9.


 喫茶アルプス。神室町中通りに店を構える昔ながらの喫茶店は、聞くところによるとかなり昔から営業しているらしい。
 どこかレトロな雰囲気と多様多種なコーヒーの銘柄、時代錯誤には思えるがこれぞと言った感じのパフェ類。時代に則していかないといけない部分もあれど、軸をブレずに進んでいくこともお店を長く続けていく秘訣なのだなあ、などとぼんやり思う。

「ごめんね、アタシのせいで名前のこと危ない目に合わせちゃって」

 アイスコーヒーの氷をストローでつつきながら、対面の席に座る凛子さんは改まったようにその言葉を口にした。私はあわてて首を横に振りながら「でも、それは私が本当のこと言えなかったせいだから」と否定する。
 例の件からもうすぐ二週間が経過する。あの夜から二日後、源田法律事務所にやってきた八神さんが抱えていたのは現場で紛失したと思っていた私のカバンで、その中には画面が割れてしまっていたがスマートフォンもちゃんと入っていた。
 この案件は弁護士事務所の管轄ではないため、以降の対応は警察に預けることとなった。杉浦さんと私があの場所から抜け出して、私がタクシーに乗せられたあと八神さんが警察を呼び、あの場所にいた犯人たちは粗方逮捕されたらしい。
 結局その背後にどのような組織がいたのか、それが所謂やくざだったのか、はたまた半グレ集団だったのかはわかっていない。
 しかし、既にこちらの手を離れた案件なのでこれ以上首を突っ込むことは出来ないし、知る術も無い。今こうしてここに居て、変わらない日常を生きている。きっとそれだけで御の字だ。

「凛子さんも私も無事だし、その……解放されてよかった、んだよね?」
「もちろん、名前と八神さんたちには本当に感謝してるよ」

 凛子さんは「ありがとう」ともう何度目かわからない感謝の言葉を述べる。
 聞くところによると、彼女は妹さんと二人で暮らしているのだという。私と同じく地方から出てきた凛子さんは、ネイリストになって自分の店を持つことが夢だったらしい。そして六つ歳下の妹さんも同じ夢を抱いて去年上京してきたのだそうだ。
 専門学校にいた頃からあのメイド喫茶ではアルバイトをしていて、その系列店であるキャバクラにスポットで手伝いに入った時「もっとお小遣い稼ぎしたくない?」と声をかけられたのが始まり。それはちょうど妹さんがこっちにやってきた頃だった。
 お酒の試飲会だと聞かされて、そのまま三、四回その場に居るだけのサクラを演じたあと、あの時の私たちのように拉致される女の子を目撃してしまった。偽りの試飲会の裏側を知ってしまったのだ。

「なんで生きてるのかわからなくなってたんだ。あいつらに目ェつけられて、必要な時だけ呼び出されて。逃げ出したくても妹のこと知られてるし逃げられない」

 おまえが逃げたら学校行ってる妹ちゃん、どうなるんだろうね。
 その意味がわからないわけはなく、それが脅しであることもちゃんと理解していた。
 何も知らずに誘き寄せられやってくる同世代の女性たちを見ながら、自分が関わってしまっているということに何度も吐き気を覚え、トイレに駆け込んでいたと凛子さんは話してくれた。

