8-4.


 背中に感じるのは冷たい床の感覚。頭の中は靄がかかっているみたいにぼんやりとしている。いま自分が起きているのかいないのか、目を開いているのかいないのか、そんなことすらわからない。
 どうして私はここにいるんだろう。ついでにここはどこだっけ。それを思い出すことに、さほど時間は掛からなかった。
 劇場横裏通りの雑居ビル地下に潜入して、凛子さんと再会して、その場所から逃がそうとしてくれた彼女と私は加害者らしい男たちのグループに捕まってしまったのだ。
 そうだ、私はあの時なにかの薬品を嗅がされて気を失った。サスペンスドラマとかでしか見たことのなかった非現実的な状況を、まさか自分が体験することになるなんて。
 ズキン、と頭の痛みを感じて思わず眉を顰めると、まだハッキリしない視界の中でいくつもの視線が自分に注がれていることに気がついた。

「あ、起きたね。おはよう、名前ちゃん」

 そう声を掛けてきたのは、入り口にいたあの男。彼は私を見下ろすように覗き込みながら、人懐こい笑みを浮かべてヒラヒラと手を振って見せる。その笑みにどす黒いものを感じ、無意識に口をぎゅっと結んでしまう。
 どうやら私はいままで床に転がされていたらしい。体の痛みを感じながら、なんとか上体を起こそうとするが上手くいかない。呼吸をするように、意識せずとも自然に行える筈の動きが何故出来なかったのか。それは、両手首を何かで拘束されてしまっているからだった。
 五、六人の男たちに囲まれながら、なんとか視線を動かして周りの様子を確認する。辺りに私のカバンが見当たらないので、あの場所で落としたままになっているか、持ち去られてしまったのだということがわかる。
 そして、取り囲まれてしまっているせいで凛子さんが近くのいるのか確認することは出来ない。出口がどこなのか把握することも、そもそもこの場所がどこなのかもわからない。なんとか足だけで後ずさりを試みたものの、ただ壁に寄るだけの無駄な行動だった。
 榊さんも、今の私と同じ状況に陥ったのだろう。どんなに心細くて怖かったか。彼女の話を聞いただけの私には想像すらできなかったが、今となってはそれがわかる。

「こわいよね。目をさましたら知らない場所で腕縛られてて、しかも男に囲まれてるなんて」

 寄り添うような言葉を並べているが、その男が発した「こわいよね」というセリフに私への共感など一切込められてないことがハッキリとわかった。
 男は受付のあの場所で中に入る女の子を全て撮影して流していること、その中からモニタリングしている部屋の中で誰を今回のターゲットにするか投票が行われているのだと話した。
 意気揚々と暴露をする男の顔が、まるで人間ではないばけものに近しいものに思えてくる。一人の男がこちらにスマホを向けていることに気づき、不快感で胃の中がねじれるように痛んだ。

「あ、これね。これであっちに流してんの。こういうシチュエーションが好きな人って意外と多くてさ、このレンズの向こうで早く始めろってうずうずしながらお待ちかね」

 ここだけの話、めちゃくちゃいい商売だよ。
 男は、そのスマートフォンに声が入らないように私の耳元でそう言った。それだけでゾクリ、と悪寒で肌が総毛立ち、喉の奥が恐怖で引き攣りそうになる。先ほど杉浦さんに耳元で囁かれた時とは全く違う、不快感と嫌悪感だけがまとわりつくように残る。

