くい、と頬を摘まれてハッと膝の上で握り込んだ手から顔を上げた。走行するタクシーの中で俺の頬から手を離した陽菜さんの後ろに流れる風景がだんだんと都市外になっていることに気付きそろそろ空港に到着するのだと分かった。

眉を下げて笑う陽菜さんが、そろそろだね、と俺の頬を摘んだ手を下ろしまた続ける。


「樹くんがそんな顔することないよ」
「!」
「うん?」
「あ…いえ、前に鳴さんに同じことを言われたなって…」
「鳴に?」
「はい。言葉は違いますけど同じニュアンスで」


はは、とついあの時とあまりにもデジャヴュで苦笑いしてしまう俺に目を丸くした陽菜さんは、プハッ!と噴き出し笑う。あ、可愛い…。先輩だし綺麗だし俺より落ち着いているんだけどふとした時に可愛らしさというかそういう一面が見えるギャップが魅力的な人だと思う。
だからこそ、あの時の表情は隣で見ていて驚いたというか…なんて言ったら分からないけど、とにかく放っておけないと思わされた。


「情けないでしょ?」
「え?」
「私も自分でびっくり。あんな風に鳴を引き留めようとしちゃう日が来るなんて思わなかった」


そう言ってやっぱり眉を下げて笑う陽菜さんが数ヶ月前まで鳴さんの専属マネージャーとして就いていたというのはメディアでも取り上げられ広く知れた話しだ。その陽菜さんが稲実野球部のOB会や記者と対峙した電車内での気遣いや対応に見る限り、誰よりも鳴さんを守っていたのだというのは想像するに難くない。だからこそ妻であると同時に"そういう面"で自分に厳しさを課していたのだとして、それは賞賛であると同時に寂しさや切なさでもあるんじゃないか。
少なくとも鳴さんはもどかしいだろうな…。

行くよ!と告げた鳴さんに、思わず零れた陽菜さんの本音を隣で見た。
小さく漏らした声には寂しさが滲んでいて、鳴さんを見つめる瞳には愛おしさが浮かんでいた。思わず目を逸してしまうほど、ただただ鳴さんのことだけを純粋に見つめる目に映る鳴さんが羨ましいとさえ思ってしまうような真っ直ぐさだった。

車内は走行音のみで静かになり、何かを陽菜さんに伝えたい焦りを静かさと空港が近い気配を感じる外の景色に煽られて奥歯を噛み締めた。

陽菜さんからの国際郵便は突然だった。郵便配達員に書留だと押印を求められながら目を瞬く俺からは動揺と戸惑いが感じられたのか、ご住所とお名前合ってますか?と改めて確認されてしまったほどだ。
だってまさか思いもしない。
必ずお礼するから!と押し切られる形で連絡先を交換はしたものの、まさか…と厚みのある封筒を開けてその言葉しか出なかった。鳴さんの所属球団ホーム球場での試合観戦チケット2試合分とその日程に合わせた航空券。決して安いものじゃないだろう。ダグアウト裏の席でまるで自分もグラウンドにいるかのような感覚で観戦できる席で観て聞いて感じたことを俺はきっと一生忘れない。……鳴さんに出す料理の実験台にされたのは日本に戻るまでには忘れておこう。強い酒を飲まされたのも、酔い潰れた起き抜けに鳴さんには脛を蹴られ、陽菜さんにはチョップされたことも。

あぁ、違う!あらぬ方向に思考が飛ぶ!現実逃避かこれ!
ブンブン!と首を横に振りやっとこの2日間の夢のような時間から自分を引き上げた時にはもう空港内とか…俺、どんだけ浸ってたんだ…!
絶句する俺に、こっちだよ、と先を歩く陽菜さんの…もう三森さんと旧姓では呼ぶことのないこの人の背中を見ながら歩き俯く。
揺れる長い髪の毛が印象的だったこの人の背中でそれが揺れることはもうない。数ヶ月前にメディアに"成宮の瞳に唯一映る女性"と評されたきっかけの騒動を思い出し胸がずきりと痛んだ。


