「もー無理!!うーごーけーなーいー!!」
「はい、あと10」
「鬼ー!!」


マットの上に仰向けに倒れガァッと叫ぶ俺にベンチに座るこの子が膝の上に開いたノートパソコンから顔を上げて冷めた目を向けてくる。うっわ!可愛くねェ!!ベッと舌を出す俺に唇をちょっとだけ尖らせても今更遅いっての!


「中嶋さんが戻ってくる前にやり終わるんじゃなかったの?」
「グッ…!や、やればいいんでしょ!?ほら数えて!!」
「はい、いーち」
「パソコンから顔上げろ!」


まったく、俺の専属通訳兼広報は初めて顔を合わせた時からずっとこんな調子だ。
腕立て伏せを含めトレーナーである中嶋さんから告げられた回数をトレーニング施設でこなす自主練日の今日、俺の側になんでこの子がいるかというと中嶋さんにどうしても外せない用事が出来てしまったんだとか。あーあ!!なんで陽菜が!?ってつい言っちゃった俺も悪いけどさ、めっちゃくちゃ機嫌が悪い三森陽菜がカタカタと軽快にキーボードを鳴らしていたパソコンから顔を上げて目を細める。俺と同い年で日本人で広報部の子で今日は彼女もオフ日のはずだからいつものスーツ姿じゃなくて緩い私服姿。ふうん…意外…。こんな服着るんだ、この子。売り言葉に買い言葉の応酬なんてしょっちゅうだし、互いに強気で勝ち気ともなれば喧嘩ばっかの俺たちだから仕事を通さなきゃ関わることも少ない。大きなシャツをブカッと着て下には黒のタンクトップ。ショートデニムから伸びる足、綺麗じゃん。ブカブカのシャツから俺より小さな手がちょこんと出てて可愛くても、ま…所詮陽菜だけど。

腕立てをしながら顔を上げてこめかみの横から頬に垂れた汗を感じながら陽菜を見ればカチッと眼鏡を掛ける陽菜とかち合った目線に、なに?、と目を細める。


「苦しい?」
「べっつに!こんなもん、負けるに比べたらなんとも、ねェ…!」
「そう」
「!な、なに?」


いきなり俺の前に座る陽菜。


「あと3」


そう言って俺の疑問に取り合わずに俺の顔の汗をタオルで拭く陽菜に、へあ…?と間抜けた声が出て踏ん張っていた腕から力が抜ける。
そうなりゃ当然、


「うわ…!」


ドシャッと身体がマットの上に潰れて顎を打つ。くっそ…!


「ブッハ!!」
「!っ…笑うなよ中嶋さん!!」
「あー悪い悪いっ…ぶくくっ!」
「絶対に思ってないじゃん!!腹抱えて笑ってんじゃん!!」
「お疲れ様です、中嶋さん」
「おー。悪かったな、陽菜。これ」
「え…あ、これ…」
「前に食ってみたいって言ってたろ?あそこのパン」
「わぁ…!ありがとうございます!」


!……なんだその顔。笑っちゃってさ。見なよこっち。専属で就いてる選手がマットに突っ伏して全然起き上がってねーじゃん。俺のこと心配しねェの?なに?あそこのパンって。俺、なんも知らねェけど?

マットに頬杖つき眺める先にはついさっきまで俺の前に座っていた陽菜がいて、用事から戻ってきた中嶋さんから貰ったパンが入ってるという紙袋の中身を見てさっきまでの不機嫌面が嘘みたいに笑ってる。
…俺の前でああして笑うの、俺が先発登板した試合で勝った時ぐらい。


「あー!痛いー!!」
「え!?」
「誰かさんのせいで顎ぶつけ…」
「どこ!?」
「!」


へ…ちょ、…う、わ…!
ガサッと陽菜の手から中嶋さんから貰った紙袋が落ちる。
目の前には陽菜がいて、心配そうな顔で眼鏡を外してガシャンと投げ出し気にする様子もなく俺を真っ直ぐ見つめる。確かこの眼鏡は視力が悪いからとかじゃなくて、長時間パソコンを見つめてると眼精疲労で頭が痛くなるからそれを軽減する為に掛けてるんだって誰かに言ってたっけ。

