13.

(仙道視点)

 名前さんとは、電車の方面が逆なので駅のホームで別れた。ドンピシャなタイミングでやってきた電車に乗り込むべく、彼女は「それじゃあまた後ほど!」と小さく手を振りながらぱたぱたと駆け出した。
 マンションから最寄り駅に向かう道すがら、名前さんが「今日練習見学しにいく予定なのでよろしくお願いします」と言っていたことを思い出す。
 自分の手のひらをぼーっと眺めながら、その指にぐっと力を込めたり開いたりしてみる。たった今別れたばかりだってのに、つい先ほどまでそこにあった彼女の温もりがもう既に恋しい。
 うわ、もしかしてオレ、今やべー顔してたかも。
 思わず額に手を当てて、ふう、とひとつ息を吐く。ちらりと周りに目をやるが、朝の忙しない通勤時間のホームでそんなオレの様子に気を留めている人なんて居なかった。
 冬の朝、平日の九時前。ここ最近の曇りつづきだった天候とは打って変わって、今日はすっかり晴れており、ピンと張った空気の中でも日差しがぽかぽかとあたたかい。こんないい天気の日は、何にも考えないでぼーっとあてもなく散歩をしたい気分だ。だいぶ早く出てきてしまったけれど、到着したら練習が始まるまでランニングでもするかな。ホームに入ってきた電車に乗り込みながら、そんなことを考える。
 試合で頭を打って、名前さんとの諸々があって、魚住さんに会いにいって、それから。それらがたった何日間かの出来事だってことは、オレ自身がいちばん理解できてなくて、そして追いつけていない気がしている。
 練習場所である体育館が入っているアリーナまでは、電車を降りてから徒歩で五分と少し。ゆっくりのんびり歩いたってそんなに大した時間はかからない。信号待ちをしながら、ズボンのポケットに手を突っ込んで空を見上げたら、くあっと大きなあくびが出た。
 起きてすぐに名前さんの顔を見て、一緒に駅まで歩いて、いい朝のスタートが切れたと思っていたけれど、正直あまり寝た気がしないのは変な夢を見たせいだろうか。
 ちょうど横の道で信号待ちをしていた幼稚園の送迎バスの中にいる子どもが、こちらをじーっと見つめていることに気が付いた。大あくびしてるとこ見られちまったな、と思いながらひらひらと手を振ってみたら、その子どもは笑顔でこちらに手を振り返してきた。信号が青になって、送迎バスは横を通り過ぎていく。
 足が向くままにぼんやりと歩いていたら、あっという間にアリーナに着いてしまっていた。アリーナの中を進み、いつもの練習場所である体育館に向かう。すると、まだ時間は早いはずなのに、体育館からはドリブルの音が聞こえてきた。もしや、と思いながら顔を覗かせると、そこにいたのは予想通り流川だった。
 流川はオレの姿を認めると、額の汗を手の甲でグイッと拭いながら、表情を一切変えずに小さく「ウッス」とだけ言う。「おまえこんな早く来てんの? えらいなあ」とひとりでシュート練に励んでいたらしい流川に声をかける。

「あのさ、確認してーんだけど、今日って練習午後からだよな?」
「ちげー、十時から」
「うっわあっぶねー、午後だと思ってた」

 名前さんありがとう、と心の中で感謝の言葉を述べてみる。出勤時間が近いから声を掛けてから出て行こうとしただけかもしれないけど、それでも起きられていなかったらヤバかった。
 復帰早々に練習に遅刻するという失態を犯すわけにはいかないということは、さすがのオレにでもわかる。もう学生じゃない、これでも一応職業選手である。

「あーヘンな汗でた……」

 おそらく、そんなひとりごとは流川には届いていないだろう。何故ならば、ヤツはもう既にひとりでダムダムするのを再開していたからだ。
 十時からってことは、もうあと三十分もしないで練習が始まる。ヒヤヒヤしたせいか、始まる前なのに一瞬で疲れた気がする。優雅にランニングするのはまた今度にして、さっさと着替えてストレッチでもすることにしよう。背後から「着替えたら一対一、やる?」と声を掛けられたが「わりーけど断固拒否」と振り向きもせずに返事をした。
 更衣室で着替えをしていたら、入ってきたチームメイトである先輩から「仙道が早いなんて珍しいこともあるもんだ」と声を掛けられたが、無難に「今日からオレ、復帰なんで」と苦笑いしながら返した。続々と集まり始めるチームメイトたちと軽く挨拶を交わして、相も変わらず止めどないあくびを噛み殺しながら座り込んでバッシュの紐を結ぶ。

