愛とは決して「 」
出社すると、デスクでパソコンを開いて電源を入れる。業務を始める前に近くのカフェでテイクアウトしたコーヒーに砂糖を入れて、熱いのを慎重に冷ましてから飲む。ルーティンをこなすと一日がうまくいく気がしているのは、こちらに来てからだ。たとえば、靴を履くときは必ず右からとか、同じ時間にカフェに入って毎日同じコーヒーをテイクアウトするとか。
『おはようカノ。なんかご機嫌だね?』
『おはようワイズ。実は、さっきカフェでボスに会って、仕事ぶりを褒められた』
『ほう。ボスが』
にっこり笑って、それはよかった、という同僚に笑い返し、仕事を始める。
シアトルに移住して二年経ったけど、どうせ異文化なので、ニューヨークにいた頃と心構えは変わらない。二年もいれば、自分の行動範囲にある店にはだいぶ詳しくなったし、顔馴染みも増えた。家族を捨ててきてしまった俺にとって、それは、人のぬくもりはありがたいものだった。
二十七歳にもなって今更、家族が恋しくて泣くなんてことはないんだけど、やはりさみしいものはさみしいのだ。一応、メッセージのやり取りを年に二回くらいしているけど、居場所を伝えていないために会うことはないし、両親や兄たちも、理由を分かっているからしつこく「今どこにいるんだ」とは聞いてこない。
あまりにも日本語を使っていないために、俺は最近、日本語をうまく扱えなくなっていて、もちろん忘れるなんてことはあり得ないけど、難しい漢字とか曖昧だった表現は、絶対忘れてる。
『カノ、今日飲みに行かないか』
『いいね』
同い年で独身の気楽な身同士、ワイズとは気が合う。たびたび飲みに行っては、俺の身の上話なんかもぽつぽつと話したりしている。彼は無理やり聞き出したりしないが、気になっているのだろうことはなんとなく分かる。ここはもう支配人のどうこうできる範囲ではないから、俺もつい喋ってしまう。
今日も、ほどよく酒を入れて気分よく酔っ払ってしまった俺は、織のことをぐちぐちと喋っていた。
『ほんとに、人の話は聞かないし、自分勝手にいろいろ決めちゃうし、……』
『でも好きなんだろ』
『……そうだよ、好きだよ……』
織から離れて、これから先の見通しも立たないで、ずっとぶらぶらと職を転々として、どうするつもりなんだろうか。人生の明確な目標もないまま生きていくのは、心のよりどころがないのは、二十七になった今、想像以上に苦しかった。
伴侶がいるからどうだとかいないからどうだっていう話をしているんじゃない。ただ純粋に、俺にはたしかに織がいたのに、今となりにいないことがつらいのだ。自分から離れたくせに、ひとりになる覚悟も決まっていなかったらしい、笑える。
深酔いしすぎて、ワイズに肩を担がれながら家までの道を歩く。
『ごめん……迷惑かけた』
『いや、この前は俺がこうなったからな、お互い様だろ』
ワイズの肩に寄り掛かり、火照った頬を初秋の甘い風が撫でていく。アパートの前まで来たところで、ワイズが足を止めて俺の顔を覗き込んだ。
『着いたぞ』
『ん……』
『鍵を出せ。二階に上がるから足元気をつけろよ』
もたもたと鞄から鍵を取り出しているうちに、二階のほかの住人が下りてきたらしく階段を駆け下りる軽快な足音がした。
『ふへ、鍵出せない』
『甘えんな、こら』
俺のとなりの部屋の住人である男が、鍵を出そうともたもたしている俺と、それを抱きかかえるようにしているワイズをちらりと見て、通り過ぎていく。なんとか鍵を取り出し、二階に続く階段を、ほとんどワイズに引きずられるようにして上って、そこで彼が足を止めた。
