14-2


 あっという間に約束した時間が来てしまった。
 こんな日に限って仕事はスムーズ且つ滞りなく進み、サチ子さんは「週明けに残業無しで帰れるなんていつぶりかしら!」とニコニコしていた。
 いっそ帰れる目処が立たないぐらい忙しかったなら、三井さんと一緒に帰ることを先延ばしにできたのに。そんなことを考えてしまい、自分のことながらどうしようもないなと呆れ返る。
 サチ子さんに「本当ですね、うれしいです」と返事をしながら、なんとか取り繕った笑顔に不自然さは無かっただろうか、と少しだけ不安になる。
 そうか、まだ週明けなんだ。始まったばかりの一週間。そんな日に、自分の気持ちに区切りをつけないといけないなんて。
 エレベーターに乗り込み、俯きながら履いているパンプスの爪先をじっと見つめてみる。
 そう、これは仕方のないことなのだ。いつかこうしなきゃいけない日が来るっていうのはずっと前からわかっていたことで、それが今日だったというだけ。
 三井さんとの関わりを絶ったら、もうこんな風にグジグジと悩んだり、自分の嫌な部分に気づいて自己嫌悪に陥ることも減るだろう。時間が掛かるかもしれないけれど、この気持ちが風化していくのを待つしかない。
 そこでふと思った。交流を無くすだけで、三井さんへのこの気持ちをこのまま忘れるなんてことが果たしてできるのだろうか。そんな自問自答を心の中で繰り返しながら小さく首を振ると、隣に立っていた男性社員がこちらに訝しげな視線を向けていることに気づいた。カッと顔が熱くなるのを感じ、小さく頭を下げてから顔を背ける。
 エレベーターが一階のエントランスに到着し、ビルを出て行く人の波に乗って歩いていると、受付から「お疲れ様です」という軽やかな声が掛けられた。いつだって人に笑顔を向けないといけない彼女たちの仕事って、よくよく考えればとんでもなく過酷なものだ。
 自社ビルを出て、少し先に見える植木のあたりに立ち、斜め上を見上げて息を吐く。高層ビルだらけのオフィス街でも、今日はその隙間から光る星がよく見える。

「ワリ、待ったか?」

 ひょい、と私の視界に突然現れたその人の顔に驚き、思わず「うわ」と声を上げてしまう。
 どこか楽しそうに口の端をほんの少し上げている三井さんの表情で、彼が私を驚かそうとしてそのような行動に出たのだということをすぐに察する。

「……いえ、お疲れ様です」
「なんだよ、驚かしてやろうと思ったのに」
「びっくりしたけど、びっくりしたのが悔しいから堪えました」

 白状しちまってるじゃねえか、と笑う三井さんの顔を眺めていると、勝手に胸の奥がきゅうと鳴ってしまう。そっちの方が、驚いてしまったことなんかよりも遥かに恥ずかしくて悔しい。
 私はやっぱり三井さんの事が好きなのだと、認めれば認めるほど切なくて苦しくて堪らなくなるけれど、彼の幸せを願うならば身を引いて、そしてこの状況から解放してあげる事が、私に出来る唯一の事なのだと改めて思う。
 三井さんは「そうだこれ、苗字さんが忘れてった靴な」と紙袋を差し出してくる。どうやらその中に私が彼の車の中に置いてきてしまった室内用運動靴が入っているようだ。ありがとうございます、と頭を下げて受け取ると、三井さんはいつもの調子で「おう」と言った。
 どちらともなく駅に向かって歩き始め、ぽつぽつと話し始める三井さんに軽い相槌を打つ。すっかり失念していた経費申請を遅れて提出した上、ミスがあったことで経理に呼ばれしこたま絞られ、今日は散々だったという話を聞きながら、私はついつい笑ってしまう。
 いつだってそうだった。この人と一緒にいると、自分を偽らないでいられる。他愛もない、流してしまえるような話さえ楽しいと感じる。思ったことを素直に口に出す事ができる。
 だからこそ、ふと我に返った瞬間、渦巻く黒い矛盾した感情に目を背けているのが辛くてたまらなくなってしまったのだ。無い物ねだりをして、まるで子どもみたいな自分。こうしているべきではないとわかっているのに、随分長い時間甘えてしまっていた。
 どうやら三井さんは、酔っ払って眠りこけてしまっていた私を送ってくれた件について話題にするつもりは無さそうだ。もともと自分から切り出すつもりだったけれど、まずはしっかりと謝罪をして、それから感謝を伝えなければ。

