19.

 つい一ヶ月前に観戦したリーグ戦以上の人の多さに怯みつつ、私は自分の大学の横断幕が下げられた辺りの席にたどり着く。さすが全国大会、何も知らないド素人以下の私にも熱気の違いが伝わってくる。
 見たことのあるチア部のユニフォーム、応援団やおそらくベンチ入りしていないのであろうバスケ部の面々が陣取るブロックからひとつ離れたブロックに空いている席を見つけ、腰を下ろしてひとつ息を吐く。
 この間の試合の時、試合に出るわけでもない観戦するだけの私がやたら緊張していたことを覚えていたのか、インターカレッジを観戦に行くと魚住くんに報告したら、まるで親のごとく心配するメールが来ていた。
 そんな魚住くんは、お仕事があって大会期間中に試合を観戦できないことをとても悔しがっていた。十二月に入ったせいか、お店の方は毎日忘年会やらの予約でてんてこまいらしい。
 うう、やっぱり胸がどきどきするしザワザワする。観戦前のこの緊張感にはまだしばらく慣れなさそうだ。それでも前と違うのは、今日は三井くんに見つからないようにこっそり観戦に来たわけではないということだ。
 あの時の私はまだ自分の気持ちを認めるのが怖くて、正直恐る恐る試合を観に来ていたけれど今は違う。堂々としてなきゃ、と思って口をギュッと結びながら、三井くんのくれた言葉を思い出して「よし」と小さく呟く。
 それにしても「オレが好きになった女だぞ」って、改めてすごいセリフだと思う。ひとりなのについ赤面しそうになって、私は手のひらで両頬を抑えて深呼吸した。だめだめ、最近の私はひとりでニヤニヤしがちである。三井寿という人は、照れ屋さんなくせに振り切れてものすごい破壊力あるセリフを吐くことがあるから困ってしまう。

「名前!」

 突然どこからか自分の名前を呼ばれ、私は「えっ」と声を漏らしながら辺りをきょろきょろ見渡して立ち上がる。観客席の柵を掴んで身を乗り出すと、練習着姿の三井くんが私に向かって手を上げていた。
 驚きすぎてどうしていいのかわからず、口をぱくぱくさせながら「わ、私?」と自分に指を向けて確認する。軽く笑った三井くんは、すっと拳をこちらに突き出しながら「そこでちゃんと見とけよ」と言った。口元に浮かべたニヤリという不敵な笑みは、いつも通り自信に満ち満ちている。だめだ、やっぱりこの人腹が立つほどかっこいい。でも、とりあえず。

「が、がんばって!」

 両手をメガホンみたいに口元に添えて、それだけ言うのが精いっぱいだった。「おう」と言いながらアップに戻る三井くんの背中を眺めながら、私はうっかりゆるゆるに緩みきっていた口元を手のひらでおさえる。

「名前さーん! この人カッコつけてるけど、もう四回もトイレ行ってんスよ!」
「テメーコラ! 言うなっつったろ!」

 いつもの様にじゃれ合う二人を眺めながら、私は小さく笑う。改めて客席に腰を下ろした時に、いつの間にか自分が周りから注目されていたことにやっと気が付いた。顔をぱたぱたと仰いで下を向きながら、三井くんの気にしてくれていたことはこういうことかと理解した。

「隣、いいですか?」

 その声に顔を上げた私は思わず「あっ」と声をあげてしまった。
 声を掛けてきた彼が、この間の試合で「炎の男三っちゃん」の旗を振っていた彼だったからだ。その少々、というよりかなり強面で、なおかつ体格も三井くん以上にいかつめな三人組の先頭で私に声を掛けてきた彼の手にはしっかりと例の旗が握られている。
 私が遠慮なしにじーっと見つめてフリーズしてしまっていたせいか、きょとんとしている彼らに「あ、いいえすみません、どうぞ」と我に返ってやっと返事をする。

