12-1.


 引き篭もりになる前から、元々寝付きのいい方ではなかったと思う。引き篭もるようになってから昼と夜の境が曖昧になって、絵美の事件が起きてからは更にそれが顕著になった。
 眠ろうと思って横になるのに目を閉じても眠れなくて、眠りたいのに眠ろうとすればするほど目は覚めて、考えなくてもいいことで頭の中が埋め尽くされていく。
 体に限界が来るとプツン、と電源が切れたみたいに眠ることが出来るので、いつの間にかそれを待つことしか出来なくなっていた。そんな異常な状態はそれこそ例の事件が片付いたつい半年前まで続いていたし、そこまででは無くなったけれど、今だってストンと眠りに落ちることは稀だ。
 それなのに八神探偵事務所に設置されているあのなんの変哲もない、寧ろどうみても睡眠をとるには適さない来客用のソファーでもう何度も寝落ちてしまっているわけだが、それが何故なのかは自分でも未だに解明出来ずにいる。
 まあ実際、心を許した人間の生活感を感じて安心できるからとかそんな理由だとは思うが、それを認めるのも口にするのもなんだかこっ恥ずかしいので、まだもうしばらくは気づいていないことにさせて頂きたい。
 そんな前置きはさておき。昨日の件のあと、なんとか帰宅した僕は体を投げ出すように布団の上に横になってみたけれど、勿論眠れるわけもなく。
 適当に脱ぎ散らかした服に視線を移したら、おそらく睡眠不足のせいで生じている頭の痛みに顔を顰める。ヒーロー気取りで名前さんを助けたくせに、結局そのあとで自分が彼女にしてしまった行為はあの男がした行いと相違のないものだった。
 後悔をしたってもはや後の祭り。遮光カーテンの隙間を縫うように差し込んできた朝日を遮るように顔の上に腕を乗せたあと、無意識に漏れ出てしまったため息は昨日からもう何度吐き出しているのだろう。
 強引なキスをされ、それがとても気持ちわるかったと話す名前さんの言葉を聞きながら胸がざわついたこと。その事実が頭から離れなくなって、ひどく不愉快な気持ちになった。
 ただの友人、もしくは知り合い程度の立ち位置である僕にそんな感情を抱く権利などないのに、所謂嫉妬心で息苦しくなるほどの怒りすら覚えた。何故もっと早く駆けつけられなかったのだろう、と今更どうにもならない過去を悔いる。
 あんなにも饒舌に、ペラペラと喋ってしまったのはそのせいだろうか。伏せていた事を洗いざらい話し終えたあとで助手席に座っている名前さんに視線をやると、彼女は泣きそうな表情でその手を震わせていた。
 その瞬間、どうしようもなく抱きしめたいと思ってしまった。忍び込んだあのパーティーで、連れ去られた名前さんを埃くさい倉庫の中で見つけた安堵感から衝動的に抱きしめてしまったそれとは違い、今回は明確にはっきり「そうしたい」と思った。
 シートベルトを外し、助手席側に身を寄せながら手を広げると、驚愕するように見開かれた名前さんの瞳が逡巡するようにゆらゆらと揺れた。
 彼女が戸惑っているのはわかりやすく伝わっていたが、そのシートベルトを外してやるとおずおずと伸ばされたのは包帯を巻かれている右手。柔らかくその手を引き込み、掠め取るように抱き寄せる。僕の胸に凭れかかる彼女の頭を撫でながら、そっとその柔らかい髪に頬を寄せる。
 やわらかくて甘い彼女の香りを感じていると、俄かに心臓の鼓動が早くなる。もうバレてしまっているんだろうなあと思いつつも、さすがにそれを何とかする術などないわけで。
 それよりも、こうしている間に沸いてきてしまったぐつぐつとゆっくり熱を高めていく感情、もとい欲の存在を、僕はいよいよ無視することが出来なくなっていた。
 ずっとこうしていたいと思いながら、このままこうしているのは良くないと訴えかけてくるのは殆どなけなしの自制心。

「自分から抱き寄せといてなんなんだけど、僕も一応男だからあんまりくっついてるとその……良くない気持ちが、こう」

 その場で主導権を握ってくれたのが理性の方で良かったと思う。ハッとした表情をして慌てて僕から離れた名前さんは「そ、そうですよね!」と赤くなった顔をぱたぱたと扇いでいる。