「その、一昨日なんですけど……。三井さんが家まで送ってくださったって聞きました、ご迷惑お掛けしてすみません」

 会話が切れたタイミングで意を決してそれを言うと、三井さんは驚いた様子でこちらに顔を向けた。その表情を見るに、彼はどうやら私が一昨日の夜の真実を知らないままでいると思っていたようだ。

「なんだ、聞いてたのか。……念の為言っとくけど、送ってって部屋入って寝かせるとこまでで、それ以上は何もしてねーからな」
「わかってます、ごめんなさい」

 三井さんがそんなことをするような人ではないことぐらい、改めて言われずともとっくに知っている。なんなら初対面のあの時、ホテルを出る前のやりとりでこの人の生真面目さは感じ取っていたのだ。

「まあ今は一応そういうフリ、してるっつーのがあるし」
「……その件なんですけど」

 付き合っているフリ。たまたまあの場に居合わせてしまった三井さんが私のボディーガードみたいなことをしなくちゃいけなくなって、それが始まった。でも結局はそれよりも前、あの朝の罪悪感が彼をそうさせていたに違いない。
 言うんだ、今ちゃんと言わないと。
 何度も脳内でシミュレーションをしていたのに、いざとなると考えていた言葉なんてすっかり忘却の彼方に吹き飛んでしまっている。

「最初の事があってからずっと気にかけていただいて、危ないところも助けてもらって、言い表せないぐらい感謝してます。でも、これ以上は申し訳なくて」

 図らずも言葉が詰まってしまった。もう大丈夫です、そのひとことを言うだけ。たったそれだけなのに、それを言葉として吐き出そうとすればするほど喉の奥がきゅうと狭くなる。
 いっそのこと「あなたの事が好きです」と、何も考えず、何にも囚われずに伝えてしまうほうが楽になれるに違いない。

「待った」
「え?」
「それ、どっか落ち着いたとこで話せねえか?」

 地下鉄へ続く階段を下りながら、私は三井さんの発した言葉をうまく咀嚼出来ずにいた。
 つまりそれは、歩きながらの会話ではなく、どこかで腰を落ち着けて話をしようという提案に違いなかった。普段ならばすぐに理解できる言葉に対して即座にレスポンスが出来なかったのは、意を決して切り出したのに空振ったことで気が抜けてしまったからだ。

「オレも言わねえとって思ってる事、あんだ」

 そう続けた三井さんの表情は、こちらに顔を向けられていないので読み取ることが出来ない。
 目の前の改札を通り抜けながら「あ、はい」とようやく返事をしたものの、私の声は果たして彼の耳に届いただろうか。
 隣ではなく、ほんの少しだけ前を歩いている三井さんの背中を眺めていたら、ホームへ入ってきた電車が私の髪を揺らした。


***


 何度もこうして一緒に帰宅しているけれど、電車内でひとことも言葉を交わさなかったのは初めてだったと思う。

「苗字さんちのマンションの手前、確か公園あったよな」

 私の家がある最寄駅の改札を抜けた三井さんは、こちらをくるりと振り返りながらそう言った。はい、と私が頷くのを確認した彼は「メシ食いながらする話でもねえわな」と続けた。
 三井さんから提案されていなければ、私は会社から駅までの道すがら、なんとなくの流れでこの関係の解消を告げようとしていた。ここまで来ても、無意識のうちに少しでも自分の傷が深くならないように逃げようとしていたのだ。胸の奥が軋むように痛むのをなんとかやり過ごそうと、ゆっくり呼吸を整える。
 三井さんは愚直すぎるほど真っ直ぐで不器用な人だけど、人のことをよく見ていると思う。だからあの場で私に言葉を続けさせず、この提案をしてきたのだろう。多分、あの時に私が何を言うつもりだったのか、それにも気づいていたに違いない。
 この人と向き合っていると、私はどうにも自分の気持ちを上手く隠して取り繕うことが出来なくなってしまう。人を好きになるって、なんて厄介なのだろう。

「夜の公園で話すなんて学生ン時ぶりだ」
「青春してたんですね」

 ほんの少しだけ言い淀みながら「まあな」と心なしか寂しげに笑った三井さん。そういえば、家の真横にあるこの公園に入ったのは初めてかもしれない。
 適当なベンチに腰掛けた三井さんに倣い、その横に腰を下ろす。誰もいない静まり返った公園の中で、設置されている街灯が薄いオレンジ色の光を放っている。

