14-1


 夢を見た。それはとても心地のいい夢で、まるで水の中をふよふよと漂っているような感覚だった。ストーリーがあるわけでもなく、目を閉じて体の力も抜けている私は、意識があるのに眠っているという謎の体験をしていた。
 その夢の中で突然登場してきた三井さんは、ほんの少し困っているようなぎこちない笑顔を浮かべながら、私の頭を優しく撫でた。彼は口を動かして何かを言っているようだったけれど、水の中にいる私には彼のくぐもった声しか聞こえず、何を言っているのかわからなかった。
 水の中を漂いながら、私に声を掛けてくれている三井さんに「何も聞こえないんです」と必死になって伝えようとしたけれど、声を出すことが出来なくてもどかしい気持ちになった。無性に泣きたくなって、胸がぎゅっと切なくなって、そこでようやく目が覚める。
 ぼんやりと開いた視線の先には白い天井。視線だけを動かして辺りを確認してみると、この場所が自分の部屋であることがわかった。見慣れるどころか見飽きたレベルのリビングルーム。何度も寝落ちたことのあるソファーの上で、私は眠っていたようだ。

「痛ったたた……」

 ピキッと走った頭の痛みに思わず顔を顰める。久しぶりにあれだけ飲んだら、そりゃこうなりますよね。わかっていた事だけど、私は本当に何をやっているのだろう。
 続いて押し寄せてきた梅ちゃんへの罪悪感で、余計に頭の痛みが増したような気がする。梅ちゃんが優しくて面倒見がいいからって、さすがに甘えすぎだ。ぶっ潰れてしまっていた私をここまで運んでくれたであろう親友の顔を思い浮かべながら、反省の念と己の情けなさで頭を抱えながらダンゴムシの様に体を丸める。

「ダメだ、頭痛い上にめちゃくちゃボーッとする……」

 なんとかソファーから起き上がると、今度は明らかに胃の調子が良くないことを感じ取る。まさかここまでアルコール耐性が無くなっているとは思わなかった。飲まないと弱くなるっていうのは、どうやら本当らしい。
 もうすっかり日差しが差し込んでいる明るいリビングルーム。ソファーの前に配置してあるローテーブルの上に、昨日持っていたハンドバックが置いてある。その中から携帯を取り出して画面を確認すると、時刻はとっくにお昼の十二時を回ってしまっていた。
 とりあえずシャワーを浴びよう。私が今しなければならないことは、できる範囲で頭をしっかりさせてから梅ちゃんに電話をし、昨日のことを誠心誠意詫びることなのだ。


***


「昨日は本当にご迷惑お掛けしまして大変申し訳なく……」

 シャワーを浴びて身を清めた私は、先程まで眠っていたソファーの前、フローリングの上に敷いているラグの上で正座をし、深々と頭を垂れながら梅ちゃんと通話をしている。

「別にいいわよ。で、ちゃんと自分の家で起きたの?」
「うん、ありがとう。……ん?」

 ちゃんと自分の家で起きたの、とは一体どういう意味だろうか。梅ちゃんが私を家まで連れ帰ってくれたあと、私が夢遊病者の様に徘徊でもしたのか、という心配をしているのだろうか。しかし、そのような心配をされたことは今までの付き合いの中で一度たりともない。

「ちょっとまって、なんかその言葉違和感あるんだけど……。だって、私のこと家まで連れ帰ってくれたの、梅ちゃんでしょ……?」
「はーん、やっぱりあの人信用できる男だったわね」

 梅ちゃんの言っている事と私の認識がどう考えても噛み合っていない。加えて、突如登場してきた第三者。梅ちゃんの言う「あの人」とは一体誰を指しているのだろう。増し始めたズキズキと脈打つ様な頭の痛みに耐えながら、なんとか「えっと……」と言葉を紡ぐ。

