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 丸いかたちの眼鏡をしている華さんの恋人について。少しだけ語っておこう。
 名を大野さんという。ヒトには苗字と名前があることはもちろん知ってはいるものの、全容は、華さんが「大野さん」としか呼ばないので、知りようもない。
 大野さんは、少し華奢でふつうの、ふつうの格好をしているのに、靴下だけが劇的にださい。なんでそのセーターにその色を選んだの、と聞きたくなるようなだささなんだ。

「トラ、遊んでやる」

 こうして上から目線で、ぱたぱたと棒状の何かを僕の前で振ったりすることに余念がない。僕は、別に全然棒状の何かが動くことなんか興味ないけれど、一ミリも興味なんてないけれど、それでもしょうがないかと一応遊ばれてやっている。
 それを微笑ましく見つめているのが華さんだ。ときにはコーヒーを、ときには紅茶を飲みながら。
 大野さんは、たぶんとても頭がいい。それは、会話の内容がウィットに富んでいるとかではなくて、身なりのせいで僕が勝手にそう思っている節がある。
 とてもいいコートを着ている。あと、いい靴を履いている。だからきっと、いい会社のいい役職とやらを務めているんじゃないのかなあ、と勝手に予想している。それってつまり、頭がいいんだと思う。
 年齢は、二十五歳の華さんよりわずかばかり上だと思う。だから、大野さんって呼ばれているんだと考えている。

「トラ」

 大野さんは、猫を愛しすぎるあまり僕に対して少ししつこい。
 華さんに会いに来ているのだから、華さんと喋っていればいいものを、僕の安眠の邪魔をすることに命を賭けている。はた迷惑な話である。
 ちょっとシャイで、たぶん奥手な男なのだろう、華さんにちょっとでも触れるとすぐ照れる。
 そして何より、煙草の匂いもさせず、香水だって香らせていない。そこは評価すべきところなのになぜだか僕はこの男の匂いが苦手だ。理由については、不明である。
 優しくて、(たぶん)高収入で、穏やかな恋人。ヒトの考えることはよく分からないけれど、これってつまり完璧なんじゃないだろうかって思っている。
 とりあえず生きていくには、ヒトはお金が必要だし、たまに「愛はお金じゃ買えない」と言うやつがいるけれど、僕としては愛はお金で買えるとか買えないの問題じゃなくて、つまり、愛とお金って全然関係のないことなんだ。
 愛があるないとお金があるないは、まったく次元の違う話なのである。ヒトは愛だけで生活するのは難しい。
 話を戻すと、優しくて穏やかで、お金を持っている相手を前にして、不幸でないなんて言えるだろうか。

「大野さん、コーヒー淹れたよ」
「ありがとう」

 けれど不思議なことに華さんは大野さんを愛していないのだ。優しくて穏やかで、お金を持っているのに。
 僕が思うに「トラ」は、優しくて穏やかなやつではなかった気がする。気性が荒いとかではなくて、特別そういった形容詞をつけるには値しない感じの男だった。
 煙草臭かったし、僕に触れることもできない自分の身体を忌忌しく思っていた。そうして、ある日ぽつんと消えた。
 消えた、というのは、僕にとってであって、華さんにとってはそうではなかったのかもしれないけれど。
 集会でみんなは口をそろえて言う、「トラといたときの華さんは、幸せそうだったよなあ」、と。
 たしかに、今華さんは大野さんと一緒にいて満ち足りてはいるものの、幸せそうかと聞かれるとそうでもないかなって思う。
 大野さんが帰ったあとは必ず「おもかげ」を引きずっているし、くちゃりと顔を歪めるし。
 どうして、「トラ」は華さんの元を去ったのか。それは誰も知らない。


20150825
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