そっと触れられた俺の顎。
言葉をなくして目を見開く俺の目を真っ直ぐ見つめる陽菜はもう笑ってない。眉を下げて瞳がユラユラ揺れてる。いや、違う。そうじゃない。こんな顔をしてほしかったわけじゃあ…。


「こら」
「いだっ!」
「陽菜を困らせるのも大概にしろ」


い、痛すぎなんだけど…!!
ゴチッと頭の上に落ちた中嶋さんからのゲンコツが全身に痛みを走らせてまたマットの上に逆戻り。
頭を抑えて、くーっ!と堪えていれば俺の前から陽菜が立ち上がる気配を感じてハッと顔を上げる。


「中嶋さん、それでは成宮をよろしくお願いします」
「あぁ。パンはたくさんあるから彼氏とでも食べな」
「ありがとうございます」


は…?彼氏?前に聞いた時はいないって言ってたじゃん。あれ嘘だったわけ?それともあれから出来た?別にそれ自体は不思議じゃないかもしれないけど。
口の中が急激に渇いて、マットの上で手が滑るほどなんで焦ってるか分からないまま慌てて立ち上がり陽菜を追う。
俺をちっとも見ない陽菜。ブカッと着てるシャツのせいで背中はいつもより大きく見えんのに、どうしてか後ろ姿が悲しんでいるように見える。それが勘違いじゃないって心の中で絶対の肯定を自分で出来るぐらい俺はちゃんと陽菜を見てんだよ。陽菜はそうじゃねェかもしんないけどさ。

短いショートデニムから伸びる生っ白い綺麗な足の太腿に不自然な日焼け跡を見つけてその違和感は取り敢えず頭の片隅に置いといて、今は陽菜を捕まえねェと!


「陽菜!」
「!」
「あの、ごめ…」


バキャッ。
………バキャッ…?

踏み込んだ足で大きく前進して陽菜の腕を捕まえたのはいいけど俺の足元でいやーな破壊音…と、言い逃れできない衝撃。やっばい…これ!

俺と陽菜、見合わせていた目をどちらからともなく俺の足に向けて"それ"の正体を捉える。
あーぁ、と中嶋さんが溜息混じりに言った。


「……成宮くん」
「…あー…えっと、これは…陽菜が!置きっぱなしにしてるからで!」
「っ……離して!!帰る!!お疲れ様でした!!」 


バタンッ!!と、すっげー音…。あのドア、あんな音したことあるっけ?
なんて、考えてる場合じゃ…ない。

そっ、と足を上げればさっきまで陽菜の掛けていた眼鏡の残骸。俺が踏んづけちゃったからレンズは外れてフレームは曲がり耳にかける部分は根元から折れてしまってる。手で拾いどうにもならなそうな眼鏡の成れの果てと、怒り出ていってしまった陽菜と、二重に責め立てられる俺に中嶋さんが後ろから覗き込みさらなる追い打ち。


「やっちまったな」
「!っ……弁償するし!!」
「鳴。そういう問題じゃない」


う…溜息つかれるといよいよ惨めになってくる。
中嶋さんはベンチに置いたままの陽菜のノートパソコンを閉じて、その眼鏡な、と話し出す。


「就職祝いに父親から貰ったものらしいぞ」
「え"!?……マジ?」
「陽菜を見てりゃ分かるだろうが、ブランドであるとか性能であるとか、そういうものに喜んだわけじゃないだろうな。だからこそ同じ物を買い直せばいいってわけじゃない」


なら、どうしろって言うのさ。
さてやるぞ。なんて言って俺の疑問を置き去りに中嶋さんは俺の足りない筋力を的確に指摘して強化課題を2人で確認していく。頭の中には陽菜の白い足にある日焼けの跡の疑問と壊した眼鏡をどうしたらいいかという憂いを置き去りにしたままでその日のトレーニングを終えた。

