12-2.


 昨日の一件から部屋に戻った私はというと、これぞまさしく文字通り魂の抜けた状態といって差し支えのないものだったに違いない。
 出来たら忘れてほしいと、杉浦さんの発したその言葉が頭の中をずっと回り続けている。
 彼の顔が近づいてきた瞬間、私は「あ、これキスしちゃう雰囲気だ」と即座に察していた。引き寄せられて、抗えなくて、むしろ抗う必要なんてどこにも存在しなくて。
 だけどあの時それを止めることが出来ていたら、もしかしたら「雰囲気に流されそうになって危なかったね」で済んでいたのだろうか。
 決して広くない私の頭の中で、疑問や後悔が生まれて浮かんでは逃げ場を無くしてその容量を圧迫していく。これで今後杉浦さんと交流する機会は無くなってしまったかもしれない。そうじゃなかったとしても、果たして私はこれから何も気にしていないフリをすることが出来るのだろうか。
 ただただ思考だけが生まれて流れて積もっていく頭の中はもう既にぐちゃぐちゃで、今にもぐつぐつと煮え切れてしまいそうだ。明日だって仕事はあるのだからとりあえずシャワーぐらい浴びなくてはと思うのに、投げ出すみたいにベッドに横たえた体はその意思に反して全く動こうとしない。
 それからようやく体を起こせたのは、いったいどれぐらい経ったあとだったろう。
 なんとかシャワーを浴び、怪我の処置をしてもらった部分を濡らさないよう気をつけていたら、彼が手当てをしてくれたことを思い出して急に泣きたいような気持ちになった。それをぐっと堪え、利き手ではない方の手で不器用に頭を洗い、体を流す。
 ベッドに入っても目を閉じても脳みそが考え続けるのを止めることが出来ず、寝たのか寝てないのかわからないまま、カーテンの隙間から漏れる光と携帯のアラームで朝が来たことを知ってしまった。
 なんとかベッドから這い出て顔を洗い、身支度を整えながら「私って真面目で勤勉だったんだなあ」と自虐的な苦笑いを浮かべてしまった。なにせ、昨日終わらせるつもりでいた仕事はあんなことがあったせいでまだデスクの上に積み上げられたままなのだ。
 ほとんど無意識のうちに家を出て、いつものように駅に向かい電車に乗る。ぼんやりしているうちに到着した巨大ターミナル駅。降りていく大勢の波に逆らわずに降車して、いつもの改札口を抜ける。
 そんな行動をほとんど無意識に行えるようになっていて、上京したばかりの頃にマップアプリと格闘していたのが遠く昔のことのように感じてしまう。
 眩しい朝日を浴びながら歩き、たどり着いた源田法律事務所のあるビル。エレベータに乗り込んで二階で降りると、いつも一番乗りの私が開ける筈の事務所の鍵が既に開いていた。
 そっとその扉を開け、伺うように「おはようございます……」と事務所の中へ入ると、既に出勤していたさおりさんが自席に座るところだった。どうやら、彼女もつい先ほど到着したらしいことがわかる。

「名前さん、おはようございます。昨日はどれぐらい残ってたんですか?」

 昨日という単語に良い意味でなくドキンとしてしまったが、それが私の残業を指しているのだと気づき、慌てて「ええと、二時間……はやってなかったと思います」と答えながら動揺を悟られないように自席へと向かう。

「それなのにまだ終わってなくて……今日こそ崩しますね!」
「あの、名前さん」
「はい」
「間違っていたらすみませんが、もしかして体調良くないんじゃないですか?」

 いつの間にかすぐ側まで駆け寄って来てくれていたさおりさんは、そっと私の手首を掴むと「最近業務も立て込んでましたし」と続け、見透かすような視線を私に真っ直ぐ向けてくる。
 超個人的すぎる理由で睡眠不足であるということを白状する気にはなれず、咄嗟に「夢見が悪くてあんまり眠れなかったんです」と伝える。夢を見たわけではないけれど、あまり眠れなかったのは本当のことだ。

「どうりで。……あと、その手」

 さおりさんが示したのは、包帯の巻かれている私の右手。それはもちろんあの元彼を殴ったことにより生じてしまった自業自得の負傷であったが、やはりこれも正直に話すのは憚られる。

