鯨との会話
「あれ、今日バイト?」
休日の朝、玄関で靴を履いている俺を見て母親が首を傾げる。最近、外出を避けて引きこもりがちだった俺が朝一で出かけようとしているのを不思議に思ったのだろう。
素直に、そう、と言えればよかったものを正直者な俺は言葉を濁してしまう。すぐにぴんときた様子の母親が、ふうん、と含み笑う。
「……別に、そういうんじゃないから」
「はいはい」
完全に誤解されている。たしかにデートではあるものの、ほんとうにそういうんじゃないのだ。織だし。
「じゃ、行ってきます」
「夕飯は?」
「……たぶん、いらない。また連絡する」
織の中でどういう予定になっているのか分からないため、そう曖昧に答えて家を出た。焼けるような直射日光とアスファルトの照り返し、そして高い湿気に包まれて、蒸し焼きにされているような気持ちになりながら駅まで向かう。
電車に乗ると、強すぎるくらいの冷房が吹きつけて、汗が一気に引いた。ため息をついて、ドアと座席の隙間に身を寄せる。
正直憂鬱だ。流れで、デートすることになったものの、俺は織が運命のつがいだろうが何だろうが絶対に恋人とは認めないし、今日のデートにも全然まったく期待していない。どうせ、変にハイソなとこを連れ回されて価値観の違いを見せつけられるだけなんだろう。
待ち合わせ場所の駅前の日陰に立って時計を確認する。待ち合わせ時間の五分前なので、ちょっと離れて飲み物を買いに行こうか迷っていると、織が現れた。どっちがいい、と悩んでいたうちのどちらかなのだろうふりふりの服に、少し高めのヒールの白いサンダル。ツインテールは編み込みされていつもよりも凝っている。
「琥太郎」
名前のあとにハートマークでもつきそうなくらいに跳ね上がった呼び声に、仏頂面をつくる。
「暑いのに待たせてごめんね、行こう」
手を握られて、日陰から連れ出される。うんざりしながらも、女の子に手を引かれているのはちょっと格好悪い、というプライドから、織の手を握り返して引き寄せる。
「どこ行くの? 俺、なんにもプラン考えてないけど」
「あのね、あたし観たい映画があって」
「なに?」
織がうきうきした気持ちを隠さずに、俺の腕に絡みつく。それから、甘えるような口調で映画の題名を告げる。
「怨霊たちの饗宴」
「……。ごめん、もう一回言って」
「怨霊たちの饗宴」
ホラーだな? そのかわいい甘えたな声と顔で、ホラー映画のタイトルを二回言ったな?
俺の口端が引きつったのを、少女は見逃さない。
「こわいの、嫌い?」
その愛らしい表情が曇ったのに、なんとも言えなくなる。正直ホラー系のテレビの特集とか、映画とかは苦手だ。夏になると増える心霊番組とか滅びればいいと思っているし、何よりおばけや怨霊っていうのは最後まで理由が分からないから駄目だ。でも、そんな格好悪いことを言えない空気だった。
「別に。いいよ、行こう」
努めて何でもないふうを装って、ショッピングビルの映画館に向かう。
というかだ、初デートで映画って、ふつうそういうのって会話の流れで「この映画観たいね」「じゃあ行く?」みたいな感じで決まるものであり、待ち合わせてから「映画に行こう」とはなかなかならないのではないか。人によって好みがある映画なんて、ある意味デートでは地雷じゃないのか。
ビルに入ってから映画館に着いて、チケットを買って席に座るまで、織はずっとおしゃべりしていた。
「あたし、男の子とデートするの初めて! あ、婚約者とのご飯はノーカウントね。あっ見て、今の服かわいい! そういえば琥太郎って、いつも思ってたけど私服が格好いいよね、あたし琥太郎のとなりで浮いてないかな、平気かな? あっ、お金は半分ずつ出そうね、あたしね、真ん前の席がいいな、臨場感が味わえる気がして……。えっ埋まってるの? じゃあ……真ん中の席。そうよね、今人気の邦画ホラーだものね……」
ひとつずつ返事をするのも疲れてきた頃、シアターが暗くなる。織が、スマホの電源を切って黙った。
いくつか宣伝と、映画観賞のマナー喚起の動画が流れて、映画が始まった。
結果から言えば、最初から最後までめちゃくちゃこわかった。パニック系ではなく、邦画らしく、じわじわと真綿で首を絞めるような恐怖だった。カメラワークがずるい。あの、ここに何かあるぞと思わせるような撮り方をしておいて、実際のところそこに何かあるのではなくて予想外のところから何かが出てくるのはほんとうにずるい。
上映中、何度も息を呑み、肘掛けにしがみつき、身体を縮こまらせた。となりの織の様子をうかがう余裕もなかった。
「……琥太郎、だいじょうぶ?」
約二時間に及んだ拷問が終わった。虚脱状態で席に座り込んで膝に肘をついてうなだれ立ち上がれなくなっている俺に、織がおろおろしている。
「苦手だったんなら言ってくれてよかったのに……」
映画をめちゃくちゃ楽しんだらしく、最初に話しかけてきたときは笑顔だったのに、今は泣きそうになっている。なんであのこわい話のあとであんな満面の笑みで話しかけられるんだか理解できないが、俺の挙動で泣きそうになっている織は、ちょっとだけかわいいと思う。
「立てる? どこかで休憩する? 喫茶店とか……」
「……立てる、馬鹿にすんな……」
