

「もしかしてアナタ、三井くん!?」

 そう言ってにじり寄ってきたその人の顔を、まじまじと見てすぐに納得した。どことなく纏っている雰囲気というか、そういうものが似ている気がする。おそらく、目の前にいるこの人は名前の母親だろう。

「えと、ハイ。ああ、ええとその、娘さんにはすごくお世話に……」
「なーによぉ、かたくなっちゃって! いいから、ちょっと入っていきなさい」

 バシッと背中を叩かれて「ウッ」と小さく呻くオレに構いもせず、その人はオレの腕をひっつかんで部屋に招きいれた。なんだ、なんだこの状況。どうなってんだ……?
 強引に座らされ「いまお茶淹れるから」なんていうその人の言葉に圧倒されながら「あ、はい、どうも」と呆気にとられたまま返事をする。何度も訪れている部屋なのに、いまのオレはやたら緊張してガチガチになって正座なんかしてしまっている。こんなタイミングで初めましてになっちまうとかアリかよ。つーか親御さんこっちに来てるなんて聞いてねーぞ!
 はいどうぞ、と出されたマグカップからは紅茶のいい香りがする。ありがとうございますと小さく頭を下げ、意を決して切り出してみる。

「あの、どうしてオレのこと」
「知ってるのかって?」

 ふふ、といたずらっぽく笑う表情は名前と似ている。やはり、間違いなくこの人は彼女の母親なのだ。

「だって、この部屋に来る男の子なんてあなたしかいないでしょ?」

 そう言われて、顔面が瞬間的にカッと熱を持ったのを感じる。そうか、名前は母親にオレの話をしているらしい。恥ずかしいけれど、それは嫌な気持ちではなかった。この人の視線やオレへの態度から感じるものに敵意などは全くなくて、むしろあたたかい好意的な気持ちが伝わってきたからだ。

「いつもありがとうね。あの子、自分ではしっかりしてるつもりみたいだけど、ぼんやりしてるところがあるから」

 さすが母親である。思わず何度も深く頷いてしまった。この人の口ぶりからすると、ぼんやりと考え事をし始めると周りのことなんか構やしなくなっちまうの、昔っからなんだろうな。

「これからもたくさん迷惑かけると思うけど、よろしくお願いします」

 名前の母親はにこやかにそう言って、オレに向かって深く頭を下げる。オレはといえば、ぽかんとしてしまってそこから反応するのが遅れてしまった。

「オレこそアイツ、じゃなかった、名前さんにはめちゃくちゃ助けてもらってて」

 それこそ初めて会ったときから今まで、何度彼女の存在に救われただろうか。アイツのいる日常がとても穏やかで、傍にいてくれるだけでとても落ち着く。それがどれだけ今の自分を支えてくれているのか。だからこうやって無意識に顔みに部屋に来ちまってるわけだし。

「これからも名前のこと、守りたいと思ってます」

 そんな言葉が口から飛び出していた。それから、追うように顔面が発火したかのような感覚を覚える。守るってなんだよ、つーかこれからって、これって既にめちゃくちゃ覚悟決めてます、みたいな言い方になっちまってるじゃねえか。しかし、もう外に出てしまった言葉は撤回できない。本心から出た言葉とはいえど、さすがに初対面である彼女の母親の前で言ってしまったのが恥ずかしすぎる。まだ学生のガキが何言ってんだって思われたに決まっている。
 唇を噛みしめながらテーブルの上へ視線を泳がせていたら、聞こえてきたのは「あら……」という小さな声。おそるおそるその人のほうに視線を向けてみる。口元を抑えながらも目に笑みを浮かべている名前の母親の表情を見てわかった。やっぱりめちゃくちゃ恥ずかしいこと言っちまってんじゃねえか!

