■ ■ ■

 寄せては返すさざなみのような揺さぶられる感覚に、僕はふと目を開いた。
 夜、外に出かけなかった。華さんは相変わらず僕のためにと少しだけ窓を開けてくれていたけれど、そこから、華さんの腕の中から抜け出すのは、心臓のあたりにむず痒い痛みが走ってしまった。
 華さんはひとしきり泣いたあと、僕にぽつりぽつりと喋りかけた。

「わたしどうしたらいいかな」

 猫相手になら何を言っても重荷にならないと思っている。これだからヒトは困る。
 僕を抱き上げて背骨に沿って撫でながら、華さんは要領を得ない話を次から次へと繰り出した。そのうち、リレーのバトンが回ってしまって夜になって、華さんはお風呂に入ってまた僕を抱き上げる。寝室で、僕を抱いたままベッドに横たわり、小さく囁いた。

「トラ」

 僕の名ではない。それは、彼の名だ。
 そのうち華さんは、すっかり眠ってしまう。泣くと疲れるのは、分かる。僕だって、泣いたことはないけれど、泣きたいくらいつらいことがあると、疲れてしまうから。
 でも、だけど、華さんにいい加減教えてあげなくちゃならないことがある。「トラ」はもういなくて、今あなたの傍にいるのは大野さんなんだよと。大野さんに肩入れするわけじゃないが、「トラ」がいないのは、事実なんだ。
 寝入った華さんの横顔をじっと見下ろす。擦った目元が赤く腫れていて、うっすらと開いた口から静かな呼吸が漏れている。
 箱の中身を僕は知らないけれど、でもたぶん華さんがそれを一度も開けないということは、何か見たくないものが入っているのだろう。それが、華さんにどう影響するのか分からないけれど。
 こうして、華さんが寝ている間にも、世界はめぐっている。太陽のバトンがどこかしらでやり取りされて、朝がきて夜がきて、そしてまた朝がくる。
 うっすらと白みだした空を、窓ガラス越しにじとりと睨みつける。もう、バトンが回ってきた。朝はすぐそこ。
 華さんの黒い、肩まである髪の毛がぼんやりと光に包まれて、彼女はようやく目を開ける。

「トラ」

 まだ「トラ」がここにいた頃、僕がこの家に居座りだした頃、華さんはくしゃみを連発する「トラ」に面白がって、こう言った。「この、丸くて可愛い目がそっくりだから、この子もトラって呼ぼうよ」。
 もちろん「トラ」は、唾棄すべきアレルゲンに、自分の名前をつけられるのを嫌がった。なんでよ、もっとほかにあるだろ、なんでよりによって。そう言った。
 でも、華さんが「トラ」と、僕とも「トラ」ともつかないほうを楽しそうに呼んでいるのを見て、ついには諦めたようだった。
 僕は、トラで、「トラ」じゃない。だから、こうして寝惚けた目で名前を呼ばれるとこんなにもつらい。
 なんで、僕は「トラ」でないのだろう。どうして華さんは僕を「トラ」と呼ぶのだろう。

「おなかすいた? ご飯食べる?」

 すっかり目を覚ました華さんが起き上がってキッチンに向かう背中を、じっと見つめる。布団の脱け殻にちらと目をやって、それから追いかける。
 僕は、猫は自由であるべきだと思っている。誰に縛られることもなく、自由に生きるものだと思っている。
 だからあのとき、首輪を引きちぎって逃げてきたのだ。華さんは、僕がいつの間にかここにいついたことを悟っても、首輪を用意したりはしない。それはまるで、僕がいつか「トラ」のようにいなくなることを見越しているかのようだった。
 首輪は窮屈だ。でも、そうやって、惜しみなく愛情を注いでそのくせいつでもドアが開いているのも、厄介だ。
 「トラ」にはきっと、首輪なんかなかったのだ。


20160404
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