「今日、たしか苗字さん練習覗きにくるんだよな」

 誰かが発したその言葉に、ぼーっとしていた脳みそが突然ぱっと覚醒した。苗字、それは名前さんの苗字である。
 なるほど、どうやら彼女はそれなりに人気があるらしい。そもそも数がそんなにいる訳ではない記者やライターの中で、更に希少な女性である。
 ダメですよ、あの人オレの彼女なんで、ってハッキリキッパリ言い切れたら楽なんだけどな。
 しかし、今の所はまだ止めといた方がいいだろうということはなんとなくわかっていた。芸能人とかじゃないし、慎重かつ入念に隠すようなもんでもないけれど、オレがどうだという前に名前さんの仕事に影響が出そうだからだ。

「苗字さんて、サッパリしてるけど押しに弱そうだろ? ちょっと言ったら連絡先とか教えてくれたりしねえかな」

 うんうん、わかる。でもあの人、そんなこと聞いたら素でもう一回名刺渡してきて「でしたらこのアドレスにご連絡いただけますか?」とか言っちゃいそうだよな。まったく相手の意図をはかれないというか、カマ掛けてもスルーされるっていうか。オレもそれでインタビューのときとか空ぶっちゃったし。
 その癖やたら素直で、言葉がストレートだからすごい照れるようなこと平気で言うし。ついでにびっくりするぐらい隙見せまくりだし。それで簡単に不意打ちのチューさせちゃうぐらいだし。笑うとかわいいし、照れてるところとかもめっちゃかわいいし。

「シーズン前に名刺もらっただろ、あれにメアドと番号載ってるぞ」
「仕事用じゃなくてプライベートの方! あーあ、彼氏いんのかな……」

 あーそれオレです、って手を挙げてあっけらかんと暴露できたらいいのに。つい昨日そういう感じになったばっかりだけど。日本に戻ってきて買った、シングルの決して大きいとは言えないベッドで二人で眠って、朝目覚めてから学生よろしくマンションの前で待ち合わせなんかして、手を繋いで駅まで歩いた。
 試しに立候補してみたらいいじゃん、なんていう言葉を聞きながら、いつの間にか紐を結ぶ手はぴたりと止まってしまっていた。

「ダメですよ」

 その言葉が自分の口から出たのだと気づくまでに、たっぷり五秒ぐらい必要だった。

「……へ? どうした仙道?」

 その言葉にいちばん驚いたのは目の前にいるチームメイトの先輩ではなく、オレ自身だったに違いない。

「あ、いやーえーと……なんかバッシュの紐上手く結べねーな、ダメだなーっていう……」

 なんて苦し紛れの言い訳だろう。おまえ三日休んだだけだろ、と軽いノリの言葉をかけられながら、調子のいい笑顔を浮かべてなんとかその場を済ませることにした。
 練習が始まって、しばらくしてから休憩に入った。用を足してから体育館に戻る通路を歩いていると、体育館の外で携帯を耳に当てている名前さんの姿を見つけた。どうやらちょうど到着した様子だ。
 こちらに気づいた様子はないのでゆっくりと近づいてみる。名前さんは「うん、大丈夫だよ、こっちは私が回れるから」なんて言いながらこくこくと頷いている。それじゃあそっちはよろしく、と言って通話が切れたのを確認してから「お疲れ様です」と声を掛け、肩を軽くポンと叩いた。彼女は小さな悲鳴を上げてものすごい勢いでこちらを振り向く。

「え!? な、なん、あきらくん!? あっ、ちがう、仙道さん!」

 驚いた拍子に手元からすっぽ抜けそうだった携帯を寸でのところでキャッチして、名前さんは驚きと怒りと焦りと混乱が入り混じったような表情でオレを見上げた。

「名前さん、ホント隙だらけ」

 彼女は納得いかない様子で眉根を寄せ、おそらく反論をしようと口を開いたけれど、その言葉が出てくることはなかった。何故ならば、オレがその唇を塞いでしまっていたからだ。
 触れて重ねただけの、とても軽いキス。しかし、たったそれだけでも彼女には効果抜群だったようだ。手に持っていたバックがとん、と下に落ちて、横になったその中からペンケースやポーチ、書類なんかが飛び出す。
 目を白黒させながら「な、なにを」と視線を泳がせる名前さんをじっと見据えて「ほら、隙あり」と言って、もう一度その唇にキスを落としたら、彼女は更に顔を紅潮させた。

