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 結婚に向いているヒト、恋愛に向いているヒト、そのどちらも向いている・向いていないヒト。ある視点から見れば、ヒトというのはそんな感じに分類される。
 華さんはちなみに、恋愛には向いているけれど結婚には向いてないと、残念ながら僕は思うのだ。
 だから大野さんとはうまくやれなかったのかもしれない。だって大野さんは、恋愛には向いてなかったけれど結婚には向いていた気がする。
 こういうのに関して猫は鼻が利く。
 夏の始まりというのは、照りつける太陽というのは、おそろしいくらいの静けさがある。これから嵐がくるような気がして、まっさらな青に染まる空を僕は睨みつけるしかできなくなってしまう。
 夏は、僕が生まれて死んだ季節だ。僕はもう、ヒトで言うところの二歳になる。
 この、ヒトで言うところの二歳、という言い回しがすごく嫌いだ。だってヒト主観じゃないか。僕から言わせれば、二年で立派な大人になれる僕ら猫と違って、まだおしゃぶりが手放せないような赤ん坊でいるヒトが信じられない。ヒトは独立が遅すぎる。
 そしてヒトは、大人になったってひとりで歩けない。猫なんかより、ずっとずっと弱い、まろい生き物である。
 まろいから弱いから、僕は華さんのそばにいる。
 最近覚えたのは、散歩コースのそばの家から流れるピアノの旋律。夏の鮮やかな空色によく似合う、雨が落ちるような不思議なメロディのそれを、アルペジオというのだと、あおちゃんはひげを得意げにひくひくさせながら言う。
 アルペジオ。舌触りのいい響きだ。誰もいない路地裏でそっと何度か口の中で転がしてみる。別に誰かが聞いていたとしても、にゃーん、としか聞こえていないのだから別にいいけれど。ちょっと、恥ずかしくて。
 アルペジオは月のかけらのような味がした。

「おかえり、トラ」

 ところで春先かな、華さんの家のドアのそばに、僕専用のドアができた。ヒトが通るドアのそばの壁に取り付けられた小さなドア。押すだけで開く便利なやつ。最近この辺も防犯とか厳しくなってきたし、華さんも大家さんに窓を開け放つなと注意されたみたい。でも、僕は一応分別のある猫なので、華さんがいないときに家を出入りしたりはしないんだけれどなあ。
 華さんは少し痩せた気がする。でも、ヒトってだいたいそうだ。夏になるとちょっと痩せて、冬になるとちょっと戻る。暑いと食欲がないんだってさ。あと、冬は食べ物が美味しいんだって。僕は通年同じフードと煮干しだから、ちょっと分かんないな、そういうの。
 皿にあけられたフードに口をつける。華さんは僕が食べるのを、邪魔するでもなくじっと見ていた。

「ねえ、トラ。あのね」

 空になった皿を僕が鼻先でつついていると、華さんはぽつりと呟く。

「結婚しようと思うの」

 毛繕いをしようとしていたその動きが少し鈍る。僕は足を舐めながら、華さんのほうを見た。

「どう思う?」

 どうして華さんはそんなことを聞くんだろう。
 結婚って、大野さんもいなくなったのに誰とするのだろう。ひとりで結婚というやつができるわけがないことを僕は知っている。
 背中のほうに舌を伸ばしつつも、じっと華さんを見ていると、華さんもこちらをじっと見ている。
 その黒い瞳が何を考えているのかまでは、僕ら猫には分からないし、あんまり分かる必要もないと思っている。でも、華さんはきっと分かってほしいと思っていることくらいは分かる。だって期待で目がしっとりと濡れているような輝きを放っているのだ。
 ヒトってほんとう、自分勝手だ。
 でもだから、僕はずっと華さんに縛りつけられるように、そばにいる。消えた「トラ」の代わりみたいに。


20160917
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