「もう大丈夫ってこと、言おうとしてたんだろ?」

 その言葉を理解した瞬間、喉の奥がつーんと引き攣れたように痛んで、声が出せなくなってしまった。薄明かりの中で三井さんの表情を明確に確認することは出来ないけれど、その声は己への自己嫌悪が増してしまうほどに優しい声だった。

「なんか悪かったな、オレの自己満足に付き合わせちまって」

 切り出すタイミング迷ってたろ、と続けた三井さんの声を聞きながら、私はただただ小さく首を振る。そうじゃないって、たった一言声を発するだけなのに、ちゃんと自分の言葉で否定しなくちゃいけないのに。そして、それは私から言わなければならないことだったのに。

「じゃあ最後のお節介な。これからはあんま飲みすぎんじゃねえぞ。昨日みたいになったとしても、オレぁもう回収しにいけねえんだから」

 じゃあ最後の仕事全うすっか、と三井さんが立ち上がる。
 その瞬間、込み上げてくる度に何度も押し留め、ずっと抑え込んでいた感情が限界を突破して決壊した。目の奥が灼けつくほどに熱くなって、爆発したみたいに一気に溢れ、こぼれた涙が履いているスラックスの上にぱたぱたと落ちてゆく。容量を超えて圧縮され続け、それでとうとう行き場のなくなった感情の爆発は、到底自分で抑えることなど出来なかった。
 私の体はそれを吐き出す事に全神経を集中させているようだ。声すら出せず、喉が勝手に震えてしまうせいで、子どものようにしゃくりあげてしまっている始末である。

「な……!? どうした!?」

 無意識のうちに三井さんのスーツの袖口を掴んでしまっていたらしい。歪んだ視界の中でしっかり視認することは出来ないけれど、驚いた様子の彼が私の目の前にしゃがみこんでくれたことはなんとなく把握することが出来た。
 夜の公園で号泣しながらしゃくりあげる成人した女なんて、厄介にも程がある。今の自分を客観的に見ることはできるのに、壊れてしまった涙腺の方は抑え込んでいた気持ちが全部吐き出されるまで涙を放出し続けるつもりのようだ。
 迷惑の上に更なる大迷惑を重ね塗り。三井さんはようやくお役御免だと肩の荷が下りたところだっただろうに。
 泣くつもりなんてなかった。引き留めるつもりも、未練がましく追いすがるつもりもなかったのに。そんな想いとは裏腹に、三井さんの袖口を掴んだままの指は私の制御下を離れてしまったかのように動かず、離したいのに離すことが出来ない。
 いつまで経っても喉はひくついたままだし、涙だって絶え間なくボロボロと溢れては止め処なくこぼれ落ちていく。

「すみません、わたし、もう大丈夫って言わないと、いけないってわかってるんです、でも」

 なんとか絞り出してやっと出てきたそれは、日中に考えに考え抜いていた言葉とは全く違うものだった。どうしようもなく稚拙で、どうしようもなく伝わりにくくて、飾り気も何にも無い私の心がそのまま飛び出してきただけの素っ裸の言葉。

「迷惑かけてたってちゃんとわかってるのに、三井さんが気にかけてくださって、本当にうれしくてたのしくて、だから」

 なかなか言い出せなくてごめんなさい、と何とかそこまで言ってから、喉が詰まってついに咳き込んでしまう。
 あんな出会い方をしてしまったけれど、目の前にいるこの人は愚直なほど真っ直ぐで、ちょっぴり強引で、不器用だけど優しくて、お人好しで情に厚い。そんなあなたに惹かれたのだと、喉さえ詰まらせなければきっとひと思いに吐き出してしまっていただろう。
 その行動をほんの少しだけ逡巡するかのように、ゆっくりと頭の上に降りてきた温もり。それが三井さんの手のひらだと気づくまで、少しだけ時間がかかってしまった。思い出した、その手のひらが最初に私の頭に触れてくれたのは、憂鬱すぎた社内運動会の日だった。
 ぐしょぐしょの目元を乱暴に拭うと、視線の先でしゃがみこんだままこちらを見上げている三井さんと目が合った。いつもより深く眉間に皺を寄せていた彼は、ぎゅっと結んでいた唇を緩めると、ふう、とゆっくり息を吐く。

