チッ、と横から鳴ったクソデカい舌打ちにゾクッと悪寒すら感じてごくりと思わず息を呑みながらそろりと目線を流した。

こ、怖い…!え、舌打ちだよな!?なんか電線がショートしたとかそんな音…なわけない。いやそれはそれでやばいけど。真っ黒な空気が隣から漂ってくる感覚を気のせいだ、気のせいだ!本日秋晴れ気温湿度共に良好!…と、全力で気を逸らそうとしても今度は呪いかお経の様な声が聞こえてきて視覚と聴覚を支配されちゃ為すすべなし…!意を決してグッと噛み締めた奥歯を解き本能が拒絶する方へとギギギッと首を回した。


「ど、どうしましたか?」
「…あれを目の前にしてそれ聞くのかよ」
「あー…」


"あれ"とは。
と、あえて問う勇気は俺にはない。
我が稲城実業高校の野球部ショート白河勝之先輩。レギュラーメンバーの中でも厳しく怖いと俺たち後輩にも名高いこの人が腕を組み目を細める先に答えがある。

きゃあー!!…とかって、現実世界にもあるんだ…。
例えばアイドルのライブとか、例えば漫画の中に書かれた活字とか、そういう認識だったけど高校入学して間もなくそれは現実に起こり得るんだと知った瞬間に俺の世界は広がった。野球をやって数年、この先の人生を考えてもまだまだ経験は浅く知ったような口は利けない俺だけどこれだけはあの黄色い声の真ん中にいるあの人の球を受ける捕手として自信を持って言える。
天性と才能に加えて努力を欠かさない人が野球に愛されるんだということを。……なーんてあの人に聞かれようものならそれこそ漫画読みすぎだとか暑苦しいだとか言われるんだろうなぁ…。

太陽の下でひときわ目立ち輝き躍動するマウンドの王様。奮う一球ですべてを支配してしまえる迫力と実力。前に立つ打者が一瞬でも絶望する瞬間が俺には分かる。残酷なほどあの人、稲城実業高校野球部エース、成宮鳴は野球をするために生まれてきたような人だ。


「鳴先輩!今日もカッコ良かったです!」
「え、マジ?ありがと!」
「あのこれ!作ったので食べてください!」
「うっまそう!こんなの作れるなんてすげェね!!」


あ、あの子。俺と同じクラスで学年でも1番可愛いって話題になったことがある子だ。
へー…なんて他人事にも思いながら少女漫画から抜け出てきたような光景を眺めていればそんな俺の横を通り過ぎた1人の女の子。あ、あれは。


「鳴!」


うわ…と嫌悪のように呟いた白河先輩と、お!、と楽しげに声を上げたのはいつの間にか俺の隣に立っていた神谷先輩。にやりと笑う神谷先輩の腕が肩に乗り目線の先で今に起こるだろう事態を悠々と見学する構えだ。


「彼女様の登場だな」
「修羅場になればいい」
「やめてくださいよ…」


まだこの先もオフまで練習試合が詰まってるんですから。
そう溜息混じりに零す俺だけど……わ、分かってますよ!!他人のこと心配してる場合か?とばかりにじとりと見られなくても分かってますから自分の未熟さは!!だからそんな目で見ないでほしい…白河先輩…。胸に穴が飽きそうなほど抉られる…。
たらりと背中に汗が伝うのにサァー…と血の気が引いていく気持ち悪さに自然に下る目線。


夏の甲子園で準優勝校になった俺たち稲城実業高校野球部は当然秋大を制覇する気構えでいたわけで、その先の神宮大会さえも見据えていたけれど鵜久森に破れオフまでに新チームの戦力を1から鍛え直す練習試合日程が組まれ背番号2を背負いエースであるあの人のリードに苦心する日々。噛みつかれては負けじと食い下がり、あの人が最高の球を投げるためにはなんでもする覚悟を述べてみたところで、言うだけなら誰でもできる、と嘆息され。凡庸な自分の未熟さを痛感する日々は決して心穏やかではないけれど泣くことだけはもうあの日、鵜久森に負けた時にやり切った。あとは顔を上げてただ進むのみ。

…だけど、あれに関しては俺はどうにもできない!