「アタシね、昨日名前のこと送ってってないのよ」

 いや、ちょっと待ってください梅村さん。私、いま脳みそ使うとめっちゃくちゃに頭が痛むんです。こんな甘ったれ大迷惑女がそんなお願いをできる立場じゃないことは百も承知しておりますが、どうかお慈悲を、そして何卒わかるように説明を願いたい。
 この頭痛も、何もかもが自業自得だっていうのはちゃんと理解している。わかっているのに、今や私の頭の中を占めているものは大量のクエスチョンマーク。例えるならば、乗車率200%超えの朝の通勤電車に相違ない。寿司詰め状態のクエスチョンマークたちも、さぞ苦しく不快感を感じていることだろう。
 つまり、私の混乱具合は脳内でトンチキな現実逃避まで始めてしまうレベルなのである。

「えーと、えーとえーとえーと、私、昨日梅ちゃんといたんだよね? それでいつものバーだよね? もしかしてここからもう間違ってる?」

 最早素面でいた頃の己の行動さえも信じられなくなっている。
 先程まで夢を見ていたせいだろうか。どこからが夢でどこまでが現実なのか、はたまたその逆なのか。優しくて面倒見のいい親友に甘えに甘えまくった自分が悪いです、ごめんなさい、これでも本当に反省しているんです。

「そうそう。で、アンタが潰れたからしょーがない送ってやるかあって思ったら、ナイスタイミングだったってわけ」

 梅ちゃんは「そこら辺は省くけど」といちばん気になる重要な部分を端折ってしまったが、普段なら出来る「なんでそこ省いちゃうの!?」というツッコミすらままならない。

「まあとにかく、アンタのこと連れ帰ってくれたのは例の三井さんだから」

 その言葉の意味はわかっているのに、上手く理解が出来なかった。今聞いている言葉は間違いなく母国語の筈だ。
 驚いた理由は明白だった。梅ちゃんの口から、その人の名前が飛び出してきたからだ。
 やはり、省かれてしまったナイスタイミングな出来事とやらをしっかり聞いておくべきだったと思う。これは理解が出来ないというよりも、頭の中で上手くその言葉を受け止められないとか、咀嚼出来ないという類のものなのだということにようやく気づき始める。
 予想を大きく超越した返答をされると頭の中がこんな状態になるんだな、と驚きすぎたあまり冷静かつ客観的かつ俯瞰状態になってしまっている場合ではない。

「電話かかってきたのよ、三井さんからアンタの携帯に」

 押し寄せて来る怒涛の展開に「なんで?」というたった三文字の言葉さえ発することができなかった。そういうことだから、また落ち着いたら飲みなおしましょ、といつも調子の梅ちゃんの声が聞こえる。
 私が「うん」とも「すん」とも返事を返せないままでいたら、電話口の向こう側にいる梅ちゃんは「それじゃあね」と言って愉快そうに小さく笑い、電話を切ってしまった。


***


 果たして私は、どのようにして三井さんに連絡を取るべきだろうか。
 梅ちゃんとの電話のあと、しばらく放心状態のままなんとなくテレビの電源を入れ、ぼんやりしていたら、その日はあっという間に夜になってしまっていた。
 そして、やってきた週の初めの月曜日。普段から気だるくて堪らないその日を、今日は普段より何倍も重く感じている。やけ酒の影響はもうほとんど無いけれど、どの面を下げて三井さんに会って詫びればいいのか、全く思い浮かばない。
 会社間で先方にお詫びするみたいに菓子折りでも用意するべきだろうか、と悶々と考えながら、最寄駅から会社までの道を歩く。心ここにあらずであっても、勝手に会社への道を進んでいく私の足はなんて勤勉なのだろう、と感心してしまう。
 ビルのエントランスを抜け、エレベーターの列に並んだところで気づいた。コーヒーショップに寄り忘れてしまった。そのことに気が付くと、途端にこのエレベーターの長い列を待つことが苦痛で仕方なくなってきた。
 えーいもうどうにでもなれ、という気持ちで、脇にある階段を使うことにした。
 またもやお酒でやらかした自分には、これでも足りないぐらいだ。三井さんにも「おまえはホント学ばねえな」と呆れられてしまったに違いない。想像だけで何かが胸にグサッと深く突き刺さったけれど、そんなダメージ如きで己の失態が帳消しになるわけもなく。
 朝から息を切らしながら階段を上っていると、そのキツさでほんの少しだけ頭の中がクリアになる。きっと、自席に着いていつものように押し寄せてくる業務をこなしていたら、あっという間に一日が終わっているに違いない。そして、昼休みまでには覚悟を決めて三井さんにお詫びしたい旨の連絡を入れよう。
 乳酸が溜まってパンパンになった脚は、目的の階に到着すると石の様に重くなった。荒い息を整えるように、意識してゆっくりと深呼吸をしつつ、鞄の中から社員証を取り出してカードリーダーに翳す。