『……ワイズ?』
「琥太郎」
凛と透き通った声。よく通る高い声。俺が五年前に、手放した声。
一気に酔いがさめて、顔を上げる。
『あたしのつがいから離れて、クソ男』
露骨に汚い言葉を使ってワイズを罵った織が、目の前に立っている。あの頃のふわふわしたレースやフリルの服を着ていない、織。五年間で趣味が変わったんだ、背中まであった長い髪はそのままだけどツインテールじゃない。ロゴの入ったTシャツに、デニムのホットパンツ。一瞬、織じゃないと思ってしまいそうになる。でも、織なんだ。
「織、なんでここに……?」
「それはあたしの台詞でしょ?」
声色ですぐ、怒っている、と分かる。キャンバス地のスニーカーを履いた足がつかつかと近寄ってきて、織が手を上げた。
『おい』
ワイズの制止の声も気に留めず、織が俺の頬に、手を当てた。殴られると思って身構えて閉じていた目を、そっと開ける。ひんやりと湿った手が、俺の頬を撫でて甘やかすようにさする。
「……言ったでしょ、琥太郎が嫌がっても離してあげられないって」
「…………でも、織が」
「分かってる。あたしのためだったでしょ? でも、琥太郎全然分かってない」
泣き出しそうだった。織が俺を見つけてくれたこと、結局これで振り出しに戻ってしまったこと、織をまた苦しめてしまう存在になってしまうこと。いろんな感情がないまぜになって、膝の力が抜けた。
『お、っと……』
ワイズが、慌てて俺の身体を支えた。腰に添えられた手を、織が払う。
『触らないでって言ってるでしょ、離しなさいよ』
『そうは言っても……』
「琥太郎、ほら」
手が差し伸ばされて、俺はこの手を取るべきなのかどうか、数秒悩んだ。ほんとうは握りたくてたまらないこの手を取ってしまえば、また織を苦しめる。
俺の苦悩に気づいたのか気づいていないのか、織は焦れたように俺の手を取り、引っ張った。視界がぐらりと揺れて、織に抱き寄せられる。
「あ……」
「鍵貸して」
俺の手から鍵を奪い取り、鍵穴に挿す。ちらりと振り返ると、肩をすくめたワイズがため息をついて俺を見て、首を傾げて手を振った。がんばれよ、と口が動いた気がする。
部屋のドアを開け、電気のスイッチを押し、ベッドルームに連れ込まれる。酒が入っているのと混乱しているので抵抗すらできないでいる俺をベッドに押し倒し、織は俺を驚くほど穏やかな瞳で見下ろした。
「……織」
「琥太郎が、あたしのために離れたのは知ってた」
「……」
「お兄さまに聞いた。あたしが疲れて痩せちゃうの、見たくなかったんだよね」
たぶん、次兄のほうだ。海外に転勤になった長兄にそのことを話した記憶はない。
「織」
「ごめん」
織が、ぽろぽろと泣き出した。俺の頬に、まぶたに、零れ落ちた涙が降りそそぐ。
「琥太郎は全然分かってないけど、あたしも全然分かってなかった。ごめん」
「……」
「でも、あたし言ったでしょ。琥太郎が嫌だって言っても、後悔しても、離してあげらんないんだって」
――愛してるなら、ひとりで考えていても仕方ない。いつか同僚が言っていた言葉が、今ようやくその意味が分かった気がする。俺も織も、自分ひとりで相手のことを考えてしまっていた。相手がいることなのに、ひとりで完結して、それが相手のためになると信じた。
震える手を、織の頬に伸ばす。
「……織、ごめん」
誰が、俺がいなくなってほっとしただろうって? こんなにぼろぼろ泣いて、俺を追いかけてきた女の子が、いつほっとしただろうって?