鳴さんを囲む女の子たちの間を堂々と割り込むこれぞ彼女の特権とばかりの振る舞いに、おぉ…、と感嘆を零せば俺の両隣では、


「本妻」
「正室」


なんて、白河先輩と神谷先輩が暢気に言ってる。
…別に鳴さんが二股掛けてるわけじゃない。周りの女の子たちがどんなに彼女さんを恨めしげに睨んでいたって、彼女が隠しきれない優越を時々女の子たちに向かってほくそ笑んだって鳴さんはにこりと笑って、暑くない?、と彼女を心配する優しさを見せるし。

ただ。
ただ1つだけ、譲れないものがあるだけ。


「鳴、今日これから遊べるんでしょ?」
「へ?そんな約束したっけ?」
「してないけど、試合が終わった後はレギュラー陣はオフって聞いたし…最近ずっと2人で出掛けられてないからどうかな?って」


私の家でDVD観てもいいし、とサラッと続ける彼女さんの発言が大胆に聞こえてしまうのは俺だけじゃない…はず!!
ね?と鳴さんの左腕に触れてゆっくり擦りながら誘うように左手を握る動作にカァッと顔が熱くなってしまう。お、大人だ…!1年上なだけなのにあんな風に男に触れれるあの人も、んー…、と全く動じない鳴さんも。自分にあんな風な関わり合いが出来る日がまったく想像できないもんなぁ…。さすが鳴さん。


「相変わらずすげェな」
「相変わらず、ですか。鳴さん、ずっとあんな風に囲まれてるんですか?」
「さすがに中学の時学校でどうかは知らねェけどな」
「シニアの頃は女の子に囲まれるよりおじさんに囲まれてた」
「おじさん!?」
「野球好きの。期待してるぞ!とか、しっかりやれよ!とか」
「あぁ…なるほど」


余計なお世話だよな、と低い声でボソッと続けた白河先輩に、しょうがねェよ、と神谷先輩が返す。


「宿命ってやつだろ」
「宿命…」


命が宿るって書くっけ…。
漠然と、だけどそれはしっくりとくる言葉だった。神谷先輩が鳴さんの何を指してそう言ったかは分からないけど俺には鳴さんが投げ込んでくる球にそれを感じて、それが誰にでも出来るわけじゃないと知っているから鳴さんを指す言葉にぴったりとくるんだ。強豪の伝統を受け継ぎ守る稲実野球部のエースナンバーを背負うプレッシャーは俺には想像にも及ばないけれど、それさえも、当然!、とばかりに王様然としていられる強さなんて誰にでも持てるものじゃないよな…。
それはともかく神谷先輩…肩、重いんですが…。それでなくても鳴さんの荷物も持っているのにズシッと体重を掛けられると身体がそろそろ傾きます。


「…角砂糖みたいだよな」
「え……」


角砂糖?
ぽつりと呟かれた声にグッと足を踏ん張り直してから白河先輩に顔を向ける。ん?と神谷先輩にも問いかけられた白河先輩は目を細め鳴さんを見据えながら口を開く。


「あの光景。角砂糖に群がる蟻みたいだって思う」
「あ、蟻…ですか」


辛辣…!例えが的を得ていたとしても花に止まる蝶とかじゃ駄目だったのか!?

ひく、と口の端が引き攣るのを感じながらなんて返したらいいものかと思考を巡らせていれば、なるほどな、と神妙な声で神谷先輩。


「樹ー!!」
「え!?あ、はい!!」


悲しいかな誇らしいかな。鳴さんに呼ばれるとどんな時でも瞬時に返事ができるようになってしまった…。
犬…という白河先輩の声は聞かなかったことにして、ちょいちょい、とにんまりと笑い俺に手招きする鳴さんの方へと足を向けた。肘置きが、という神谷先輩の声も聞かなかったことにした。

ていうかこの女の子たちの中に入っていかなきゃいけないのか…!?うわぁ…邪魔してすみません…!俺は何もしてないです鳴さんに呼ばれただけですご覧の通り!


「なんですか?鳴さ、うわっ!」
「俺、コイツの自主練に付き合ってやんなきゃいけねェからパス!ごめんね!」
「は…?」


はあ!?