「えーと……名前さん、ですよね」
「は、はい! 苗字名前と申します!」

 驚きすぎて思わずフルネームで名乗ってしまった。私につられたのか、同じように慌てだしたいかつめの彼も「堀田徳男です」とフルネームで名を名乗って頭を下げる。傍から見たら、二人で背中を丸めてぺこぺこしているのはさぞおかしな光景だろう。

「三っちゃん……えーと、三井くんからお話聞いてます」

 お話とはなんぞや、と私は眉根を寄せて首をかしげる。ボーッとしてて間抜けだとか、マイペースすぎるとか、すぐ泣くとか、思い込みが激しいとか、彼がそういう私のダメなところを周りの友人たちに話していたらどうしよう。ありえすぎる。
 神妙な面持ちでこちらを覗きこんでいた堀田くんが、突如私の手を引っ掴み両手でぎゅっと握りしめてきたので、思わずぎょっとして体を強張らせる。

「三っちゃんを選んでくれて本当にありがとうございます! 口も悪いしガサツであんまり気も回らないけど、優しくて男気溢れるいいやつなんです! 三っちゃんに春が来たって、オレたちめちゃくちゃ喜んだんですよ! いま冬だけど!」

 本当によかったなあ三っちゃん、と大きな体を震わせて、涙を流さんばかりにウルウルと目を潤ませる彼こと堀田くんは「なあおまえら!」と連れ立ってやってきた他の二人に声を掛ける。その二人も身を乗り出しながら私に向かって「ありがとうございます!」と声を掛けてくる。私はわけもわからず目を白黒させながら「あの、ええと」と声を出すことしかできない。それでも、彼らがどうやら三井くんと私の関係をものすごく喜んでくれているらしいことは伝わってきた。

「それで三っちゃんから、カノジョさんが観戦慣れしてないから頼むぞって」
「なるほど、それで」

 さっきも名前呼ばれてましたもんね、とニヤついた笑みを浮かべている堀田くんの表情を見て、また先ほどの恥ずかしさが蘇ってきてしまう。
 私は改めて認識しなおしていた。三井くんはうちの大学でもそこそこの有名人で、かつファンもいるスター選手なのだということを。そんな三井くんが、そもそもうちの大学の応援席に向かってあんな風に声を掛けてきたらそりゃあ目立つに決まってるし、注目されるのは当然だったのだ。
 彼がわざとやったのか、はたまたそんなつもりはなかったのかはわからない。さすがにびっくりしたけれど、それ以上に私の存在をちゃんと肯定してくれたことがとてもうれしかった。彼の言葉も気持ちも、最初に伝えてくれたときと変わらないのだということを私にしっかりと確認させる目的だったのかもしれない。だからさっきの事がちょっぴり、いや、かなり恥ずかしかったなんていうのは、贅沢でわがままで些細なことでしかない。
 軽い足取りでドリブルをしながら、ゴールポストにボールを投げ込む三井くんの姿を眺めつつ、堀田くんたちと他愛もない会話をして交流を深めていると、突然「堀田さーん!」と背後から明るい調子の声が聞こえた。「おお!」と言いながら堀田くんが立ち上がる。
 階段を下りながら「間に合った間に合った!」と言っているのは彫りの深い美人の女の子だった。ウェーブした髪をポニーテールにまとめ「席取っててくれたんですね、ありがとうございます!」と堀田くんに頭を下げている。

「ははーん、こちらはウワサの三井先輩の彼女、名前さんですね!」

 お話は聞いてます、とさっきの堀田くんたちと同じセリフを発した彼女に、私はただ目をぱちくりとさせるばかりだった。どこまでこの話がいっているんだろう、っていうか湘北関係者の情報網っていったいどうなっているんだろう。

「アタシ、彩子っていいます! 湘北のマネージャーしてたんです」

 そう名乗った彼女は「よろしくお願いしますね!」と弾けるような笑顔で手を差し出してきた。こちらこそ、と彼女と思いのほか強い握手をかわしながらはっとした。
 彩子と、彼女は確かにそう名乗った。ということは。