「ところで君、飲み物飲んでなかったよね。だからこのまま進めちゃうんじゃしんどいと思うんだ」

 頭ふわふわしてた方がたぶん辛くないし、ちゃーんと気持ちよくなれるよ、とにこやかに言った男が取り出したのは、どこからどうみても注射器だった。この状況で注射器を見せられて、その中の液体がどのようなものなのかわからない程察しが悪いわけではない。
 目の前で起こっていることはまさに今自分の身に起きていることなのに、あまりにも非現実的すぎて視線しか動かすことが出来なかった。なんとか逃げなくちゃ、と思うのに体が動かない。力が根こそぎ抜けてしまったみたいで、おなかの奥から全身に震えが拡がっていく。
 あの時、口篭らずに凛子さんに全て話してしまえばよかったのかな。私の頭の回転がもう少し早かったら、最善策がぱっと浮かんだかもしれない。杉浦さんにも迷惑掛けたくないって思っていたのに、ちゃんと約束もしたのに。
 急に目の奥が熱くなるのを感じた。怖いのももちろんある。けれど、自分で手伝いがしたいと申し出たくせに足手まといにしかなっていないことが悔しくて悔しくてたまらなかった。
 私が泣きそうになっているのを感じたのか、周りの男たちが俄かに沸き立つのを感じる。どうして泣きたくない時に限って涙が溢れてきてしまうのだろう。絶対に泣きたくなんかなかったのに。
 注射を持つ男が縛られたままの私の腕を掴み、違う男が私の足首を掴んで暴れないように拘束する。大の男二人に固められてしまっては抵抗することなど到底出来ず、もう後ずさりさえ叶わない。
 バァン! と何かが割れたような、もしくは爆発するような例え様のない音が部屋の中に響いたのはそんな時だった。
 驚きのあまり体を大きく震わせてしまい、そのせいで今にも溢れそうだった涙がぼろっと頬を伝う。私に向いていた男たちの視線は剥がされ、その足の隙間から灯りが漏れる。そこでようやく爆音の正体が扉が勢いよく開いた音だったのだと気づいた。

「はいどうも、八神探偵事務所です」

 その声に、引っ込んだはずの涙がまた込み上げてくるのを感じた。 
 いつもと変わらないトーンの八神さんの声に続いて、私を取り囲んでいた男たちが壁の方へと一気に吹っ飛んでいた。私の腕を掴みながら注射器を握っている男だけが残っているが、他の男たちは呻きながら地に伏している。

「おお、名前ちゃんがいたぜ! 大丈夫だったか!?」

 そこに立っていたのは海藤さんで、私は突然射し込んだ人工的な灯りの眩しさに目を細めながらこくこくと何度も頷く。どうやら、私を囲んでいた男たちを一気に片付けてしまったのは海藤さんらしい。

「悪いけど、その子返してもらうよ。……で、お前ら全員お縄ね」
「おいター坊よお、おまえちょいちょいダサいこと言うよな」
「ちょっと、締まんないじゃん。茶々入れないでよ海藤さん」

 なんだよこれ、と呆気にとられた様子で男が呟き、私の腕を掴んでいる力がふと緩んだかと思うと、次の瞬間その男も何者かの攻撃を受けて地面を転がっていた。
 その男をノックアウトしたのは杉浦さんの足技だった。いつの間にか真横にしゃがみ込んでいた杉浦さんは女装姿のままだったが、男が立ち上がれないのを確認すると私の手首を拘束していた結束バンドを切ってくれた。
 よく見ると、彼の手の甲には赤い血が滲み、その端正な顔の口の端は切れて赤黒く変色している。必死になって私のことを探してくれたのだと、彼の痛々しい姿を見てすぐにわかった。
 申し訳なさと罪悪感と安心感がごちゃごちゃに混ざり合い、思わず「杉浦さん」と掠れた声で彼の名前を呼ぶと、彼はその顔をくしゃりと歪めた。
 次の瞬間、私はその胸に抱きすくめられていた。最初に出会ったときにかいだ彼の香り、それに少しのほこりっぽさと汗のにおい。しっとりとした首筋には汗が伝っていることに気づく。

「無事でよかった……」

 そう一言だけ、絞り出すみたいに耳元で聞こえた彼の声に胸がくるしくなる。
 私がちゃんと約束を守らなかったせいでこんなことになってしまったのに、何度も念を押されていたのにそれを破ってしまった。
 それでもこの人はその綺麗な顔に傷を作りながら助けに来てくれた。それを嬉しいと感じてしまう私の心の浅はかさに、うっすらと自己嫌悪が積もっていく。
 それなのにどうしてだろう。彼の胸に顔を寄せているだけで胸がいっぱいになって、あたたかくて、息苦しいのにちっともいやじゃない。それどころか、なぜかまた涙が溢れそうになってしまった。