あの日以来、どうにも謝るタイミングを失ってしまった俺は移動中のタクシーでスマホとにらめっこ。今日は試合で、先発登板。
んー…こんな感じだよね、陽菜が掛けてた眼鏡。パソコンを長時間見て作業する事による疲労軽減…か。あんなパソコン見てたらそりゃ疲れるよ。今スマホの画面をスクロールして流してるのを目で追うだけでも飽きてきちゃうのにさ。あ、それは違うか。

あれから、なんも言ってこねェし…。
俺がブスッとするのもお門違いなのは分かってるけど俺がこんなに気にしてんのに気にされてないのはフェアじゃないっていうか、そういう経験がないっていうか…本当、やりづらい。
……めちゃくちゃ嬉しそうに笑ってたな、あの時の陽菜。パン好きなのかな。そういや好きな食べ物なんて知りもしない。まぁ聞かないしね。
けど、陽菜は知ってる。
俺が左利きなのはもちろんだし、不便がないように何気なくしてくれてると最近気付いた。例えばタクシーでも俺の左側に座らないのが代表的なそれ。俺が好きな店の飯とか、飲み物も。俺の知ってる女の子のような可愛さは全然見せないけど、俺が先発ローテから漏れないようにピッチングやトレーニング以外で俺のコンディションを整えようとしてくれている。

だとしたら手っ取り早く陽菜を笑顔にさせる方法は1つだけじゃん。分かりやすくていい。

マウンドに立ちぐるりと腕を回す。日本で培ったそのままではいられない球速や球種をさらにレベルを上げるために中嶋さんと筋力とそのバランスから見直しているこの頃。着実に力がついてきているのを感じる積み重ねた勝ち星数。球場いっぱいに感じる声援を背にボールを握った手を振り上げる。さて、今日も勝つよ。


「鳴ー!!」
「こっち!こっちにもサインしてー!!」


試合終了後、快勝した俺たちを迎えたファン達にそれぞれファンサービス。いや、まぁ嬉しいけど…陽菜は!?
ファンの女の子から出された色紙にサインをしようと受け取った俺の後ろからスッと出されたサインペン。あ…、と振り返れば陽菜がいて口をパクパクしてから嬉しそうに笑う。
やっぱ…そういう顔がいい。
勝ち気に笑うのもぞくぞくするけど、ニッとして感情を隠しきれないとばかりに顔いっぱいに嬉しさを広げてこっちまで顔が緩むような…そんな笑顔。
心臓が跳ねて鼓動が早まるけど嫌な感じじゃない。さっきの口パクは"おめでとう"かな。サインペンを受け取り、鳴!、と呼ばれた声に応じながら後ろにいる陽菜に向かってピースサインを作る。やばい…顔、緩む。

緩む口元を時々俯いたり手で隠しながらファンに対応していれば、ちょん、と後ろから肩を突かれた。成宮くん、と小さく呼ぶ声がこの賑やかな中でも陽菜だと聞き分けれるようになったのはいつ頃からだっけ。


「なに?」


対応しながら少しだけ身体を後ろに寄せると起こった思いがけないこと。
そっ、と肩に手を置かれた。あの日、陽菜が俺が痛いと偽った顎に触れられた時を思い出してカッと身体に熱が上がった。
やばいっ…なんだ、コレ…やばい…!
グッと息を呑み目を見開く俺の前でファンの子が目を丸くしてる。グルグルと頭の中で処理しきれない自分もよく分かんない感情が回って…なんだよ、コレ!俺、笑えてんの!?

少しだけ俺の肩に乗る重み抗わず預ければフッと近くなる陽菜の声。
思考停止。
表情筋が働かない。
成宮くん、と呼ぶ陽菜の声が身体の中にビリビリ響いて感電でもしたんじゃないかってほどの衝撃。
結局陽菜はファンの子の後ろに小さな女の子が必死に手を伸ばしてくれてると教えてくれたわけなんだけど、笑顔で対応しながらも頭の片隅がまだ麻痺したかのように陽菜に囚われてる。


「陽菜?」


俺がやっと振り返った時、陽菜の姿は俺の後ろになかった。



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