「……もう! ここ練習場ですよ!? 何を考えて……!」
「不意打ちでキスされちゃうの、こないだと今ので二度目だよ」

 数なんて数えないでください、とモゴモゴ続ける名前さん。すっかり硬直してしまっている彼女の足元にしゃがみこみ、ぶちまけられたカバンの中身をほんの少しだけ申し訳ない気持ちで拾い集めながら「このあと練習見ていくんですよね?」と声を掛ける。

「は……? まあ、そのために来ましたから……」

 よいしょ、と立ち上がり、拾ったカバンを手渡す。名前さんはそれを「ありがとうございます……」と不満そうな声音で言いながら受け取った。

「名前さん、このあとオレのことばっかり意識しちゃう?」

 その言葉は、自分の中にあるどこまでも幼稚な独占欲から生まれていた。他からの自分へ向けられている感情なんか全く気に留めていない、そんな隙だらけの彼女への先制攻撃。やっぱり「名前さんはオレの彼女です」ってさっきあの場で言っちまってもよかったかも。
 怪訝そうな表情を浮かべながらオレの顔をじーっと見つめていた名前さんは、その意味を理解すると、わなわなと唇を震わせながら口をパクパクさせた。その様子にほんの少しの優越感を覚えながら「ほら、体育館行かないと」と彼女の肩を軽く叩く。
 ほとんど無意識に、彼女に重ねた自分の唇に指で触れながら思う。どうやらオレは、結構独占欲とかが強いタイプだったらしい。


***


 はあ、と無意識に飛び出たため息は思いの外深いものだった。
 思えば、私は出会った頃から年下の彼の一挙一動に振り回されている気がする。飄々としていて掴みどころがなくて、ついでに何考えてるかわからなくて。
 そもそも、彼は私のどこを好きになってくれたのだろう。昨日はマンションの廊下で話してから朝に目が覚めるまで無我夢中だったから、その合間にした会話なんかを明確には覚えていない。
 いつもふんわりとした柔らかい雰囲気を纏った彼が、ふとした瞬間に見せる真剣な表情。その真っ直ぐな視線を向けられると、私の心臓は途端に大きく脈を打ち、体は抵抗するどころかすっかり硬直して動けなくなってしまうのだ。最初にキスをされた時も、昨日も、そしてついさっきもそうだった。
 目の前で紅白戦に臨んでいる彼こと仙道さん、もとい彰くんのことを目で追いながら、早速先程彼が言った通りになってしまっている自分がいることに気がついた。
 彰くんだけを目で追ってちゃダメだ、他の選手の皆さんだって目を見張るほどのプレイを見せてくれている。仕事だってわかっているのに。どうしよう、全然切り替えが出来ない。だって、だってあんな風にいきなりキスしてきた上に、意識しちゃうに決まってるようなセリフを吐くんだもん。そんな言い訳を心の中で悶々と繰り返す。
 いつもながら、背後にも目がついているんじゃないかというぐらい視野の広さを感じさせるパスワーク、それに空間認識能力、ボールとゴールへの嗅覚。どれをとっても一級品だ。彰くんのバスケットボールのテクニックの高さは、ほとんど素人の様な私が見ていても「わかりやすく上手くて、わかりやすくすごい」のである。
 そんなすごい人が、私のことを好きと言ってくれて、尚且つ今は彼氏。うん、やっぱり現実味がまるでないや。

「くっそお、かっこいいな仙道彰……」

 思わずそんな言葉をこぼしてしまう。
 彰くんは今朝確かに「お付き合い」という単語を口にした。だから、私たちは一応ちゃんとそういう関係なはずだ。ああもう、なんか混乱してきた。
 コートの中を走り、ボールを操り、声を上げている彼を見ていると、別世界の人間の様に感じる。プロスポーツ選手とライター兼記者ってどうなんだろう。そういう人のお相手って、だいたいモデルさんとかアナウンサーとか芸能人のイメージがある。
 目の前のその人があまりにもカッコいいから、私は昨日と今朝のことを実際の出来事であると信じることができずにいる。調子に乗って「彰くん」って呼びますね、なんて言っちゃってちょっと恥ずかしかったかも。そういえばあのとき、彼はなんともいえない顔をしていたし。
 考え始めたら止まらなくなってきた。目で追っちゃうどころか、脳みその中まで彼でいっぱいだ。今日はひとりでまわる日で良かったと、先程の電話の相手である相田くんの顔を思い浮かべながら思った。


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