さすがに腰は抜けていないので、立ち上がってうなだれたまま歩き出す。俺の周りをぴょんぴょんうさぎみたいに跳ねながら心配そうに声をかけてくる織に、一応笑みを浮かべてみる。
「ちょっと今日の夜トイレ行くの、こわいかも」
「そんなの、あたしが一緒についていってあげるわ」
ついてこられるどころか、用を足すのに手を添えてきたりしそうだな。そんなことも考えて、力なくかぶりを振る。
「泊まりのつもりないんだけど」
「えっ……」
「え、なんで当然のように泊まりだと思ってんの」
席の空いていそうな喫茶店やカフェを探しながら、俺はため息をつく。休日とあって、どこもかしこも人でいっぱいだ。どこかに座って冷たいコーヒーを飲みたいのだが。ビルの中を、座れる場所を探してさまよっていると、織は言う。
「でも昨日満月だったのよ」
「だから?」
「満月に近ければ近いほど、危ないのよ?」
織の理論によると、織が近くにいる満月の夜が危ういのであって、満月自体が危ういわけではない。つまり夜になって月が見える前に、俺が彼女と離れればいいだけの話だ。
そう、主張すると、織は目を潤ませた。
「あたしは琥太郎と、ずっと一緒にいたい……」
「ていうか明日早番だから織に付き合ってたら死ぬ」
「だいじょうぶ? シフト変える?」
「おまえ」
何をさらっと、夕飯どうする? くらいのノリで支配人の娘権限持ち出してきているんだ。冗談じゃない。ただでさえ、権力者の愛娘のお手付きということで職場でけっこう腫物扱いを受けているんだぞ。学生バイトやそんなに年の変わらない社員が多いラウンジで、それなりに楽しくやっていたのに。
「シフトは変えないし、今日はあのスイートには行かない」
「じゃあ、どこか別のホテルにする? そうよね、仕事もないのに職場に行くのもね」
「そうじゃない」
うんざりする。織の話の通じなさと言ったら、俺は鯨と会話をしているのではないかって気持ちになってしまう。鯨のほうがもう少し意思疎通できるかも、なんて思いかけたとき、織が不意に握っていた俺の手をほどいた。
「ちょっと、お手洗い行ってくる」
「あ、うん」
軽い足取りでトイレに向かった織を軽く追いかけ、トイレの前の通路で待つことにする。壁に背を預けて手持ち無沙汰にしていると、ふと目の前に影が差した。
「……?」
「ひとり?」
俺も自分のことをまあまあイケてると思うけど、もっとイケてる男が立っている。にっこりと、胡散臭い笑みを浮かべて。なんだか、織と出会って以降、ほんとうにこういうことが増えた。俺はそんなにフェロモンを垂れ流しているのだろうか。
「ひとりじゃない」
「知ってる。さっき連れの女の子がトイレ入ってったよね」
「……それなら」
「あの子、アルファじゃないでしょ? せっかくこんないいフェロモン出してるんだから、有効活用しなよ」
ばりばりに有効活用させられて、バイト上がりの日はそのまま最上階のスイートに連れ去られ好き勝手ずこばこ犯されているんだ、とはとても言えない。
ふ、と織とのセックスを思い出して、じわ、と頬に熱が溜まってしまう。くそ、いまいましい。
そして俺が少しもじもじしたのを、男は自分に都合よくとったらしく、腕を掴んだ。はっとして、離そうと腕を引くが、力を込められてそれは叶わなかった。
「ねえ、あんな子ほっといて、俺とどっか行こうよ」
「行かない」
「とか言ってまんざらでもなさそうな顔してる」
「してない」
ひとけのないトイレ前の通路で、悪質なナンパを止めてくれる人はいない。織が出てくる前に自力で何とかしたい。
「ね、いいホテル知ってるんだ」
ナンパするならもうちょっといい感じに誘ってくれ、いきなりホテルって、ノータリンの猿か。いや猿に失礼だ。
「行かねえっつってんだろ」
「絶対、悪いようにはしないって」
「ふうん、どんなふうになるのかしら」
液体窒素よりも冷たい声がした。遅かった。声のほうを見ると、織が剣呑な目つきを男に投げかけている。しかし、彼のほうも織を見くびっているので一歩も引かない。織を無視してさらに俺に誘いをかけてくる。こういうタイプの人間はみんな、すべて自分の思い通りになると思っている。織も然り。
「その汚い手、離しなさいよ」
「うるせえなあ」
「あたしのつがいに、べたべた触らないで」
「……つがい? この子、オメガだよ?」
織は、まさか自分がアルファだと思われていないとは考えもしないのだろう、分かり切った前提を伝えられて白けた顔をしている。
「そうよ? あたしの大事なつがいよ」
男がようやく勘づいた。ぶしつけに織の下半身を見て、俺のことも意味ありげに見つめる。ふうん、と含みのある吐息で、にやりと口端を持ち上げた。ほんとうに、失礼にもほどがある。
「行くわよ」
一気に機嫌が急降下した織が、俺の腕をとって歩き出す。男は、にやにやと笑ってはいるものの、これ以上追ってくる様子はないようで、片手をポケットに突っ込んで、もう片方の手は俺を送り出すようにゆらゆら揺れている。
「ほんと、失礼しちゃう……あたしの琥太郎にべたべたしておいてあんないけしゃあしゃあと」
「……そもそもおまえのものでもない」
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