「でも、アンタたちが助けてくれた」

 そう言って歯を見せて笑う凛子さんの表情はとても晴れやかで、屈託のない笑顔につられてついつい私まで口元が緩んでしまった。思えば、神室町に出てきてから同世代の女の子と向き合ってお茶をするのは初めてだ。
 怖い思いをしたし、反省しなくちゃいけないことだらけだけど、こうして凛子さんと知り合いになれたことは私にとってこの街に来たことで得られたかけがえのない縁である。
 一念発起して上京し、この神室町に足を踏み入れてから色々なことがあったけれど、この場所で得たいちばん大切なものって周りの人たちとの繋がりなのかもしれない。
 そんなことを考えている私の頭の中にぽん、と浮かんできたのは杉浦さんの事だった。
 手を引かれるがままに会場を抜け出し、雨の中を歩いたあの夜。あっという間にタクシーに押し込まれ、何も言わせてもらえないまま別れて以降、彼とは連絡を取っていない。
 散々念を押されていたのに、結局迷惑を掛けてしまった。普段は穏やかで、突発的な出来事にもほとんど動じることのない彼があんなに声を荒げる所を見たのは初めてだった。
 気まずいとうじうじしていても、時間はこちらのことなど気にせずどんどん駆け抜けていってしまう。
 どうしよう、と悩み続けているだけでは謝るタイミングなんか訪れないということをちゃんと理解していても、私はメッセージアプリの中に表示されている「杉浦文也」という名前をじっと見つめるだけで、そこに文字を打ち込むことが出来なかった。
 ちゃんと面と向かって謝りたい。しかし、その約束を取り付けるための文章が思い浮かばない。直接会って謝らせてくださいって連絡出来たとしても「そんなのべつにいいよ」と、暗に会いたくないと返されてしまったら、それで全てが終わってしまう。そんな想像だけで、何故だか胸が引き裂かれるみたいに痛んだ。

「……で! 話変わるんだけど、目標なくなっちゃってがむしゃらに働いてたからアタシ貯金だけはあってさ」

 そんな凛子さんの明るい声にハッとして顔を上げる。私が首を傾げながら「うん?」と返事をすると、彼女は得意げな表情を浮かべて「これ!」と自分のスマートフォンを指差す。
 次の瞬間、私のスマートフォンの画面にポン、とメッセージアプリの通知が表示された。送信してきた相手は目の前にいる彼女だ。
 開けてみて、と促され、アプリを起動し、送られてきた画像をタップする。

「ネイルサロン……え!? お店持つの!?」
「うん、いいタイミングだし。まだ物件見つけてこのチラシ作っただけだけどね」

 名前にはサービスするから開店したら是非来てよ、と笑む凛子さんに間髪入れずに頷く。

「あ、ていうか名前はこのあと八神さんとこ行くんだっけ?」
「うん、うちからサインとかお願いしなきゃいけない書類あるから渡しに」
「そっか。……あ、メンズネイルもやってるからよかったらって言っといてよ」
「うわ、早速商魂たくましい」
「そらそうよ、なにせ店長ですもん」

 とりあえず、彼女がこうして心の底から笑えているという事実だけで今回の件については及第点であると思いたい。
 しかし、私の心にかかる得体の知れないモヤモヤは、まだ簡単に晴れてはくれなさそうだ。


***


 軽く三度ノックをしてから、ギィ、と鳴る扉のノブを捻る。控えめに顔を覗かせると、その部屋の中のどこにも八神さんの姿は無く、私はうーんと思案するように腕を組んだ。
 八神さんからは「十八時過ぎには戻ってると思うから、その頃に来れる?」と言われていた。でもまあ今日はもう退勤したし、急いで帰らないといけない予定も無い。ここで待たせてもらうことにしよう。
 そんなことを考えながら、八神探偵事務所の中へと入り扉を閉める。
 と、二人掛けのソファーからスニーカーの靴の底が飛び出していることに気がついた。
 なんだろう、と思いながらゆっくりと忍び寄り、ソファーの背面からそっと覗き込む。すると、そこには腕を組んで目を閉じている杉浦さんの姿があった。
 うわ、と声を出しそうになるのを寸でのところで堪え、静かに、且つ速やかに正面へと回り込む。
 耳を澄ませると、微かに彼の寝息が聞こえる。その呼吸に合わせて胸がゆっくりと上下しているところを見ると、完全に寝入ってしまっているようだ。
 そういえば少し前、杉浦さんに会いたくて八神探偵事務所を訪れた時も、この人ここで寝ちゃってたっけ。
 手に持っていたカバンと書類の入っている紙袋をそっとテーブルの上に乗せた私は無意識のうちにしゃがみこみ、至近距離でその無防備な寝顔を観察しはじめていた。
 また留守番でも頼まれたのだろうか、寝ちゃってるけど。時間的な拘束も曖昧な探偵業が毎日不規則なことは容易に想像がつく。なかなか体も休ませられなくて大変そうだ。でも確か、杉浦さん自身が「自分は探偵ではない」と言っていたような。
 まあいっか、と思いながら、これはチャンスとばかりにそのご尊顔を存分に眺める。
 色白の肌に血色のいい唇。顔だけを見れば女性に成りすますことが容易だったのが納得できるほど綺麗な顔立ちをしているが、思いの外しっかりとある喉仏と、フードの襟元から覗く太めの鎖骨に視線をやってからなんだか恥ずかしい気持ちになってきてしまった。ふるふると首を振り、ふうとひとつ息を吐き出す。
 なんだろう。最初に杉浦さんの寝顔を見た時と、今感じたことが少しだけ違うような気がする。
 胸の奥が痛くなったり、喉の奥が窄まるみたいになったり、どうしようもなく泣きたくなるような、そんな気持ちがじんわりと身体中を巡り始める。
 杉浦さんがぱちり、目を開いたのはそんな時だった。
 突然視線が合ったことに驚いてしゃがんだまま咄嗟に身を引くと、背後に設置してあるローテーブルに背中を強かに打ち付けてしまった。背中に走った鈍い痛みに条件反射で「痛った!」と声を上げてから、彼の視線がこちらに注がれていることを思い出した。

