12.

 じゃあ仙道さん、ありがとうございました。
 そう言ってぺこりとお辞儀をした名前さんは、立つ鳥跡を濁さずが如く、颯爽と部屋を出て行った。玄関で一人立ち尽くすオレは、呆気にとられたまま顔の横を掻きながら「ウソだろ、あっさりすぎる……」と思わず一言。
 ため息を吐いて、その場にしゃがみこんで目を閉じた。
 瞬間、ぱちんと場面が変わる。
 ゆっくりと目を開けると、ここはどうやら自分の寝室らしい。ぼんやりしていた視界がはっきりしてくると、見上げているのがいつもの天井であることに気付く。しかし、違うことがひとつ。オレの横で、名前さんがすやすやと穏やかに寝息を立てていた。
 そこでようやく頭がはっきりしてきて、状況を把握した。さっきまで見ていたのは悪い夢で、こっちが現実らしい。よかった、ホントによかった。なんて夢だ、心臓縮まるかと思った。
 つい何時間か前、オレの下になっていた名前さんは、手の甲で口元を隠しながら顔を真っ赤にして、目尻に涙を溜めていた。彼女を組み敷いているのは自分なのだと思ったら、腰のあたりがギュッとなって、背筋がぞくぞくして、なにもかもが止まらなくなっていた。
 すごかったな、最高だったし。今思い出してもうっかりニヤニヤしてしまう。瞼を柔らかく閉じて眠る名前さんの寝顔を眺めながらも、なんだかまだ現実味がなくてふわふわとしている。少しだけ露出してしまっている彼女の白い肩にふとんを掛け直しながら、よしよしと頭を撫でた。

「ふふ、今の……今のはですね……」

 突然、目を閉じたままの彼女が、モゴモゴと口を動かしながら声を発した。起こしてしまったのだろうか。

「どうしたの名前さん、起こしちゃった?」
「だぶるくらっちっていうんです……ちゃんとしってます……」

 どうやら寝言らしい。なんてこった、夢の中にいても試合を見ているのか、あるいは仕事をしているのだろうか。そのあとも何やらふにゃふにゃと言っていたが、またすぐにすうすうと寝息を立て始める。無防備であどけないその寝顔を眺めながら、思わず噴き出すように笑ってしまった。
 帰らないでいてくれてありがとう、と小さい声で言ってから、その頬にキスを落とす。終わった後、電池が切れたように一瞬で寝落ちてしまった彼女の髪を梳くように撫でていたら、なんだか胸のあたりがぎゅっとなった。
 シングルベッドに大人が二人。オレの体格もあって狭いことはどうしようもないけれど、こうしてぴったりくっつきながら相手の体温を感じられるのはいいもんだなあと思った。
 ほっとしたせいか途端に眠気がやって来た。明日、練習何時からだっけ。そういえば、確認しようとしていたのにエレベーターを降りたら部屋の前に名前さんが居て、頭からぶっ飛んでしまったんだった。
 まあいいや、たぶん午後からだろうし。名前さんの頭をもう一度撫でて、その穏やかな寝息を子守唄がわりに目を閉じた。


***


 カーテンから漏れる光が眩しくて、顔を顰めて目を覚ます。夜中に一度目が覚めたけど、あれからぐっすり寝入ってしまっていたらしく、変な夢を見ることもなかった。ところで今、何時だろう。
 そこで違和感に気がついた。左腕に彼女の重みを感じない。そしてベッドの中に自分以外のぬくもりもない。
 思い出すのは夜中に見た夢。何事も無かったかのようにさっさと部屋を出て行く名前さん。呆気にとられてしゃがみこむ自分。そこで目が覚めて、隣で眠る彼女の頭を撫でて、その柔らかい頬にキスをして、寝息を聞きながら目を閉じたはずだった。
 むくりと起き上がり、頭を掻きながらぼーっと部屋を見回す。体を斜めにして床に目をやると、オレがそこらへんにほっぽってしまっていた彼女の服は無く、ベッドの横に下ろした筈のカバンも消えている。
 どこまでが夢で、どこまでが現実なのだろう。頭が混乱してきた。
 とりあえず起きないと、とベッドをおりて寝室のドアに手を掛ける。その瞬間、ガチャリと勝手にドアが開いた。そこから名前さんが顔を覗かせたことで、彼女が開けたのだということがわかった。