「私いつも杉浦さんに甘えちゃって、ほんとダメだなって思ってるんですけど……」

 小さく開いた口から紡がれたのは、僕を信頼しているという意味合いの言葉に違いなかった。それに気づき、ズキンと痛んだのは先ほどまでドクドクと鼓動を速くしていた胸の奥。
 彼女は、僕がつい今の今まで理性と欲望の間で揺れ動き、そして葛藤していたなんてことに微塵も気づいていない。あの男が働いた蛮行と同じことを、もしかしたらそれ以上のことを僕が「したい」と思っていることにも気づかないのだ。
 向けられている「絶対的な信頼」は最早重たくて、そして裏切ることのできない楔のようなものになっていた。どこまでも無垢で、純粋で、そして危機感のない彼女のことを罪深いとさえ感じてしまう。
 じっと名前さんを見据えながら距離を詰める。呼吸音すら聞こえそうな無音の空間、もうほとんど鼻先がくっつきそうな距離。いつ頬を叩かれるんだろうと思いながら、それ以上はもう止まることが出来なかった。
 重ねた唇は想像以上に柔らかくて、なぜか胸の奥が絞られるみたいに苦しくなった。そしてその瞬間だけは罪悪感とか葛藤とか、そんなごちゃごちゃした感情は都合よく思考の外側に追いやってしまうことが出来た。
 唇を離して呼吸を整えたあと、静まり返った車内で先ほどまでとはまるで違う雰囲気に己が仕出かしてしまった事の重大さをようやく悟る。
 最低な事をした自覚はあった。それなのに咎められず、突き放されたり抵抗をされなかったことに動揺していた。やってしまったと後悔をする自分。そして、それとは真逆に築いた信頼を打ち砕く己の所業によりこの関係性が終わる事を冷静に受け止めている自分。
 なんで怒らないの、と名前さんを問い質すことはしない代わりに僕の口から飛び出したのは、謝罪と「出来たら忘れてほしい」という最低のセリフだった。
 それにこくんと頷いた彼女の表情を思い出そうとすると、その記憶を蘇らせまいとするみたいに頭の痛みが阻害をしてくる。
 脱いだ服と同じく放り出していたスマートフォンに手を伸ばす。当たり前だが名前さんからの連絡は無く、それにほっとしてしまう自分に更に自己嫌悪が募る。
 ああもう、と発した情けないひとりごとは、ひどく掠れた声だった。


***


 ゲームコーナーシャルルへと続く階段を降りながら被っているフードを直し、足元に向けていた視線をほんの少し上げると、並んでいるカプセルトイが目に入ってきた。
 デコレーションオーシャン、と書かれたそれは、少し前に八神さんが「シークレットが出ない」と言いながら躍起になって回していたものである。ようやくシークレットが出たあとで「その被りまくったやつはどうすんの」と山になっている被りのカプセルを指して何気なく聞いたら「おまえそりゃ……えびすやだよ」と力の無い声で無表情に返された。
 そんなどうでもいい記憶を思い出しながら、軋むガラス扉を押す。レトロゲームが並ぶお世辞にも広いとはいえない店内の中に、いつもの如く客の姿は見えない。
 カウンターに肩肘をついて暇そうにしていた顔見知りの男性店員が、僕に気づいて小さく会釈をしてくる。

「えっと……東さん、いる?」
「店長なら裏にいますよ」

 カウンターの奥にある扉を示され、簡潔に「ありがとう」といってその扉のドアノブに手をかける。

「おいコラ八神ィ! 部外者が勝手に裏まで入ってくんじゃねえって何度も」

 扉を開けると、右手にあるソファーで煙草をふかしながら書類に目をやっていた東さんは、その眉間に深く刻まれたシワを深くしながら声を張った。
 しかし、現れたのが八神さんではなく僕であることに気づくと「って、杉浦……?」を驚いたようにその眉を上げる。

「……東さん。僕、もうダメかも」

 そんな弱音をぽろっと零すと、指に挟んでいたまだ長さのあった煙草を迷うことなく灰皿に押し付けた東さんは慌てた様子で立ち上がった。

「おいどうした? おまえがそれ言うと洒落になんねえぞ……」
「八神さんにも海藤さんにも言えないし、九十九くんにも軽蔑されたくない。もう東さんしか頼れないって思って……」
「わかった! わかったから、な!? とりあえず座れ、ホラ」