「……オレは酔っ払っておまえを襲ってる前科があるし、更にそれを覚えてねーし、ぶっちゃけあの超強引根暗ヤローよりひでぇことしたんだ」

 三井さんの言葉を否定したくて必死に首を横に振る。そんな私を見ながら眉尻を下げて困ったように笑った三井さんは、ひとつ頷いてから私の頭を優しくぽんぽんと撫でた。

「だから、あんまり期待持たせんなって」

 どこまでも真っ直ぐにこちらを見つめている三井さんの視線が、ほんの少しだけ揺らいだ気がした。いつもならばきっと、その言葉の意味をすぐに理解できたに違いない。

「最初は罪悪感で気に掛けてただけだったのに、こっちはいつの間にかおまえで頭ン中いっぱいになっちまってんだよ」

 こんなこと言わねえつもりだったんだからな、と視線を逸らした三井さん。対して私は、居心地が悪そうにムスッとした表情で顔ごと横を向いてしまった三井さんから視線を外すことが出来ない。
 期待、罪悪感、頭の中。彼が発したひとつひとつの単語が、もう既にぐちゃぐちゃな脳内をぐるぐると回って、これでもかと私の脳みそをかき混ぜている。

「だから今のおまえはあぶねー状況なんだ、わかったらさっさと家に」
「あの……!」

 三井さんの言葉を遮って、彼の袖を掴んだままの指先に力を込める。
 絶対にありえないと思っていた。その言葉を、彼への好意を伝えたら余計に困らせてしまうと、だから悩み続けていた。私たちの出会いでは、そういう感情が芽生えることさえおかしなことだと思っていたからだ。
 でも、それでもたった今、三井さんが発した言葉がそういう意味なのだとしたら。もし彼が、私と同じ気持ちでいてくれたのだとしたら。

「なんだよ」
「私も、三井さんで頭いっぱいなんです」
「……は?」

 抱え続けたその気持ちを言葉にして発すると、急激にむず痒くなってきた。言ったらスッキリすると思っていたのに、羞恥心で途端に目尻がじわりと熱くなって、無意識に唇をぎゅっと結んでしまう。
 何度かぱちぱちと瞬きを繰り返してから視線を下に向けると、ほんの少しの沈黙の後、三井さんが深く息を吐いたのがわかった。

「いやありえねえだろ、だってオレと苗字さんは……」

 そういう方向に発展するには複雑すぎる出会い方をしている。口籠った三井さんが続けようとした言葉は、きっとそういうものに違いなかった。まさかお互いに同じ気持ちで、お互いに同じ感情を抱えて、お互いにそれをなんとか隠しながら交流し合っていたなんて。

「私も、それこそ今の今まで言わないつもりだったんです。本当は、本当はずっとこうやって過ごせたらいいのにって思ってて、いつの間にか三井さんのこと」
「お、おいちょっと待て!」
「そんなこと言われたってもうここまで言っちゃったもん!」

 まるで言い争いをするような勢いで言葉を発した私の口に押し付けられたのは、三井さんの手のひらだった。かなり強引に押し付けられた手のひらのせいで「むぐ」なんて漫画のキャラが発するような声を上げてしまう。

「あのな、オレぁ迷惑かけられたなんてこれっぽっちも思ってねえけど、少しでも引け目を感じてんならここは譲れ」

 しゃがんだままの三井さんは、拗ねた子どもみたいに唇を尖らせながら「つまりカッコつけさせろっつーことをだな、オレは言いたいわけだ」と続けた。
 その表情は、暗がりの中でうっすらとしか見えないことが悔しいほどかわいらしく、予期せず再び胸の奥がキュンと鳴ってしまう。
 三井さんは握った拳を口に当てゴホンと仰々しく咳払いをすると、逸らしてしまっていた視線を真っ直ぐに私へと向けた。つい何秒か前まで見せていた照れたような表情はいつの間にか消えてしまっている。

「オレは、苗字さんのことが好きだ」

 その言葉は、確かに目の前にいる大好きな人が発したもので、加えて信じられないことに私に向けられていた。
 それが耳に届いていても、私はどこか地に足がついていないような状態で、更に言うならば頭のてっぺんから爪先までの感覚が鈍くなって、まるでふわふわと宙に浮かんでいるような心地だった。信じられなくて、現実感なんてこれっぽっちも感じられない。

「私も、三井さんのことだいすきです」

 呆けたまま、それを伝えるのが精一杯だった。二人で過ごせば過ごすほど、気持ちが募るばかりだった。付き合っているフリなんかじゃなく、本当にそうなれたらいいのにと、今まで何度思っただろう。
 改めて考えてみても、出会い方は最悪の部類だったと思う。でもその後で信じられない再会をして、なんとなく交流を持つようになって、彼のことを知っていくうちにどうしようもないぐらい恋をしていた。
 三井さんとの出会いを話したら、微笑みながら「ドラマチックね」と言ったサチ子さんを思い出した。梅ちゃんもドラマみたいな話だと言っていたけれど、発展するわけないんだから、と私はそれを否定していた。でも、今ならばきっとその言葉を肯定できる。
 他人事のように脳内で色々なことを巡らせていた私を現実に引き戻したのは「おい」という三井さんの声だった。しゃがみ込んでいた三井さんは中腰になり、ベンチに腰掛けたままの私を覗き込むようにして目線を合わせてくれている。