「これはええと……昨日暴漢を殴って撃退する夢を見たんですけど、寝ながら壁を殴ってたみたいで」

 まさか悪夢と掛け合わせてそんな嘘八百が自分の口からするすると飛び出してくるとは思わなかった。しかし、その相手は城崎さおり先生である。私の真実とフィクションを交えた中途半端な繕いを鵜呑みにはしないだろう。
 彼女は表情を変えず、視線も動かさないまま「ではこうしましょう」と静かな声で言った。

「今日はおやすみにしてください」

 名前さんの業務、最近立て込んでましたからちょうどいいタイミングだと思いますし、と続けたさおりさんの声は普段と変わりなく平淡で冷静だったが、その言葉の中には何故か私を咎めるようなニュアンスが一切含まれていないことがわかる。
 本当のことを言えない心苦しさと、それに気付きながらもこちらを心配してくれているさおりさんの優しさに心が軋む音がした。
 これは本当に個人的すぎる自業自得の結果で、更に本来昨日のうちに終わらせる予定だった書類整理とデータ入力が残ったままなのである。前者の方は現状解決の目処が立っていなくても、後者の方は業務に当たれば解消できる。
 私が「でも」と発すると、さおりさんは小さく首を振って人差し指を立て、私の次の言葉を遮るように「それじゃあこうしましょう」と言った。

「名前さんの今日の業務は自宅待機です。それに、そんな様子の名前さんを心配する源田先生のほうがきっと仕事にならないと思いますから」

 言われて「確かに」と思ってしまった。自分の顔が疲れていることはなんとか取り繕えたとしても、右手の怪我を指摘されることを避けるのはおそらく不可能だろう。

「スケジュール管理と訪れた方の対応、いつも助かってます」

 だから気にせず今日はゆっくり休んでください、と続けたさおりさんは、そのレンズの奥の目を微かに柔らかく細めて笑んだ。その優しさに目の奥がぎゅう、と一瞬にして熱を持って、頭の奥がズキンと痛んだ。
 ありがとうございます、と出てきた言葉は自分のものだとは思えないほど小さくて情けない声だったけれど、それを認めたさおりさんがこくんとひとつ頷いてくれる。
 源田先生と星野くんが来ると面倒ですから、とくるりと回れ右をさせられ、かくして私は出勤して二分足らずで強制送還となったのだった。


***


 通勤とは逆方向の空いた電車に乗り、罪悪感を抱えたまま帰宅した。
 部屋に戻ってきてから三時間ほどが経過していたが、やはり何かをする気も起きず、ただただ横になってぼんやりしていた私のスマートフォンが鳴ったのはちょうどお昼すぎだった。
 緩慢な動作で手を伸ばし、その画面に視線をやると凛子さんからの着信であることがわかる。

「名前? アタシだけど。あのさあ、ちょっと手伝ってほしいことあって」

 通話をタップすると、聞こえてきた彼女の声にほんの少しだけほっとする。今朝のさおりさんの心遣いにもうっかり泣きそうになってしまったが、凛子さんのいつもと変わらない様子にもじわっときてしまう。元彼とのあれそれで気を張っていた矢先、あんなことが起こってしまったから自分で思っている以上に心が疲弊しているのかもしれない。
 鼻の奥がツンとするのを堪えていたら、彼女が「あれ、電波悪い? 名前聞こえてる?」と様子を伺うように言葉を続けたので、慌てて「ご、ごめんなさい!」と返事をする。

「ちゃんと聞こえてるよ、どうしたの?」
「ていうかお昼時にごめん、今って大丈夫?」
「うん、いま家だからぜんぜん平気」

 そう伝えると、一瞬間を置いたあとで「ふーん、なるほどねえ」という静かな声が聞こえてくる。なるほどとはどういうことだろう、と一人の部屋でスマートフォンを耳に当てたまま彼女の次の言葉を待つ。

「……こっちの用事なんて大したことじゃないから後回しでいいや。アンタ、何かあったでしょ?」

 アタシで良かったら聞き役になるよ、という凛子さんの言葉で、一瞬にして自分の視界は歪んでしまった。
 まさか電話越しの声で察されてしまうなんて。要領が悪くて不器用で、己の感情のコントロールすら出来ない自分が情けなくて仕方なかった。自己嫌悪と、つい最近認めたばかりの大きく育ち始めていた気持ちのやり場に困って、いっぱいいっぱいになっていたものがとうとう溢れ出てきてしまう。
 