「あ、おはようございます!」

 名前さんはにっこりと笑んでから、途端に「あ、それと、ええと昨日は……」と狼狽するように頬に手を当て、視線をオロオロと泳がせ始めた。彼女の耳がじわじわと紅潮していく様を見てわかった、これはちゃんと現実だ。そう思ったら、胸の中で何かがドバッと溢れてきて、気づいたら彼女のその体に覆いかぶさり、力一杯抱きしめていた。

「仙道さん!? お、おもたいんですが……!」
「スミマセン、ちょっと我慢してください」
「えええええ……」 

 苦しげに呻く名前さんの首筋に顔を埋めて、胸いっぱいに息を吸う。昨日めいっぱい嗅いだ彼女の香りの中に、どこか違和感を感じるにおいが混ざっている。毎日嗅いでいるような身近な慣れ親しんだ香り、これは何だろう。

「あの、実はシャワー借りちゃったんです。勝手にごめんなさい!」

 自分の部屋に戻ってシャワー浴びようかと思ったんですけど、仙道さんのお部屋の鍵が見当たらなくて、鍵開けたまま出ていくのは不用心だなって思って、だからシャワーお借りしちゃったというわけでして、と矢継ぎ早に、そして申し訳なさそうに言って、その口をきゅっと結んだ。ということは、彼女が纏っているこの香りはオレと同じボディソープというわけか。

「風呂でもトイレでも台所でもベッドでも、名前さんならどこ使ってもいいよ」

 そう言うと、名前さんは「え?」と小さく声を漏らした。
 これは、疑いようのない執着心だった。好きだの何だのっていうのも、そういうことをするのも、そういう関係になるのも、ややこしい諸々が発生しないほうが珍しい。だから、執着をするのもされるのもしんどいと思っていた。
 そう思っていたはずなのに、現にオレはこんな状態になっている。そんなことを考える暇もないぐらい、目の前にいるその人のことを好きになってしまっているのだから。

「すげー情けないんだけど、起きたら名前さんが横に居なくて、昨日のことは嘘だったんじゃねえかって、正直ちょっと焦った」

 横で眠っていたはずの彼女の姿が消えていたぐらいで「もしかして、昨日のあれっきりなんじゃないか」なんて思って、柄にもなく焦燥感に駆られてしまっていた。
 終わってすぐに名前さんがテキパキ着替えだして、さっさと服着て、しれっとオレの部屋を出ていってしまう。そんな夢を見たのだと白状したら、彼女は眉間に皺を寄せながら目を細めて「仙道さんの中にある私のイメージ、そんな感じなんですか?」と不満そうな声をあげた。

「真逆ですよ、だからむしろ何でそんな夢みたんだろうって思ってるところ」

 まあ、たぶんおそらくはオレの気持ちのどこかに、まだ信じられないと思う部分があったからだろう。だって、無理矢理にキスしてしまったあの日から、関係を進展させるどころか、もう絶縁されるだろうと思っていたからだ。
 それを聞くと、名前さんは安堵したように「ならいいんですけど」とまだどこか納得できない表情で言った。

「……あ! 私そろそろ本当に部屋に戻らないとなんです! 会社行く前に化粧やら着替えやらしなきゃで」

 それを聞いて、今の時刻がまだ朝の七時か八時かそこらへんなのであろうことがわかった。

「名前さん」
「はい?」
「三十分後にエントランスで待ち合わせ、って言ったら間に合う?」
「へ? ……あ、えーとたぶんいけますけど、どういうこと……?」
「駅まで一緒に歩きたいなって、ダメですか?」