 こちらに寄ってきた東さんは、その眉尻を下げながら僕の肩をぽんぽんと叩き、ソファーに座るよう促してくる。

「つーかめちゃくちゃ顔色悪いぞ、寝てねえのか? 腹減ってんなら出前でも」
「ううん、いらない。お腹すいてないし」

 ありがとね、と返すと「まあそれなら」と控えめにこちらの様子を伺ってくる。やっぱりこの人、見てくれだけそれっぽくしてても中身は全然ヤクザって感じしないよなあ、と胸の奥がほっとしたように緩んだ。
 八神さんと廃業したホテルに忍び込んで何やかんやあったあと、情けなくもこの場所でわんわん泣きじゃくっていた僕に対して「……なんか腹減ったな。おい、付き合えよ」と不器用に連れ出してくれたことを思い出す。

「あのさ、ツッコミとか何も入れないでとりあえず聞くだけ聞いてほしいんだけど」
「おう」
「僕、付き合ってないのに名前さんにキスしちゃった」
「…………は?」

 そう言ったっきり硬直してしまった東さんに、ここ最近の出来事を掻い摘んで話す。
 名前さんの元彼が彼女を探して神室町に現れたこと。こともあろうかその依頼をしに訪れたのは八神探偵事務所だったこと。そんなことがあって、僕がここ一週間は源田法律事務所から駅までのボディーガードを請け負っていたこと。
 それから昨日。残業をしていた名前さんが一階にあるコンビニに行こうと外に出ると、その人がいて一悶着あったこと。無事に彼女を救出して、車で怪我の手当てを済ませてから走らせた車の中での会話。それから、自分を抑えることが出来ずにあんなことをしてしまったこと。
 東さんは腕を組んで眉間にシワを寄せながら、その視線を何本かの吸い殻が乗っかっている灰皿に向けたまま動かない。ぎゅっと結ばれたその口から話の腰を折るような言葉が飛び出してくることもなく、最初に伝えた通りただただ僕の話を聞くことに徹してくれているようだ。

「ねえ、僕どうしたらいいんだろ……」
「し、知るかンなもん! つーか知るかよ以外の感想が出て来ねえわ!」

 話し終えると、ずっと我慢していたらしい切れ味の鋭いツッコミが飛んできた。話をした僕でさえ「そうだよね」という感想を持ってしまうのだから、何も言うなとただ聞かされていた側がそうなるのは当たり前と言わざるを得ない。
 別に「元気出せ」とか「なんとかなる」みたいな慰めの類の言葉をもらいたかったわけではない。寧ろ、ハッキリキッパリ最低だと切り捨ててもらえたほうが気が楽になると思った。
 八神さんは僕にボディーガードを任せたことでこじれてしまったことに自分の責任すら感じてしまうだろうし、海藤さんにも応援されている手前なんとなく言い出し難い。九十九くんに言えば、優しい彼のことだからきっと必死になって僕を慰める言葉を探してしまうに違いない。
 だからきっとこの人 ── 東さんなら容赦無く説教をしてくれるだろうと、そう思ってこの場所を訪れたのだ。結局どこまでも甘えたな自分に呆れながら「仕事中にこんな話聞いてもらっちゃってごめん」と頭を下げる。

「……っ、だァもう! とりあえずその……なんでしちまったんだ? 苗字さんのほうはどうだったんだよ」
「え……? ああ、名前さんの唇はすごい柔らかかったよ」
「ハァ!? 違えよ! そのどうだったかじゃねえ、俺が聞いてんのは相手のリアクションだ!」

 バン! と目の前にあるローテーブルを手で叩きながら怒鳴る東さんの声が狭い部屋に反響する。東さんのこめかみに浮き出た青筋をぼーっと眺めながら、いまこれがブチっといっちゃったら当たり前だけど僕のせいだよね、とぼんやり考える。
 この会話が外にいる店員の彼にも聞こえてしまっていることを悟りながら「あー……そっか、そうだよね」と返すと、東さんは深いため息を吐きながら取り出した煙草に火をつけた。