「凛子さん、私どうしよう、とんでもないことしちゃったの……!」
「え? やだ、ちょっと名前泣いてんの……? わかった、今すぐ行くからちゃんと家に居てね」

 その電話から三十分足らずで私の部屋に到着した凛子さんの右手には大きく膨らんだスーパーの袋が、その左手には紙袋をぶら下げられていた。
 それどうしたの、と指をさしながら問うと「お昼ごはん。アンタ食べてなさそうだし、アタシが作ったげる。てことでお邪魔するね」と答えて玄関から部屋に上がる。

「あ、キッチン借りてもいいかな」
「それは全然いいんだけど、私も何か手伝いとか」
「いいから座って待ってなって。アタシもお昼まだだったからちょうどいいし」

 そう言うと、凛子さんは私の手を引いてローテーブル前に座らせると「ちゃちゃっとやっちゃうからね」と歯を見せて笑い、袋の中から取り出した野菜類をぶつ切りにし始める。何を作るんだろう、と首を伸ばして様子を伺っていると、彼女は大きな紙袋の中から土鍋を取り出してコンロの上に置いた。どうやらお鍋を用意しているらしい。
 座らされたままソワソワとキッチンの方へ視線を向けていたら、そんな私のあからさまな様子に気づいた凛子さんは「安心してよ、火事は起こさないから」と冗談めかして言った。
 そういうことじゃなくて、単純に何を作っているのか気になっちゃっただけなんだけど、とほんの少し恥ずかしくなる。昨日の夜から消え失せていた食欲が、漂い始めた出汁の香りで少しずつ戻ってきているのを感じる。
 せめて他の準備ぐらいはしておこうと思い、鍋敷きや取り皿なんかを用意しようと立ち上がる。
 そっと凛子さんの肩口から彼女が持ち込んだ土鍋を覗くと、白菜とキノコ類、豚バラに水菜が敷き詰められた鍋の上に大根おろしがたっぷりと乗せられたみぞれ鍋がふつふつと湯気を立てていた。

「一人鍋もできるけど、人と鍋突っつくのって元気出ない?」
「……ごめんね。気、使わせて」
「何言ってんの、アタシが鍋やりたかっただけだよ」

 ていうか友達が元気無さそうなら顔見に来るものでしょ、と凛子さんは朗らかに笑う。
 上京してから、本当に色々なことがあった。それこそ大変なことに首を突っ込んじゃったことだって一度や二度じゃなかったけれど、それがあったからかけがえの無い繋がりを得たのだと思う。
 さおりさんや凛子さんの優しさに触れて、こうして助けられて改めて感じる。どうしようもなく甘ったれで見通しの甘い私だけど、その周りには勿体ないほどに素敵な人がたくさんいる。
 そこで浮かんできたのは彼 ── 杉浦さんのこと。途端に胸の奥が絞られるみたいに苦しくなって、目の奥が一気に熱を持っていく。

「……私、大切なんだって気づいた人にとんでもないことしちゃったの」

 うん、と頷いてくれた凛子さんが、鍋の火を弱くしながら後ろ手に私の手を握る。
 神室町を訪れて初っ端、タチの悪いチンピラに絡まれたこと。それを助けてくれたのが仮面をつけた男の人で、さらに八神探偵事務所の関係者であったこと。
 まだ自分の中にある彼に対する感情を把握できていなかった頃の恋人のフリ。きっと、あの時のドキドキはもうほとんど決定打みたいなものだったのだと、今となっては認めることが出来る。
 杉浦さんの名前を出すと凛子さんはしばらく眉根を顰めていたが、突然「ああ! それってあの時女装してた人か!」と合点がいった様子でこちらを振り向いた。