「じゃあ杉浦、名前ちゃんのこと頼んだよ」
「……うん、任せて」
「あ、そうだ名前ちゃん、メイド喫茶の子もちゃんと助けたから安心してね」

 その八神さんの言葉に頷きながら、凛子さんも無事であることに心底安堵する。
 杉浦さんは着ていたテーラードジャケットを脱ぐと「それ着てて」と私に手渡してくる。そこで、ようやく着ていたシャツの前を引きちぎられていたことに気づく。下着丸出しの羞恥心よりも、お見苦しいものを見せてしまったという申し訳なさで慌てて前を隠し、渡されたジャケットを羽織る。
 杉浦さんは私の手を掴むと、立ち上がって早足でその部屋を出た。通路に出て背後を見ると、まさしく死屍累々という状況で、そこかしこに倒れている男たちの姿がある。にわかには信じられないが、状況から見て八神さんと海藤さん、それに杉浦さんの三人でこの人数を伸してしまったらしい。
 繋いだ手のひらから感じるのは、杉浦さんの手のひらの温もり。彼と手を繋いだのは、あの偽のカップル作戦の時以来だ。
 あの時よりもっと熱く感じるその手から、そしてこちらを振り向こうとしないその背中から静かな怒りのようなものを感じる。それはこのパーティーにだけではなく、私にも向けられているのだ。
 非常口を示す緑色のライトが灯っている扉を足早に抜け、彼に手を引かれるまま階段を上った。


***


 名前さんがいなくなったことに気づいた時、一瞬時が止まってしまったような錯覚を覚えた。その広い空間の中で必死に目を凝らして見ても彼女の姿は無く、呼吸が浅くなるのを感じた。
 約束、なんていって小指を絡ませたのは子どもっぽすぎたかな、と少しだけ反省をしていたが、そんなことはお守りにすらならないのだと知った。いや、知っていたはずだった。
 人はいつどんな目に遭うかわからない。それを僕は身を以て知っていたのに。
 二人で動き回る方が怪しまれて危ないだろうと、そう思い込んでしまっていた。そもそも、危険性のある作戦に一般人である名前さんを巻き込んだのが間違いだった。彼女の意思を尊重することよりも、その身の安全を図るほうがよっぽど重要だったのに。
 自分への怒り、そして彼女へのやるせなさで小さな手を握る手のひらに力が入ってしまう。
 繋いだ手から伝わる体温で、彼女がちゃんと生きていることを感じる。拘束されていた手首には痛々しい痕が残ってしまっていたけれど、その姿を確認した時は泣きそうになるくらい安心した。
 名前さんが恐怖に濡れたその瞳でこちらを見つめ返しながら「杉浦さん」とか細い声で僕の名前を発したとき、衝動的に抱きしめてしまっていた。僕の胸にすっぽりと収まってしまった彼女の体は小さく震えていたけれど、確かにちゃんとそこにいた。
 非常階段を上がって外に出ると、日付をまたぐ直前であっても神室町の賑わいは衰えていない。それどころか、このまま日が昇るまで続いていくのだということをふと思い出した。
 ドロドロとした諸々が渦巻いていた地下のあの空間から、ゴチャついたいつもの街に出ただけなのに、ようやくちゃんと呼吸を出来たような気がする。今は、濁りきったこの街の空気でさえ美味しいと感じてしまう。
 ポツン、と頬に落ちてきた水滴。それが僕と彼女とを繋いでいる手の甲にも感じられた。斜め上に視線を向けると、煌々と輝くネオンに照らされて細かな水粒が光っている。どうやら雨が降り始めてしまったようだ。

「なんで勝手に動いたりしたの」

 大通りに向かって歩きながら、僕の歩幅に合わせて早歩きになっている彼女に向かって吐き出した言葉。それは、この街の雑音にも掻き消されることなく彼女の耳に届いたらしい。