「あ、もしかしてアヤちゃん!?」
「へ? ……ああ、リョータね」

 いきなり不躾で失礼なことを言ってしまった。慌てて「突然ごめんなさい!」と謝ると、彼女は「いえいえ、全くあいつは……」と言いながら私の横の席に座った。
 なるほど、これが噂のアヤちゃんか。スタイルがよくて目鼻立ちのくっきりした美人、そして明るくて気さくな感じのするこの彼女こそが宮城くんがいつも話を聞かせてくれるアヤちゃんその人なのだ。いつも話に聞いていた人物に会うのは不思議な気持ちになる。

「なかなか顔出せなくて、観戦するの久しぶりなんですよ」

 彩子ちゃんは現在四年制の看護大に通っていて、実習やら授業やらのオンパレードらしい。宮城くんがいつも口癖のように「アヤちゃん試合いつ観に来てくれんのかなあ、でも忙しいからなあ……」とぼやいていた理由がわかった。
 フロアでアップをしていた選手たちが捌けていく。そろそろ試合が始まるようだ。よっしゃあ、と私の横で例の旗を握りなおす堀田くん。私はユニフォーム姿で手首をブラブラさせている三井くんに向かって「がんばって」と小さな声でそっと呟いてみた。
 

***


「三井さん、久々に前半ボロボロだったね」

 後半バカバカ入ったからいいけどさ、と言ったのは宮城だ。放っとけよ、と吐き捨てるように返した言葉は自分でも驚くほどに情けなく聞こえる。悔しいが、宮城の言う通りだった。
 前半は思うようにシュートが入らない上に、なんだか体が重かった。アップの時はそんなことなかったのに、つーかなんで今日なんだと考えれば考えるほど深みにはまって、いつもなら軽く抜けるようなマッチアップで手こずったり、自分で自分にイラつく始末だった。
 そこで見とけ、なんてカッコつけておいてこの体たらく。後半になんとか調子が出てきたからよかったものの、交代させられていたら挽回のチャンスもなかった。

「明日も試合だぞ。コンディション整えろ」

 監督にそう声を掛けられて「ウス」と小さく返事をする。
 若干危なげもあったが、とりあえず初戦を勝利で終えられたうちのチームは2回戦へ歩を進めた。明日は平日の月曜日、あいつは観戦に来れない。
 ミーティングを終えてこの場で解散したら会う約束をしているが、なんとなく顔を合わせづらい。あまりにも今日の自分がカッコ悪かったからだ。客席の方を見たくなくて、試合中も試合の後もなるべく名前の座っている辺りに視線を向けない様にしていた。
 彼女は今日の試合をどのように見ていたのだろうか。ため息が出そうになって、だめだと首を振る。切り替えろ、もう終わったし結果的には勝ったじゃねえか。
 更衣室を出て、ポケットに手を突っ込みながら客席の辺りまで来ると、彼女の姿はすぐに見つかった。客席を出てすぐの柱に寄りかかりながら立っている。周りに他のやつらの姿はない。
 ちょっと頭をかいてから彼女の名前を呼ぶ。声に気づき、顔を上げてこちらを向いた彼女はぱあっと顔を明るくすると「おつかれさま!」と言いながら笑顔でオレの方へぱたぱたと駆け寄ってきた。
 観に来てくれてありがとな、と言いながら、やっぱり不甲斐ない姿は見せたくなかったと思ってしまう。認めたくはないが、オレの頭はモヤモヤをキレイさっぱりなくして早急に切り替えられるほど器用にはできていないらしい。

「三井くん、やっぱりすごいね」

 思わず「は?」と間抜けな声をあげてしまった。こいつは目をキラキラさせながらオレの事じーっと見つめてくる。

「前半見てたろ?」
「うん、ちゃんと全部みてた」
「だったらすげーとか思わねえだろ」

 オレの言葉を聞いた名前はきょとんと不思議そうな表情をしているが、その顔をしたいのはこっちのほうだ。でも、どうやら彼女は本気でオレの言いたいことに気づいていないらしい。うーん、と言いながら眉間に皺を寄せ、顎に手を当てながら少し考えこむ素振りを見せた彼女は「えっとね」と言葉を発する。