「う、ん……?」
「ご、ごめんなさい! 疲れて寝てたところを起こしちゃって……」

 八神さんに用事があって、と小さな声で言い訳をしている私を、まだぼんやりとした表情でじっと見据えている杉浦さん。気まずさと申し訳なさで視線を合わせることが出来ず、それ以上何かを言うことも出来ず、私はただただ口籠もる。
 横になったまま、ぼんやりとこちらへ視線を向けているだけだった杉浦さんが手を伸ばし、掴んだのは私の腕だった。え、と驚いて言葉にもならない声を漏らすと、ぐい、と彼の方へ引き寄せられる。

「……名前さん」

 ほとんどくっついているような距離で、しかも耳元で吐息交じりに名前を呼ばれた私の体は石になったみたいに硬直した。背中がぞわっとして、耳のあたりから首までがぎゅん、と一気に熱を持つ。

「ひざ」
「……え?」
「貸して」

 そう言うと、杉浦さんは緩慢な動きでゆっくりと上体を起こした。
 ええとそうだ、彼はいま「ひざ」と「貸して」というふたつの言葉を発した。つまり、ええと、それってどういう……?
 掴まれたままの腕をちょいちょい、と引っ張られ、促されるがまま空けられたその場所に座ると、彼はそのまま私の腿の上に頭を乗せ、再び目を閉じてしまった。
 ひざ貸してってそういう意味だったんだ。ていうかそのままの意味だけど、まさか「膝枕してくれ」とねだられるなんて誰が予想出来ただろう。

「思うんだけどこれ、膝じゃなくて腿だよね……なんで膝枕って言うんだろ……」

 杉浦さんは目を閉じたままそれだけ言うと、また静かに寝息をたてはじめた。

「え、寝言……?」

 私は未だに状況の把握が出来ておらず、自分の膝、もとい腿の上で目を閉じている彼のことをじっと見つめながら、手のやり場に困って「降参!」みたいなポージングをとってしまっている。
 ガチャ、と背後の扉が開いて、バタバタと入ってきたのは八神さんで。私は両手を顔の横に上げたまま、くるりと振り向いて「お邪魔してます……」と引きつった愛想笑いを浮かべる。

「ごめん名前ちゃん、待たせちゃったね。……ん?」

 謎のポージングをしたまま固まっている私を見て、八神さんが不思議そうな表情で首を傾げる。
 そんな八神さんに向かって自分の腿の上をちょいちょい、と指差して見せると、彼は背後からその様子を覗き込んで「あー、なるほど」とどこか楽しそうに言った。

「なんだ? どうした?」
「海藤さん、そーっと覗いてみ」

 八神さんの後ろからにゅっと首を出したのは、そこにいるだけで賑やかな海藤さんだった。
 人差し指を口元に当ててどこか悪戯っぽく言った八神さんと、こくこくと頷いているだけの私を交互に見遣った海藤さんは「なんだってんだよ」と訝しげに眉根を顰めつつ、八神さんに続いてその場所を確認した。