「……すみませんでした」

 その返事が返ってくるのに数秒が経過していた。もっと言い訳をしてくれたらよかったのに。そうしたら、僕の中で渦巻いている濁った汚い感情は怒りとしてぶちまけて昇華出来た筈なのに。
 僕は何を考えているのだろう。吐き出す? 誰に? 自分でも処理しきれない汚い感情を投げ捨てたい。その向かう先は、手を繋いでいる彼女だった。

「君は体術の心得があるわけでもない、普通の女の子なんだよ!」

 立ち止まってその手を掴んだまま、僕は感情の向くままに声を荒げていた。
 ビクリ、と名前さんが肩を引き攣らせ、その瞳を揺らす。悲しげに歪められたその表情にマイナスの感情がありありと滲むのがわかった。誰よりも彼女が反省していて、そして自分を責めているであろうことにはとっくに気づいていた。
 だって、僕はもう名前さんが嘘をつけなくて顔に出やすい人であることを、今までの交流で知っていたからだ。そして、どこまでも素直で穏やかで、共感力の高い人物であるということも。

「……っ、だからいやだったんだ」

 大切な人が出来ることが怖かった。自分の身に降りかかる災難を振り払う力がない人を、大切に思うようになってしまうことが怖かった。僕に笑顔を向けてくれる人を失ってしまうことが怖かった。
 それなのに、ちゃんとわかっていた筈なのに僕は自ら彼女に近づいてしまった。どんどん交流を持ってしまっていた。無意識のうちに彼女のことを深く知りたいと、そう思ってしまっていた。
 下を向いて、雑念を振り払うように小さく頭を振る。前を向き、名前さんの手を掴んだまま再び歩き始める。
 いつしか雨は強くなっていて、いまや薄いトップスは体に張り付いてしまっている。長い髪を鬱陶しく感じながら、ぐい、と顔を拭ったら、いつの間にか皮が剥けていたらしい手の甲がヒリヒリと鈍く痛んだ。
 大通りに出て、ちょうど客待ちをしていたタクシーに近寄ると、運転手がそれに気づいて扉を開いてくれた。

「あ、あの、杉浦さん」
「さっきは怒鳴っちゃってごめん、気をつけて帰って」

 タクシーの座席に名前さんを押し込むように乗車させ、その手のひらにタクシー代を握らせる。
 僕に向けられる彼女の視線を真正面から受け止めることを放棄して車から離れると、その扉が閉まってタクシーはゆっくりと走り出した。
 上を見上げると、既に本降りになってきた雨がシャワーみたいに顔を濡らす。いっそこのモヤモヤとしたやり場のない感情ごと流してくれたらいいのに、と自暴自棄になりながら、胸の奥がズキズキと痛むのを感じた。それと同時に、ようやく自分の中に安堵感というものが訪れたことを自覚する。
 とりあえずあの場所に戻らなくてはいけない。歩き始めた僕が濡れ鼠のようになっていても、この街にはそんなことを気にする人間がいないことが幸いだ。
 あの日、天下一通りでチンピラに絡まれていた名前さんを助けたのが僕じゃなかったら、一体どうなっていたのだろう。
 杉浦さん、と僕のことを呼ぶ彼女の人懐こい笑顔を思い出す。例えば、あの時彼女を助けたのが八神さんや海藤さんだったら、彼女がその笑顔を向けるのは僕ではなく彼らだったに違いない。
 なんでこんなことを考えてしまっているのか。ぐるぐると自分の中を回るむず痒くて重苦しい感情を未だに上手く咀嚼出来ない僕は、やっぱりひねくれ者で嘘つきのカッコつけだと思う。
 もう顔を背け続けることは出来ない。無視出来ないほどに膨らんでしまった感情に気づいていない振りをすることはとんでもなく難しく、僕に残された選択肢はその感情を認めることしかない。
 僕はとっくに彼女を、名前さんのことを好きになってしまっていて、更にもう引き返せないところまで来てしまっていた。


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