「鳴さん!!断る理由に俺を使わんでくださいよ!!」
「いいじゃん別に。お前は俺の球受けれるし、俺は断る理由が出来たし!一石二鳥!あ、ついでに別れられたから一石三鳥?」
「だからって…え?別れたんですか?」


確かにすげェ目で鳴さんを睨んでたっけ。ついでに俺のことも。巻き込まれ事故もいいところだ…。邪魔すんなとばかりに俺を睨むあの目…思い出しても怖すぎてミットを構えて座りながらふるりと震える。

鳴さんは何食わぬ顔でグローブを手に土を蹴る屋内練習場内。球を受けられるっていったって、鳴さんは試合でも投げたしせいぜい10球ほど。とはいえ嬉しくないわけじゃないから口元は緩み気が引き締まるというなんだかよく分からない状態の俺にゲッとばかりに顔を歪める鳴さん。


「お前、気持ち悪い顔になってるよ」
「い、いいじゃないですか!嬉しいものは嬉しいんです」
「あっつ苦し!」


そう言いながらもブハッ!と噴き出す鳴さんは女の子たちや彼女を前にして取り繕うような笑顔じゃなく、無邪気な年相応の高校2年男子だ。その変わり様が頼もしくもあり、寂しくもあり、心配でもある。俺がそんなことを口にしようものなら、生意気!とギャンギャン怒られてしまうだろうから言わないけれど。

白河先輩は鳴さんを女の子が取り囲む光景を、角砂糖に群がる蟻、と言った。
なら角砂糖は減るばかりだ。
行列を成した蟻たちに本当に少しずつ削られて、擦り減った角砂糖は最後にはなくなってしまう。ぞわりとする恐怖が足元から頭のてっぺんまで駆け抜けてごくりと息を呑む。大丈夫なんだろうか…?きっと白河先輩もそういう意味で言ったんじゃないだろうか。この先も野球に愛され活躍する鳴さんは…空っぽになってしまう日がきてしまうんじゃないか…。


「ぷくくっ!樹、お前女の子たちから完全に敵扱いされるんじゃねェの?」
「んな…!分かってるならああいう場で呼ばなくてもいいじゃないですか!もういいです!女房役なんで!俺は!!」
「!…生意気」


目を細めニィッと笑う鳴さんの気迫にごくりと息を呑み腕を振り上げる鳴さんを前にミットを構えた。
今はただ、俺にできることを。
力不足だとしても精一杯、この人から逃げずに向き合うんだ。


そんな風にあの頃、思ってたな。
テレビのディスプレイ越しにしかもう見られないかつての相棒、成宮鳴。相棒…と俺が言っていいものか憚れるほど名を挙げた鳴さん。日本球界の至宝だなんて呼ばれることもあるけど今1番聞くのは違う名だ。


「樹、この人と同じ野球部だったんでしょ?」
「!…あぁ、うん」


やばい…完璧に意識が飛んでた。もう8年も前の記憶を思い起こしてぼうっとしていた俺を呼ぶ声に慌てて頷く。すごいね、と続ける彼女が俺空いたコップに麦茶を入れてくれるそれに、ありがとう、と礼を言いながら苦笑いを零す。


「凄いのは鳴さんで、俺じゃないけど」
「そんなことないよ。誰にでもできることじゃないでしょ?」
「あの頃はただただ必死だったよ」
「そっか。あ、ねぇ。年末にあるって言ってたあれ」
「うん?…あぁ!稲実野球部のOB会?」
「うん。あの人も来るの?」
「多分。なんだかんだそういう場に絶対に来るんだ」


仲間外れだー!!とかって自分だけ呼ばれないと騒ぐような人だ。
そうは続けずに懐かしさに目を細める俺に、楽しんできてね、と彼女が言う。大学卒業前に付き合いもう5年目になる彼女は今も友達と野球チームを作る俺とは違いまったく野球のことは分からないけど温かく見守ってくれるような子だ。MLBのニュースを観ていても何も文句を言わず、鳴さんが取り上げられるたびに俺を呼び教えてくれる。言葉にはしなくても気に掛けているのがどうやら丸わかりらしい。

日本球界の至宝と呼ばれ、各タイトルを総ナメにし自軍で日本シリーズ制覇を果たし満を持して昨年MLB挑戦をした鳴さんを誰が最初に評したか、日本球界始まって以来最大のプレイボーイと揶揄する。確かに噂も多いけれどそれが事実かどうかを確かめる術はもう俺にはない。

ただ今も角砂糖は形を保っているだろうか。
甘さを分け与えていく内に擦り減り鳴さんの何かが減ってしまい、どこかが崩れてしまっていないか。
俺は向こうで活躍する鳴さんのニュースを観ながら答えを確かめようのない不安を胸に今日も広げ、乾く喉に冷たい麦茶を押し流すのだった。



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