「ほお……女の子の膝枕たあ、こりゃあさぞ夢ン中でいい思いしてんだろうぜ」

 堪えるように笑った海藤さんは、ニッと口角を上げながら「名前ちゃん、あとでちゃんとこいつに膝枕代請求してやれよ」と冗談ぽく言った。

「膝貸してって言われて、そのまま寝ちゃって……」
「あー……昨日の夜から今朝まで張り込み手伝ってもらってたから」
「車出してもらってよお」
「そっか、疲れてるんですね」

 お疲れ様です、と小さく声をかけながら、寝息を立てている彼の髪にそっと触れる。色の抜けた髪は想像以上に柔らかくて、まるで猫を撫でているかのような錯覚を覚えてしまう。
 杉浦さんが寝入っているのをいいことにその整った顔を観察するのを再開すると、あの場所にいた男たちとやり合ったせいで出来てしまった彼の顔の傷はもうほぼ分からなくなっていることに気づく。
 イケメンの顔に傷が残ってしまったらどうしよう、と懸念していたのでひと安心だ。

「あ、八神さん、テーブルの上に書類入ってるんですけど」
「そのまま置いといてもらっていいよ、いつもありがとね」

 声を潜めて会話してはいるが、少し賑やかになったこの空間でも杉浦さんが起きる気配はない。よっぽど疲れているのだろう。

「おいター坊、オレらは邪魔になりそうだし飲みにでも行くか?」
「そうだね、起こしちゃ悪いし」

 海藤さんの提案に八神さんが頷く。
 朝まで張り込み手伝ってもらってた、と八神さんは言っていたけれど、それはこの二人も同じだろうに。それなのにこれから飲みに行くとは、彼らは私が思っている以上にタフらしい。

「……私、杉浦さんが起きるまでここにいてもいいですか?」
「もちろん。好きなだけいてくれて構わないよ」

 八神さんは「あ、そうだ」と思い出したようにジーンズのポケットからスマートフォンを取り出し、それを寝入ってしまっている杉浦さんに向けた。次の瞬間にはパシャリと響くシャッター音。あの偽カップル作戦のあと、ここで寝落ちてしまったらしい杉浦さんの写真はこっそり保存してあるが、今の写真も是非とも見せて頂きたい。
 そんな私の思考を読み取ったのか「あとでちゃんと送るね」と言った八神さんと、ヒラヒラと手を振ってから「そいつのこと頼んだぜ」とぐっと親指を立てた海藤さんは再び事務所を出て行く。
 静かになった事務所の中とは正反対に、窓の外にある神室町という街が夜を迎えて賑やかになりはじめているのを感じる。
 腿の上に杉浦さんの体温を感じつつ、あどけないその寝顔を眺めていたらどうしようもないほどに胸がいっぱいになってきてしまう。くるしいし窮屈だけど決していやな感じではなくて、綿みたいにふわふわとしたやわらかいもので身体中が満たされていくような不思議な感覚。
 杉浦さんが目を覚ましたら、心配をかけてごめんなさい、助けてくれてありがとうございましたって今度こそちゃんと謝ろう。
 せっかく知り合えたのに、こうして仲良くなれたのに、築いた心地の良い関係がよそよそしいものに変わってしまうことを考えるだけでつらくてつらくてたまらない。
 それがどうしてなのか、今までだって思い当たる節がない訳ではなかった。きっと、私は無意識のうちにその感情から目を背け続けていた。なぜならば、それは今の私にいちばん必要が無くて、そして縁の無いものだと思い込んでいたからだ。
 初めて神室町を訪れて助けてもらった時、強引に手を引かれても嫌な感じはしなかった。
 再会して名乗り合った時、チンピラから助けてくれた。危ないところを、身を呈して庇ってくれた。
 成り行きでカップルのふりをした時、私を揶揄うみたいにドキッとさせたかと思うと、そのあとに見せてくれたのはクレーンゲームに夢中になる子どもみたいに無邪気な表情。
 そして、地下のあの場所で怪我をしながらも救い出してくれた時。
 関わりをひとつひとつを思い返すと、その時々で感じた胸の高鳴りを明確に思い出していく。顔を合わせる度に気持ちは募っていくばかりだったのに、無意識にそれを押さえつけ、知らないふりを決め込んでいた。
 そして私はもう、その感情の名前を知っている。