 一瞬固まった名前さんは、ぽかんと口を開けてぱちくりと何度か瞬きをしたのち「わかりました、急ぎます!」と拳を握りながら言うと、踵を返しぱたぱたと玄関に向かう。パンプスの踵を鳴らして、そのままの勢いでぐるりとこちらを振り返ると「では後ほど!」とそれだけを言って、オレの部屋を出て行った。玄関の扉がバタンと閉まる。
 よし、そうと決まればさっさとシャワーを浴びて身支度を整えなくては。大きなあくびを堪えることもしないまま、オレは脱衣所へと向かった。


***


「お待たせしてごめんなさい!」

 そう言いながら名前さんが現れたのは、オレがエントランスに降りてきてから三分ほど経ってからだった。

「全然、オレもさっき来たところです。っていうかまだ三十分経ってないし」

 それじゃあ行きますか、と手を差し出すと、名前さんはきょとんと不思議そうな表情でその手とオレの顔を交互に見た。

「手、繋ぎながら歩きましょうって意味なんですけど」

 名前さんは「ヒエッ……」と息を吸い込むような素っ頓狂な声を上げて、胸の前で両手を握りしめていたけれど、しばらくするとおずおずとその手を重ねてきた。

「昨日、手ぇつなぐよりすげーことしたのに」

 そう言って思わず笑ったら、憤慨したように「ドキドキしてなにがわるいんですか」と口を尖らせている。あざとさのないストレートな言葉、そんなところに惹かれたのだ。

「いいや、名前さんぽくてかわいいですよ」
「……そういうこと、よく口からポーンと出てきますね」

 言い慣れてる感じがして、動揺するのがちょっと悔しい、と歩きながらぼそぼそという名前さん。たしかに、無意識とはいえど、この人への好意を自覚する前に何度かそんなような言葉を発してしまっていた記憶があった。やっぱり気にしてたのか。さっきの名前さんじゃないけど、オレって軽薄そうなイメージがあるのだろうか。少しだけショックかも。

「オレ、実はすげーめんどくさがりなんですよ。だから一対一のお付き合いとかそういうの、ぶっちゃけるとそんなに得意じゃないんです」

 訝しげな表情をしていた名前さんの表情が、だんだんと溶けていく。繋いだ指先にほんの少し力を入れて、自分よりもだいぶ小さなその手を握り返す。

「けど、それ以上に名前さんのこと好きになっちまったから」

 これじゃダメかな、と苦笑しながら言うと、彼女は目を丸くして「そんなこと言われたらもう何にもいえないです」と照れたように笑った。

「そうだ! 私シャワー借りてる時に考えてたんです。仙道さんの事、これからどう呼ぼうかなって。仙道さんは知り合った時から私のこと、名前で呼んでくれてたでしょう? でも、これからはその……お付き合いしてるわけですし」

 お付き合い。それはとても名前さんらしい言葉の選び方だと思った。
 オレ、なんて言ったんだっけ。たしか、もうあの時は無我夢中だったから、言葉なんか選んでいる余裕がなくて子どもっぽい言い方をしてしまった気がする。なんて考えているうちに思い出したけれど、ちょっと照れくさくなってきた。

「いろいろ考えたんですよ! でも彰さんとか、彰って呼び捨てにするのもちょっと違う気がして。でね、彰くんならしっくりきたの! もちろんお仕事でお会いした時はちゃんと今まで通り仙道さんって呼びますけど」

 そして、嬉しそうに無邪気な笑顔を浮かべながら「なので、これから二人の時は彰くんって呼ばせてください」と言った。オレはというと、にこにこと楽しそうに笑う彼女の横顔を凝視しながら、思わず空いている左手で口元を隠していた。
 ダメだ、口元が緩んでどうしようもない。ほんの少しの間に、立て続けに名前を連呼された。ただそれだけのことなのに。

「彰くん? どうしたんですか? もしかしてくん付けはダメでした……?」

 そう言いながら、こちらを覗き込んでくる彼女に「いや、いいえ、なんでもないです、大丈夫です、それで問題ないです」と返事をする。
 なぜならば、たったそんなことでものすごく照れてしまっただなんて、とても口に出せるわけがないからだ。


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