「あの人ね、最初にアタシのこと助けてくれた時、すんごい必死な顔で名前の居場所はわかるかって聞いてきたんだよ」
「そうなんだ……」

 うん、と頷いた凛子さんは「だから、てっきりアンタ達は付き合ってるもんだと思ってたよ」と続け、いい頃合いになった鍋を火から下ろすべく鍋つかみをその両手に装備した。私は鍋敷きを掴んだまま彼女の発した言葉のせいで呆けてしまっていたことに気づき、慌てて取り皿と箸を取り出す。
 ローテーブルに戻って鍋敷きを置くと、その上に凛子さんが運んできた出来立てのみぞれ鍋が入った土鍋が乗せられる。さっさと座った凛子さんは、両手に付けていた鍋つかみを外すとお玉と菜箸で手早く出来立ての鍋を取り分け「はい」と出来立ての具材の入った取り皿を差し出してくれる。それに「ありがとう」と返すと、彼女はニンマリと口角を上げた。

「さ、じゃあ食べちゃおっか。アタシもうお腹ぺっこぺこ」

 適当にポン酢足してね、と新品のポン酢の瓶を指差しながら凛子さんが言う。それにこくんと頷きながら、まずはそのまま出汁を一口。

「……すごく美味しい」
「でしょ? よかった、最近寒くなったしいいタイミングだったね」

 お酒でも買ってくればよかったかも、と独り言みたいにいう凛子さんを見やりながら箸を進めていくと、全然動いていなかった胃が急に働き出したのを感じる。
 凛子さんは先ほどの話の続きをせっついてくることもなく、今もあのメイドカフェで少しだけ働きながら自分の店の準備をしているのだと話してくれた。一緒に暮らしている妹さんも修学したら同じ店舗で働くらしい。
 彼女たちが何事もなく平穏に過ごしていることを知って、あの時の私の行動がほんの少しでも助けになれたことを心の底から嬉しいと感じる。
 体の中から温まって来たせいか、ぐちゃぐちゃになってしまっていた頭の中が少しだけ整理されて来たような気がする。胃に物をいれたから頭が働くようになったのかもしれない。
 助けられて、顔を合わせて、その度に会話をして。交流していくうちにどんどん彼に惹かれていったこと。それを自覚したのが例の黒いカードのパーティーのあとだったこと。それから私が上京してきた理由と、その元彼が私を探しに神室町まで出て来ていたことを話す。
 ぽつぽつと話し始めた私の言葉をじっと聞いてくれていた凛子さんは、その話になると「そんなことになってたの……?」と珍しく驚いた様子で身を乗り出した。

「うん。八神さんのところに私のこと探してくれって依頼してきたみたい」
「うっわ……でも運が良かったね」
「それで杉浦さんがここ二週間ぐらいずっと事務所から駅まで送ってくれてたの」

 そんな状況で、昨日とうとう接触を受けてしまい、すっかり豹変してしまったあの人に気圧されていたところで、杉浦さんが助けに入って来てくれたこと。私の右手の怪我のこと。そして、帰りの車での出来事。
 引き寄せられるように唇を重ねてしまったあと、うな垂れるように額をハンドルに乗せていた彼の姿を思い出すとやっぱり胸がズキズキと痛む。それは包帯を巻いている右手の甲の比ではなくて、物理的な痛みなんかより遥かに苦しくて辛い。
 何故ならば、私が仕出かしてしまったことはあの元彼のしたことと相違ない行いだったのだから。

「それで、その人がこの事は忘れてって言ったんだ。……でもそれ、なんかおかしくない?」

 それってあっちも自分からしちゃったと思ってるみたいじゃん、と頬杖をついている凛子さんが続けた言葉。
 もうあまり自ら思い出したくはなかったあの時のことを、なんとか反芻させてみる。
 杉浦さんの手のひらが私の頬に触れて、ゆっくりと動かされた指が私の耳をなぞった。夕焼けの色をした色素の薄い瞳がゆらゆらと揺れていて、思わず「きれいな色」と浮かされたみたいに声に出していた。
 でも、でもそんなことって。
 それはつまり、もしかしたら杉浦さんが私と同じ気持ちでいてくれたのかもしれない、という意味で。
 そんな筈はないと、それを振り払うみたいに首を横に振る。だって出会ってから今まで、それこそつい昨日だって私はあの人に迷惑しか掛けていないのに、そんな風に思われているわけがないのだ。
 テーブルの上に置いてあったスマートフォンの画面が着信によってパッと明るくなったのはそんな時だった。
 無意識にそちらへ視線をやると、その画面には「杉浦さん」という文字が浮かんでいた。


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