■ ■ ■
僕が華さんの家の猫になったのは、ある晴れた夏のことだった。
その日は地面がうねるほどのいわゆる猛暑で、とある場所からずっと歩いていた僕は、へろへろになりながら歩いていたのだ。焼けた石みたいに熱いアスファルトの上をひたすら、鉤尻尾を引きずりながら歩いていたのだ。
友達も知り合いもいない異境のような地を、ただ目的もなく歩いていた。
正確に言えば、目的はあった。けれどそれは誰かに会いたいとか、そういうものではなかった。
僕は逃げたかったのだ。
「またか」
男は僕を見てそう言った。
とりあえず休憩したくて日陰を探し、たどり着いたのがとあるアパートの窓際だった。レースのカーテンの向こうからサボテンが見える部屋の窓辺で、僕はようやく息を吹き返したように涼を貪っていた。
すると、男が窓から顔を出して「またか」と言い、それにつられるように落ち着きのある高い声が響く。
「猫?」
「そう」
僕の名前は「またか」ではなかったし、どうして男が「またか」と言っただけで声の主が猫がいると分かったのか、その理由を知ったのは少しあとのこと。声の主のものと思われる足音が近づいてきて、僕に煮干しが差し出される。
えっ。と思った。僕を覗き込んでいるのは若い女だった。丸いブラウンの瞳が印象的な、長い髪の。
どうして彼女が僕にそんなものを寄越したのか分からなかった。けれど、三日間飲まず食わずだった僕は、驚きと同時に疑いもせずその匂いにつられて飲み込んだ。
たぶん、あんまりに素早く平らげたので、彼女は驚いたのだろう。
「おなか減ってたのね」
「華さん、くしゃみが出るからとっとと追い払って」
「可哀相」
「俺のほうが可哀相」
はなさんと呼ばれたその人は、僕の腕の両わきに手を差し込み涼しい家の中に入れた。男があからさまに僕を睨む。猫が嫌いなのだと思った。
けれど、涼しいし、僕を抱き上げる腕は手慣れたものだったし、何より抵抗する気力がなくて。
僕は男に歓迎されないまま、この部屋に入ってしまった。
「毛もぼさぼさだし、とても疲れてるみたい」
「うん、それは分かったよ。でもくしゃみが……っくしょん!」
男が派手にくしゃみをした。それを見ながらも「はなさん」は僕を追い出さず、煮干しをもう一個くれた。これもあっという間に僕の胃の中に消える。
「お風呂に入れてあげようか。そしたら、虎のくしゃみもおさまるよ」
「妥協案としてはいまいち」
「はなさん」に連れられ、僕は風呂場に押し込まれ怖ろしい思いをした。水は嫌いなのだ。
けれど、連日歩きっぱなしで疲れていたのもあって、じゃぶじゃぶ洗われてさっぱりはした。ついうっかり安心して、窓辺にもう一度身体を預けられたとき、僕は、ああここを出て行かなくちゃいけないのかなあと思った。
外を見る。死にそうなくらいに暑そうなお天気。そんな僕の心のうちを見透かしたように、「はなさん」は言う。
「涼しくなってから放してあげるのは駄目かなあ」
「駄目、駄目。すぐに放してやらなきゃ。俺の鼻と目のために」
どうやら、「はなさん」は僕をここに置いておきたいようで、「とら」は僕を一刻も早く追い出したいようだ。
ヒトの思惑など知ったことではないので、僕は勝手に「はなさん」に軍配を上げる。
きっとここにいれば、どうにかなる。ここが逃げる場所だったに違いない。もう、あんなつらい目に遭うこともない。
そう、思って、それから、夜が来ても朝が来ても季節が移り変わっても僕は出て行かず。僕はこの家の猫となった。
20150916
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