「名前ちゃんおはよう……って息切らせてどうしたの!? 階段で上がって来たの!?」

 開いた扉の向こう側に立っていたのはサチ子さんだった。まだ始業時間には早いから急がなくて大丈夫なのに、と心配そうにこちらを覗き込んでくるサチ子さんの表情を見るに、私は自分が思っている以上にひどい顔をしているようだ。

「え、えと……だ、ダイエットで……」

 それは咄嗟に口から出て来た言葉だったけれど、あながち間違いでは無い。
 そうならいいけど、とまだどこか私を気遣う様子のサチ子さんに、小さくて些細なことであっても真実を告げられなかった事が申し訳なくなってきた。ただでさえこんな心持ちの状態なので、もうありとあらゆることに罪悪感を感じてしまう。
 ヨロヨロしながら自分の業務スペースである第二カウンセリングルームへと入り、普段は応接用として使っているソファーへと倒れる様に座り込む。
 勢いで階段を上がってみたけれど、こんなにしんどいなんて。しかし、思惑通り雑念が少しだけ薄まったような気がする。少し落ち着いたら、給湯室でコーヒーを淹れよう。
 三井さんに連絡を入れたら、否が応にも顔を合わせることになるだろう。
 ちょうどいいタイミングとはよく言ったもので、梅ちゃんが言ったその言葉は「名前が潰れたタイミングで」という意味に違いなかったけれど、私にとっては「この気持ちに区切りをつけるために」という意味合いも含まれていた。
 もう付き合っているフリしてもらわなくても大丈夫です、ってちゃんと伝えなきゃ。そう決意したのに、今になってもまだこの報われない関係を続けていた方が幸せかも、と思ってしまう往生際の悪い自分がいる。
 いよいよ自己嫌悪の極みに嵌まってしまいそうなので、その思いをかき消す様に軽く首を振る。よし、まずは兎にも角にも気持ちを切り替えて仕事の準備だ。
 ジャケットのポケットに入れていた私用携帯が震えたのはその時だった。この時間だからメールマガジンか何かかな、なんて思いながら画面を見遣った私の視線の先に「三井さん」という文字が目に入る。
 いや、だからこの人タイミングがおかしいよ、と思わず小さな声で漏らしてしまう。ここが自分ひとりの執務室で良かったと心の底から思いつつ、ハラハラしながらその通知を開く。

『土曜、車にクツ忘れてたぞ。今日持って来たから帰りに渡す』

 拍子抜けした、というのが率直な感想だった。迷惑を掛けたことを咎められるか、もしくは呆れたようなニュアンスの文章が書き連ねられていると思い込んでいたからだ。
 そして、今の今まで靴を忘れていることにすら気づいていなかった。どこまでいっぱいいっぱいだったのだろうか。計算づくめのあざとい女のような行動を取ってしまったことに羞恥心を覚えながら、私は昨日の頭痛が蘇ってくる予兆を感じていた。帰りに渡す、という文章から、おそらく今日は送ってくれるつもりであることを察する。
 これからはお昼を一緒にすることも、この間みたいにミニバスの練習を手伝うことも無くなるだろう。けれど、私から切り離して解放してあげなければ、彼はこれからもずっと最初から持ち続けている罪悪感を抱えたまま過ごすことになってしまう。
 覚悟したのに、腹を括った筈なのに、それでもまだ踏ん切りがついていないなんて。だけど、よくわかった。ここまで来てもまだ自分本位に考えてしまう私は、やっぱりあの人のそばに居るべきではないのだ。
 始業時間までは余裕があったはずなのに、コーヒーを淹れる間も無く見遣った携帯の中で時計が九時を示していた。



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