「その、抱きしめてもいいか?」

 敢えてそこで相手の許可を取る感じがとても彼らしいと思う。私はむずむずするような気持ちと一緒に口角がゆるゆると上がってしまいそうになるのをぐっと堪えつつ、こくんとひとつ頷いた。
 すっと伸びてきた三井さんの腕が、ゆっくりと私の背中へと回る。こんなに近づいたのは、覚えている中ではカウンセリングルームで助けてもらった時ぶりだと思う。
 徐々に力がこもってくる三井さんの腕にしっかりと抱きしめられていると、引っ込んだはずの涙がまたじんわりと滲んでくる。
 この気持ちは、きっと「しあわせ」以外の言葉で表現することは出来ないだろう。恥ずかしくて堪らないのにうれしくて、心がぽかぽかして、何故だか無性に泣きそうになる。
 おそるおそる三井さんの広い背中に手を伸ばして抱きしめ返したら、また少しだけ三井さんの腕に力が入った。

「……夢みてえ」

 三井さんがひとりごとみたいに呟いたその言葉は、まるでぽろりと勝手にこぼれ落ちたようだった。

「三井さん」
「ん? どした」
「心臓の音、すごいですね」
「あのなあ、そういうのは気づいてても口に出さねえもんだろーが」

 三井さんは照れ隠しのように私の額を軽く小突く。とくんとくんと伝わってくる彼の鼓動は、そりゃあもう大丈夫ですかって思わず問いたくなるぐらい早かったけれど、そんなところも嘘をつけない三井さんらしくてかわいらしい。
 ついうっかり口に出してしまっていたけれど、言わなければもう少し長く抱きしめてもらえていたかもしれない。もったいないことをしてしまった。
 向き合ったまま、額をくっつけて小さく笑い合う。思いを伝えられただけで充分だったのに、まさか同じ気持ちだったなんて。お互いがお互いを思い合っていたという事実が、未だに現実のことだと信じきれない自分がいる。夢みたいじゃなくて、本当に夢だったとしたら。そんなことまで考えてしまう。

「名前」

 突然大好きな彼の声で呼ばれた自分の名前。驚きすぎて声が出せなくなってしまった私に、三井さんが「なんだよ、キョトンとした顔しやがって」と優しく目を細めながら言った。

「いま、私の名前……」
「好きな女の名前を知らねえ男がどこにいんだよ」

 やっと呼べる。三井さんはひどく優しい声音でそう言って、私の頬に触れた。ぽかぽかとあたたかい彼の手のひら。その体温をじっくり感じたくて、上から自分の手のひらを重ねてみる。そうしたら、それよりももっと熱っぽい視線が向けられていることに気がついて、ドキンと大きく心臓が跳ねた。
 ゆっくりと目を閉じると、次の瞬間には唇にやわらかい感触が重なっていた。胸の中にぶわっと何かが広がって、しあわせで体の奥が蕩けそうになる。
 触れ合っていた唇が離れてからも、私は時が止まったみたいに動けずにいた。たった数秒の軽いキスだったけれど、それだけで私は自分がどうしようもないほどに満たされたことを認めてしまった。
 満たされた筈なのに、今度は離れたくなくて再び視界が滲んでゆく。しあわせすぎて涙が止まらないなんてはじめてで、もうどうしたらいいのかわからない。

「とっ捕まえたからには離さねえからな、覚悟しとけよ」

 そんなこと言われなくても、こっちだってとっくに離れられなくなってしまっている。だからこうして長い間ぐだぐだと悩み続けていたのだ。
 殺し文句に射抜かれすぎて放心状態の私から、言葉なんかが出て来る訳もなく。とにかく必死に頷いてみせたら、そんな私の挙動が面白かったらしい三井さんが噴き出すみたいに小さく笑った。その笑顔でどうしようもなく胸がいっぱいになってしまって、再び号泣スイッチが入りそうになるのを何とか堪える。
 そんな私の様子に気がついたらしい三井さんが「おまえ、意外と泣き虫なんだな」と茶化すように言ったので、意地っ張りで可愛げの無い私はぼろぼろの顔のまま「ぜんぶ三井さんのせいですからね」と返してやった。


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