「やだわぁ、なんかおばさん、キュンとしちゃった……」

 若いっていいわねえ、とニヤニヤしながらこちらに向けられる視線に耐えられず、オレは出されたマグカップの中の飲み物を一気に煽った。

「あっつ!」

 それがホットの紅茶だったことをすっかり忘れていた。ヒリヒリ痛む舌、目の前で立て続けに晒してしまった醜態。口の中と顔はカッカしているのに、背中と首筋は冷や汗が伝っているのではと思うほどヒンヤリとしている。傍から見たら、きっとオレの顔は赤くなった青くなったりと忙しないに違いない。
 大丈夫? こぼしてない? と心配してくれる声を聞きながら、手のひらを突き出して「大丈夫です」とだけ言う。ガチャリと扉が開いたのはその時で、そちらに目を向けると、スーツ姿の名前が視線を泳がせながら玄関に立ち尽くしていた。

「……? えーと、これはどういう」
「あら、おかえり」

 面接どうだった? なんて軽い調子でいっている名前の母親。玄関のドアを開け放したまま、その場で固まって視線だけを交互にオレとその人に向けている名前。いまがどういう状況か理解できなくて、混乱しちまってるってところだろうか。

「な、なんで」
「寒いから早くドア閉めて靴脱いで手洗いなさい」
「なんで、なんでお母さんと寿くんが一緒に……?」

 驚きのあまり震えている名前の声は、いつもより少しだけ高く聞こえる。彼女は脱いだ靴を揃えることもせず、そしてオレの方には目もくれないで前のめりに母親の目の前に座り込むと、わなわなと口元と震わせながら「へ、へんなこととか……」と小さな声でつぶやいた。

「へんなこととか言ってないよね!? ね!?」
「変なこと? アンタ色々やりすぎてるからお母さん思い出せないなあ」
「んだそれ、オレ聞いてねーぞ。ぜひ教えてください」
「いいの! 知らなくていいことなの! っていうか別に無いし!」

 あるじゃないアンタ高校受験の時なんて、と話し始めようとする母親の口を、急いで手で塞ぎながら「寿くんはそんなことに興味持たないでいいの!」と珍しく取り乱す名前の様子が面白くて、親子なのに姉妹みたいなそのやりとりが微笑ましく、ついつい笑ってしまっていた。

「じゃあもうお母さん帰るけど、火の元とかちゃんと気を付けるのよ」

 アンタぼーっとしてんだから、と付け足された言葉に「はいはいわかりましたお母さんも気を付けてね!」と語気荒めに返事をする名前。
 送りましょうか、と声を掛けたら「気を使わないで大丈夫よ」と断られた。部屋を出ていく彼女の母親にぺこりともう一度頭を下げたら、強めに肩を叩かれた。その意図がわかって、そしてそれがやたらと嬉しくて思わず口元に力を入れてしまう。

「なんでどうしてこんなことに……」
「おまえが部屋にいるかなーって覗こうとしたら、ちょうどはちあってよ」

 はあ、と盛大な溜息をついて、机に突っ伏して動かなくなってしまった名前の頭をぽんぽんと軽く撫でる。いつもは見せないような様子を見られたことがちょっとだけうれしかったが、今はとりあえず口に出さないでおくことにしよう。

「……寿くん、なんかすごくにこにこしてる」
「そうか? 別にいつもどおりだろ」
「してるよ! 眉間に皺寄ってないし! うちのお母さんとなに話したの!?」
「教えねえ」

 声にならない叫びをあげて、再び机に突っ伏してしまった名前のつむじを、指先で突きながら「すねんなって」と声をかけてみる。彼女はそのままの姿勢で「うう……」と恨めしげに呻くだけだった。
 オレの機嫌がいい理由なんか、おまえに話せるわきゃねーだろが。話してしまったら、今度はオレが彼女のように羞恥で机に頭を打ちつけることになるのが目に見えている。おまえの母親に「うちの娘をよろしく」って言われたからうれしいんです、なんて言えるわけがない。向こう三年ぐらい口になんか出せそうもない。
 それはそれとて、結局いつも通りに名前の部屋で落ち着いてしまっていることにふと気づく。あーあ、と思いながらとりあえずリュックの中を漁って、適当にしまいこんだ参考書を取り出すことにした。


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