俺は馬鹿だ。
「琥太郎」
織が俺の額に自分の額を擦りつける。至近距離で見つめられ、涙が押し出されるようにあふれた。
「……もういいよ、認められなくていい。俺、織の愛人でいいからさ……」
とうとう、言ってしまったな、と思う。織が絶対に怒るような思いを告げてしまった。でも、俺は一緒にいられるんなら、周りに認められなくても、結婚できなくても、一生日陰の存在でもいいんだ。
「は?」
織が、怒るでも喚くでもなく、ぽかんとした。
「琥太郎、何言ってるの?」
俺が何を言ったのかが、心底分からないというふうな不思議そうな顔をする。
「一緒にいられるならなんでもいい」
「結婚するわよ」
……。
「え?」
思わずあおむけの身体を肘をついて起こすと、織が唇を重ねてきた。とろん、と気持ちよくなりそうなのを無理やり剥がして、目を合わせる。
「どういう意味?」
「だって、あたしもう未成年じゃないし、結婚くらい勝手にするわよ。誰にも文句言わせないわ」
あっけにとられるが、でもそれって、とすぐに戸惑いが胸を支配する。
「それって……認めてもらうのは諦めたってこと……?」
「うーん、ていうか、話すと微妙に長いんだよね。聞いてくれる?」
頷く。完全に身体を起こしてベッドに座る。土足のままベッドに上がってしまったことに気づいたが、そんなことは明日考えればいいのだ。
「あたし、会社つくった」
「は?」
「パパの仕事とは全然関係ない、ファッションブランドの会社。ちょっと会社を大きくして、本拠地をニューヨークに移してね、あたしも、しばらく前からアメリカで暮らしている。ほんとうは、琥太郎がいなくなってすぐ、お兄さまに聞いて琥太郎がニューヨークに行ったことは知ってた。でも、すぐに追いかけてしまったら意味がないから、あたしは自分の足固めをすることにしたの。誰にも文句を言わせないあたしになるために。まあ、そんなことしてるうちに、見かねたパパには絶縁されたけど」
聞きたいことはいろいろあるけど、最後の一言にすべてが持っていかれた。目を見開くと、織はにっこり笑った。
「あたしもママと同じ道をたどるってだけの話よ。……よく考えたらパパが琥太郎のことを許せなくて認められないのは当たり前よね。自分の妻をオメガの女の子に持っていかれちゃって、娘まで持っていかれるなんてね」
織に、家族を捨てさせてしまった。そのことが頭を占める。俺が逃げ出したせいで、織はいろんなものを捨てなければならなくなった。顔を歪めると、織は俺の頬を撫でた。
「だいじょうぶ、あたし琥太郎を失うくらいなら、死んでやるわ」
にっと笑い、織は、それにね、と穏やかな口調で言う。細い指が俺の髪を梳く。
「琥太郎には分かんないかもしれないけど、あたしは、家族なんて簡単に捨てられる。あの家にいても、物やお金があっても、そんなに幸せじゃなかったから」
俺には分からない、という言葉の意味はすぐに分かった。俺は家族を半ば捨てるかたちになったことを後悔しているからだ。俺と織の中で、家族、に対する気持ちの重さが違うのは当たり前だ、だって別の人間で別の家に生まれたから。
「だからね、琥太郎はなんにも心配しないで、あたしに愛されてて」
「……」
いいんだろうか。織にいろんなものを捨てさせて俺だけがのうのうと愛されて、いいんだろうか。
俺の戸惑いやためらい、思い悩み寄った眉を見て取り、眉間をぐりぐりと人差し指で潰しながら、織は勝気に笑った。
「あたしも、琥太郎に捨ててもらわなくちゃいけないものがあるし」
「……え?」
俺が捨てるもの、それが、今の職場や生活だと分かったときにはもう、織は俺の身体をまさぐって火をつけていた。
駄目だ、だって今の俺は避妊薬を飲んでいない。中で射精されたら、一発で妊娠する。駄目なのに、駄目なのに、でも。
愛撫に身をゆだねながら、妊娠しないという約束だったのに無責任に仕事を辞めてしまう自分を思い描きながら、でも俺が捨てるものなんてやっぱりちっぽけだ、と思う。
辞表の書き方、仕事の引き継ぎ、告げる別れ。それらを思い浮かべながら、俺は、五年ぶりの織の熱に、溺れた。開け放ったカーテンから射し込む月の光は、満月でもなんでもなかった。
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