「私はバスケのことぜんぜんわからないけど、勝ち抜いて選ばれてあの場所に立って、さらにそこで四十分間通して試合して、たとえば最初は調子が出てなかったとしてもちゃんと立て直してシュート決めちゃう人のこと、やっぱりカッコいいなあって思っちゃうんだよ」

 だからね、お疲れさまぐらい言わせて。そう言ってオレに向かってやわらかく笑んで見せた彼女が、オレの背中にぽんと触れる。
 小さくて柔らかくてあたたかい手のひらのぬくもりなんて、オレが着ている分厚いダウンジャケットの上から伝わるはずがないのに、彼女が触れているそこからじんわりとあたたかいものが流れ込んでくる気がした。
 不甲斐ない姿は見せたくなかった。時々苦しいとさえ思えるほどに彼女の存在が愛おしくて、傍で笑っていてくれることがうれしい。いつの間にか、彼女は自分で思っている以上になくてはならない存在になっていた。自覚してもし足りない、その思いは何度も何度も重なるように募るばかりだ。
 クソ、なんだこれ。オレ、こんな奴じゃなかったよな。こいつはいつだってぼーっとして危なっかしくて、そんでもって涙腺もユルユルで、小さいことでいちいち悩んでばかりいるのに。そんな彼女の言葉ひとつで、どうしようもなかった自己否定感が和らいで、重苦しかった気持ちが軽くなっていく。名前こそが、オレにとっての万能薬みたいなものに違いない。

「……負けだ負け」
「え? 試合勝ったでしょ?」

 いいよおまえはわかんなくて、と頭をぐしゃぐしゃと撫でてやる。さすがにこんな気持ちを言葉に出すのは照れくさいのでやめておこう。
 もうそれやだってば、と彼女はオレの手を振りほどき、頭を抑えてムスッとする。負けずぎらいなオレが、唯一勝てなくてもいいやと思えてしまうのはこいつだけかもしれない。とっくに骨抜きにされてしまっているのだからそもそも勝てるわけがないのだ。

「あのー、そろそろイチャイチャタイム終わりました?」

 そんな声のした方を向くと、口元に手を当てながらニヤニヤしている湘北時代のマネージャーである彩子。そして「メシいこうぜって誘ってきたのアンタでしょ」と目を細めながら言う宮城がいた。その後ろに徳男たちが続き、彩子のセリフに顔を赤くした名前はオレからぱっと一歩離れていそいそと髪を直している。

「なんだよ、さっさと声かけりゃいいだろが」
「今の雰囲気客観的に見てから言ってよ。あーあ、腹減った! てことで前半ポンコツだった三井さんの奢りでお願いします」
「ふざけんな、オメーにゃこないだラーメン奢ってやったろ!」

 二人とも明日だって試合なんだからお酒はナシよ、なんていう彩子に「わーってるよ」と返事をする。三っちゃんお疲れ、と言いながら駆け寄ってきた徳男たちと軽くハイタッチをしながら、彩子と笑いあっている名前の様子にほっとする。ぽやっとしている割に、こいつは意外と人見知りをしない。徳男みたいな強面にもビビッてなさそうだし。

「いつ二人でラーメン食べにいったの? いいなあ」

 話聞いてたらラーメンの気分になっちゃった、と呟く彼女を見ながら「また今度な」と返す。目の前で彩子にデレデレしている生意気野郎の宮城には、こないだの件でめちゃくちゃ世話になってしまっていた。それの礼だったので、さすがにこいつのことは誘えなかったのだ。
 自然とこのメンバーに馴染んでいる彼女を見ていたら、無意識に笑ってしまっている自分がいた。「今日の試合チョーシ乗らなくてショゲてる三井さん、どこ行きます?」なんて言ってくる宮城の尻に軽く蹴りをくれてやる。
 モヤついた重い気持ちは、いつの間にかずいぶん軽くなっていた。


[*前] | [次#]

- ナノ -