「……なんていうか、びっくりした顔してた」
「泣いたり怒ったりしてたか?」
「ううん、ただびっくりして呆けてるかんじ。……思い出したらまたへこんできた」

 ふう、と東さんの口から吐き出された煙が上へ昇る。ゆらゆらと揺れるそれを見つめながら、名前さんは今どうしているのだろうと考える。
 あの男と同じ暴挙に出てしまった僕のことを、なぜ彼女は咎めなかったのだろう。最低だと罵ってくれたらよかったのに、信じていたのにと泣いてくれたらよかったのに。
 そして、僕が発した「出来たら忘れてほしい」という言葉に、どうしてあんなにも物分かり良く頷いたのだろう。
 唇が離れたあと、潤んだ瞳でこちらをじっと見つめていた名前さんの頬は、そういえばうっすらと桃色に染まっていた。

「……まあなんだ、俺から言えんのはひとつ。惚れた女にしっかり誠意見せらんねえような奴は男じゃねえ」

 自分がどうするべきなのか。そんな簡単なことに気づけないほど間抜けでも愚鈍でもない。
 ただ立ち止まったまま、情けない自分を攻め立てて弱音を吐きながら俯いているだけじゃなくて、本来何をするのが正しいのかなんて、本当は自分でもとっくにわかっていた。

「悪かったって思ってんなら、罵倒されようが絶縁突きつけられようが正面から頭下げるしかねえだろ」

 わかっていたのに行動に移すことができなかったそれを真正面から突きつけられるのは、物理的に頬を張られるよりもよっぽど効いた。
 それと同時に、沈んでいた気持ちがゆっくりと浮上し始めたのがわかる。足元しか照らされていなかった真っ暗な場所でも、その先には道があることにようやく気づく。

「東さん、めちゃくちゃカッコいいね」
「あァ!? この野郎、この後に及んで人のことおちょくってんのか!?」
「違うって。……なんかさ、僕の周りの人ってカッコいい人ばっかりだなって改めて思っちゃった」

 自分の世界に閉じこもっていた時も、衝動的にこの町に出てきた時も、僕が見ようとしている範囲はとんでもなく狭かった。斜に構えているだけでは見えないものや、違う方向からちゃんと知ろうとしなければわからないこと、自分から拡げていかなきゃ気づけないことばかりなんだってわかったのはつい最近のこと。
 自分のことで精一杯だった余裕のない心にいつの間にか生まれていた隙間から、徐々に広がっていったそれは周りにいる人たちへの信頼とか尊敬とか、ちょっと口にするには恥ずかしいものばかり。
 そんな僕の言葉に一瞬サングラスの奥の瞳を丸くした東さんは、困ったように眉尻を下げて目を細めながら「そうかよ」とどこか気恥ずかしそうに笑った。

「で、どうすんだ? 腹ァ決まったか?」
「うん。ていうか、たぶん自分でもどう行動しなくちゃいけないかなんてわかってたんだ。こうやって説教して欲しかっただけ、甘えてごめん」
「ったく、深刻なツラしてビビらせんじゃねえよ」

 吸っていた煙草の火を灰皿に押し付けた東さんに軽く後頭部を叩かれ、咄嗟に「痛った!」と不満を漏らせば「仕事の邪魔しやがって」と返される。ここ毎日閑散としてるじゃん、という言葉は飲み込んでから、損なほど人のいい東さんが組内で慕われている理由を改めて認識する。

「ねえねえ、これから東さんのこと兄貴って呼んでもいい?」
「ぜってえ止めろ」
「あはは! だよねえ」

 それじゃあお仕事中失礼しました、と頭を下げてから立ち上がる。被りっぱなしだったフードを脱ぐと、さっさと帰れ、とでも言うように手で払うようなジャスチャーを返された。
 扉を開けて部屋から出ると、やはり会話を聞いていたらしい店員の彼に「頑張ってください」と深刻な声で背中を押される。それに苦笑いを返しながら歩き出した僕の視線は、もう足元へは落ちない。
 つい先ほどは重い足取りで降りたその階段を上り終えると、視界に入ってきた暮れかけの夕日に目を細める。
 その場でぐーっと伸びをしてから「それじゃ、覚悟決めますか」と小さな声で呟いて、ボトムスのポケットから取り出したスマートフォンの画面をタップした。


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