「樹くん、お土産とか買う?まだ時間あるからお店見よっか」
「あ、はい!」
「会社と彼女と…友達と、得意先にも必要?」


それからー、と俺が口を挟む間もなく指折り土産リストをカウントする陽菜さんについて歩き着いた場所は空港内でも1番大きく品数も豊富だというギフトショップで、店頭にはさすがと言うべきか、鳴さんも所属する地元球団のグッズがたくさん押し出してある。
ふふんっ、なんて陽菜さんが隣で満足そうに笑うから何かと思えば目線の先には鳴さんの背番号と名前を記すユニフォームとTシャツが売っていて、凄いよね、なんて眩しそうに目を細め言うものだからただ黙って頷いた。


「テッパンはやっぱり球団のTシャツとかグッズだけど、私のお薦めはこれかな」


そう言って陽菜さんが自分の顔の前に掲げ上げて俺に見せたのはガラスの球体の中でキラキラと雪がゆっくりと降る小さな街を閉じ込めたスノードームだ。
ひょい、とそのスノードームから顔を出して見せた陽菜さんは改めて手の中でそれを引っくり返しドーム内に降る雪を見つめながら話し出す。


「私、仕事柄たくさん空港に行っていたからそのたびにその土地のスノードーム買って集めてたんだ」
「綺麗ですね…」
「場所によってはクオリティーが残念なものもあるんだけどね。それさえも好きなの」


ふふっ!と子供みたいに無邪気に笑う陽菜さんにつられ、フハッ!と噴き出し笑い俺もスノードームを手に取ってみる。そういえば…こんな風にスノードームを手に取りじっくり見るのは初めてかもしれないな…。彼女の土産にとぼうっと考えていれば、持ち帰りは慎重にね、と言い店を回る陽菜さんに最終的にはかなりの土産を持たされ、いつ買ったんですか!?、と慌てて財布を出そうとすれば、後輩が生意気!、と頭にチョップを食らった。


「じゃあまた。次は稲実野球部のOB会かな」
「……はい」


あぁ…どうする!?何かを伝えたいけれど、陽菜さんがそれを望まないのは後輩扱いによく分かる。いや後輩なのは事実だけど。
保安検査ゲート前で、気をつけて、とにこり笑う陽菜さんを前にグッと奥歯を噛み締める。

……何を言わなくても、鳴さんと陽菜さんなら大丈夫だ。2人を見ていれば分かる。俺が心配なんてしなくても。
ぎこちないながらも俺が笑い返すそれに陽菜さんも笑い返してくれて、じゃあ、と頭を下げ背を向けた。次に会うことがあればさっき陽菜さんが言ったように稲実野球部のOB会か。
進む一歩一歩が重いのは、スーツケースが陽菜さんの買ってくれたお土産で来る時より重いからかな。日本に帰ったらまた仕事で日常が戻ってくるっていうのもあるかもしれない。それほどに俺の日常とは掛け離れたこの場所で、たった2日だけどその2日で感じたことが日本で過ごす何日間よりも貴重で重く感じる。

のっけからして衝撃だったなぁ…。
陽菜さんから鳴さんを球場外で待っていれば会えるって連絡を貰っていたから観戦して興奮そのまま握った拳から力を抜けない状態で鳴さんを見つけるとなんだかファンの女の子に顔を寄せられてるし、鳴さんたちの家にお邪魔すると鳴さんはちゃんと食事の準備や片付けを陽菜さんと一緒にやってたり。

陽菜、と呼ぶ鳴さんの声が甘ったるくこっちまで恥ずかしくなった。
鳴さんを無意識に探すように、少しでも鳴さんが離れるときょろりと家を見回す陽菜さんの、思いもしなかった甘えたところに驚いた。
鳴さんは意外としっかりしてて、陽菜さんは意外と子供っぽかった。
もっと鳴さんが陽菜さんを振り回して、達観した陽菜さんが苦笑いしながらハイハイとワガママを聞いてあげてるのかと…なんて、鳴さんに聞かれようものならまた頬を抓られるな…心の内に留めておこう、よし。
見てて飽きない人たちだからきっとこっちでも見守り助けてくれる人はたくさんいるんだろう。俺が何を言わなくたって全然問題ない…はずだ。

そこまで思いを巡らせて不意に頭に響いたあの日の鳴さんの声に息を呑み足を止めた。

"俺たちはちゃんとお前みてェな奴いるって分かってる"

分かってもらうには示さなきゃ駄目だろ!!分かってる、と言うそれに甘えたら結局何もしないのと同じだ!