「ん……」

 小さく呻いた杉浦さんはゆっくりと目を開くと、状況を確認するみたいに視線を揺らがせ、何度かまばたきをする。しばらくするとその視線は私にとまり、見る見るうちに驚愕の表情へと変わった。
 飛び上がるみたいに勢いよく起き上がった杉浦さんは、たった今まで自分が頭を置いていた私の腿と、私の顔とを信じられないものでも見るように交互に凝視している。
 珍しく動揺した様子で全ての動きを止めてしまっていた彼は、両手合わせながら「ごめん」とため息混じりに吐き出し項垂れてしまった。

「いや、ごめんじゃ済まないよね……。なにやってんだろ」
「大丈夫ですよ! 私、今日はここに寄ってそのまま帰っていいって言われてるので」
「そういうことじゃなくてさ……。いや、それもあるんだけど」

 杉浦さんは私と視線を合わせようとせず、額に手を当て再び固まってしまう。
 外の喧騒だけが聞こえてくる無言の室内。居た堪れなくなって「あの、この間は」と意を決して切り出すと、杉浦さんは手のひらを突き出して私の言葉を遮るように制しながら力なく首を振った。

「……こないだ、怒鳴っちゃってごめん」

 杉浦さんは、床に落としていた視線を私へと戻しながらそう言った。予想もしていなかった彼からの謝罪に動揺して、今度は私は口をぽかんと開けたまま固まってしまう番だった。

「謝らないでください! あれは私が悪かったんです、動くなって言われてたのに……」
「ううん、サクラやらされてた子から聞いたんだ」

 名前さんが留まろうとしてたけど、無理やり手を引いて逃がそうとしたってこと。杉浦さんはどこか自嘲的な笑みを含みながらそう続けた。
 それでも、やはり私が動いてしまったせいで杉浦さんが怪我をしてしまったことには変わりない。凛子さんが私と一緒に捕まることだって避けられていたかもしれない。

「でも、私がご迷惑お掛けしたことには変わりないです。ごめんなさい」

 いつも杉浦さんに助けてもらってばっかりですね、と続けてから、自分の無力さを改めて感じ、なんとも言えない苦い気持ちが溢れてくる。
 ただこれからも今まで通りに過ごせたらいい。顔を合わせたら他愛もない会話をするだけでいい。しかし、自分の気持ちを無視出来なくなってしまった今、そう願ってしまうことは些か不純すぎるかもしれない。

「……違うよ」

 困ったみたいに寄せられた眉根。柔らかく細められた瞳。私が小さく首を傾げると、彼は次の言葉の準備をするみたいに「あのね」と静かに言った。

「いちばん最初も、その次だってこの間だって、僕が名前さんを助けたいと思ったからそうしたんだ」

 だから、もう謝らないで。
 そう発した彼の声音も表情もその言葉も泣きたくなるほどに優しくて、うっすらとしか輪郭を確認できていなかった気持ちがハッキリと明確に姿をあらわしたことを認めてしまった。
 どうしよう。どうしよう、この気持ちってやっぱりそういうことだったんだ。いつからだろう、わからないけれど、でも。
 どくんどくんと鼓動する心臓の音がやけに大きく聞こえて、思わず自分の胸の前でぎゅっと両手を握りしめる。
 しかし、こちらを覗き込んでくる杉浦さんの側頭部にぴょん、と跳ねた寝癖を見つけたことで気が抜けてしまった。堪えきれずに笑ったら、彼はムスッとしながら「ちょっと、僕真面目な話してるんだけど」と口を尖らせる。

「ふふ、ここ寝癖ついちゃってます」

 かわいい、と漏らしながらその髪の毛の端っこに手を伸ばして指でつつくと、杉浦さん ── もとい私が好きになってしまったその人は「え、ホント?」と慌てながら私が示したあたりを撫でつけるように触った。


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