数歩歩き進めた足を戻し、樹くん?、と目を丸くする陽菜さんの前へズンズン歩き戻る。


「っ……陽菜さん!」
「うん?」
「鳴さんを信じてあげてください!」
「!」
「あの…っ、だから…!」


甘えてあげてください、とか変…だよな。
でも伝えたいことはさっきの一言で十分だった。ギュッと握った拳を胸に当てて目を見開き息を吸い込み小さく開く陽菜さんの口から言葉を聞く前に、


「いででででっ!」


頬を抓られた!!


「生意気!!」
「!」
「でも、ありがとう!!樹くん!!」


バイバイ!またね。またいつでも遊びに来てね。楽しかった!

そう満面の笑みで続け手を振ってくれる陽菜さんに泣きそうになった。言ってもいいんだ。俺はただ見てるだけだし2人の日常に決して寄り添うことはできないけど、こうやって心配を示すことは出来る。

込み上げた色々な感情を押し込めればフルフルと顔の表情筋が震えて、それを抑え込もうとすれば目頭が熱くなってじんわりとしみるように痛んだ。握り込んだままの手を大きく振ってやっと保安検査ゲートを無事潜り長く感じながらも短いアメリカ滞在はこうして終わった。

日本に戻れば日常は当然ながら当たり前に流れ、梅雨を終えだんだんと熱くなると稲実野球部OBのトークルームは夏の予選のことで話題が持ち切りになる。同期OBと近く差し入れを持って激励に行こうかとスケジュール調整に入った文面を読み、自分のスケジュールと照らし合わせてみる客先から戻る新幹線の待ち時間、カフェの中。

うわ…この日、俺駄目だ…さっき客先と決まった次のミーティングの日程とかぶる。

申し訳ない気持ちになりながら髪の毛をくしゃりと掻き乱している俺の前に、お待たせ致しました、と注文していたアイスコーヒーが置かれガムシロップとミルクのポーションも一緒に置かれたのを見てはたと手を止めた。

角砂糖とコーヒー。
陽菜さんは鳴さんを角砂糖だと例えた話を聞いて自分はコーヒーがいいと言ってたっけ。
2人ともがそうなんじゃないかと、今思い返すと俺は思う。
鳴さんの家でご馳走になったコーヒーには2人ともガムシロップもミルクも必要としなかったけど、そりゃあれだけ甘ったるい関係でいれば必要ないよな。

フッ、と笑みが零れる口元を隠すように俯きながらガムシロップの容器を手に取る。
稲実野球部OBのトークルームにその日は行けない旨を打ち込んでからスポーツニュースの画面を開くと鳴さんが愛妻と散歩デートを楽しむというなんとも平和な記事が上がっていて、俺はやっぱりアイスコーヒーをブラックで飲みながらその記事を読んだのであった。



角砂糖とコーヒー
「陽菜ー!なんか届いたけど」
「え?私宛?誰から?」
「んー?……は?」
「誰?」
「樹」
「え?なんだろ…?」
「中、なに?はーやーくー!!」
「ちょっと待ってってば!!えっと…これと、」
「手紙。……と?」
「あ!スノードーム!!えっと…あ、手紙に書いてあるよ。客先に出張した時に見つけたから送りますって。鳴と私にお礼もいっぱい書いてある。樹くんらしい!」
「…ふうん。なに?陽菜、好きなの?これ」
「スノードーム?うん。話してなかったっけ?まだ飾る場所決まらないから箱にしまってるけど、結構持ってるん、」
「明日!!」
「え?」
「明日のオフ、これ買いに行こ!!」
「また張り合って…」

2021/06/25

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