知ってるんだよ
帰り道、何も言えなくて織の様子をうかがうのもこわくて黙っていると、織がぽつんと言った。
「あたし嫌われちゃったのね」
「っ」
「お兄さま、とってもいい人だった」
「……え?」
織のほうを見ると、彼女はまっすぐ前を見て歩きながら、穏やかな笑顔を浮かべている。すっかり日が暮れて街灯や店のランプがついて、昼間とは街の顔が変わっている。昼間とは違う光が、織の顔に複雑な陰影を落としていた。
「琥太郎のこととっても大事なのね、素敵」
「……織に、嫌な思いさせたかなって……」
「そりゃあ……琥太郎の家族に嫌われちゃうのは悲しいけど……、でも琥太郎が蔑ろにされてるのを見るよりずっとましだわ」
にっこり笑って、織は俺のほうを見た。
「琥太郎が、家族に大切に思われてるって分かって、ちょっとうれしい」
「……織」
「ああいうふうにまじめに思ってくれる人がいるの、ちょっとうらやましい」
ふと、織が父親である支配人とラウンジを訪れたときのことを思い出す。特に不仲とは思わなかったし、むしろ仲がよさそうに見えたが、きっと彼女にもいろいろあるのだ。それに、織があのスイートで暮らしてそろそろ二ヶ月、いや、三ヶ月くらい経つのか、高校生の女の子をそんな長期間あそこに住まわせることを許す親というのは、たしかに少しおかしいかもしれない。
「織、あのさ」
「ん?」
「……いや……」
なんとなく名前を呼んで、どうするつもりだったのか分からない。でもなんだか、すごくさみしそうに見えたから。織の手を取って、俺の手とつなぎ合わせる。
「……琥太郎?」
「……」
何を言ってもふさわしくない気がして、黙ったまま強く握る。織は、俺をまじまじと見つめたあと、小首を傾げてほほえんだ。
そのまま、ふたりで黙ったまま、ホテルに帰ってくる。最上階まで向かうエレベーターの中で、織が口を開く。
「今日は、満月じゃないけど……」
「うん」
「ちょっと、したいな」
「……うん」
ちょっとで終わらないのはこれまでの経験から分かっているんだけど、でも今日は特に、織を甘やかしたかった。最終的に俺がぐずぐずに甘やかされるのは目に見えているのだけど、それでも許したかった。
部屋のドアを閉めて、荷物をソファの上に投げ捨てる。織がベッドルームに向かったのを見届けて、シャワーを浴びるのは野暮なのか、と分かってそのあとを追う。
「なあ、俺汗かいてる」
ベッドに腰かけた織を跨いで片膝をベッドに乗せ、シャツのボタンを外しながら言い訳すると織は笑う。
「今日は琥太郎、積極的」
「……いいだろ、別に」
「うん、いい」
その細い腕のどこにそんな力があるのだろう、と思うくらいの力で引き寄せられて、あっという間にベッドに転がされる。視界がひっくり返るのについていけずに目を閉じて、開くと、織の、今からセックスするとはとても思えないような穏やかな顔があった。
「琥太郎」
「ん」
「ふふ」
頬に羽みたいな軽さで唇が落ちてきて、顔を髪の毛がくすぐる。かすかなリップノイズを立てて、俺の顔中にくちづけが降らされる。くすぐったくて身をよじり、織の背中に腕を回す。
俺は知ってるんだよ、織。織がいつもセックスのとき、うなじを本気で噛まないことを。俺がほんとうに嫌だって、勝手につがいにしてしまうような真似をしないって、知ってるんだよ。
熱に浮かされて俺の首筋を舐めながら、それこそ発情期の猫みたいなため息をつきながら、我慢していること、知ってるんだよ。
最初から俺の意思を尊重してくれていたことは、分かってた。
オメガだと分かってしまってからこの数ヶ月、濃密であっという間で、俺は俺の気持ちの置きどころもよく分からないまま織に翻弄されていたと思っていたけど、そうじゃなかった。織は、さっさと俺のうなじに噛みついて俺をつがいにしてしまうこともできたはずだ。それこそ彼女の性格を考えれば、初夜にでもそうしたはずだ。でもそうしなかったのは、彼女は彼女で俺がひとりの人間だと分かっていたからで、どれだけ身体を好きにしようが最後の一線だけは、俺に委ねてくれているのだ。
「ん……織……」
「かわいい、琥太郎、もっとしてあげる」
奥をこんこんと叩かれて、視界に星が散る。少し前までこんな場所に他人のものを受け入れるなんて考えたこともないけれど、俺の身体はとうに、織に馴染んでしまった。
運命だからなのか。お互いのいいところを、言わなくてもちゃんと分かる。ほんとうに嫌なことや、気持ちいいことは、ちゃんと分かる。
だから織は俺のうなじを噛まない。
何度も何度も、我を忘れてしまうくらいにひどく甘やかされて、ベッドに沈み込む。息が苦しい。身体の奥が痙攣しているような感覚に四肢をひくつかせると、織が優しく頭を撫でた。そのまま、しばらく気まぐれに身体を撫で、キスを落とし、俺の呼吸が落ち着くのを待って、腰を引いた。
「ん……」
「シャワー浴びてくる。ゆっくりしててね」
身体をシーツに投げ出して、とろとろと奥に出された精液が伝い落ちるのを、気持ち悪い、と思いながら放置する。
たぶん、俺が「いいよ」と言わない限り、織は俺のうなじを噛んだりしないだろう。満月の夜の強烈な発情にあてられても我慢しているんだから、その精神力たるや、さすがアルファといったところか。
枕を抱いて横向きに寝返りを打ち、寒い、と思う。少し冷房が効きすぎているのかもしれない。肩まで毛布を引き上げて、けだるくため息をついた。
織はきっと、俺の言葉を待っている。それが自分にどんな感情をもたらすとしても、俺の答えを待っている。
俺が、つがいにはなれない、なりたくないと言ったら。織は泣くだろうか、縋りつくだろうか。この間のように。離してあげらんないのに、と泣くんだろうか。
考えたって仕方ない。そのときがきたら、俺が自分の答えがどうであろうと、織に告げなくてはならないのだから。
「琥太郎……? 寝てるの?」
考え事をしているうちにうとうとしていたらしい。ふと目を開くと織が俺を覗き込んでいる。濡れた髪の毛からしずくがシーツに落ちて染み込んだ。
「お風呂、入っておいで。あったまらないとまた風邪引いちゃうよ」
「うん……」
おもむろに起き上がる。座り込んで少しぼんやりして、ベッドを降りる。伝う白濁のとろみが、太ももから膝まで伸びた。
シャワーを浴びながら、丁寧に掻き出す。最初は抵抗のあったこの行為も、今ではこれをしないと腹具合がよくないのだと気づいたので、仕方ない。織がお湯を溜めていてくれた湯船に浸かり、深いため息をつく。
たぶん、今織はベッドメイキングを頼んでいるから、二、三十分くらいは時間を潰したほうがいい。ゆっくり温まろう。
うと、と湯に浸かりながら船をこぎそうになって、慌てて上がる。洗面所で身体を拭きながら、俺はふとそれに気がついた。
「……?」
洗面所の隅に落ちていたきらりと光るもの。拾い上げると、それは小さなフープピアスだった。
織にピアスの穴は開いていない。俺は片耳に開けているが、俺のものではない。とすると、これは誰の……。
しばらくその銀色の輪を眺め、洗面台に置いた。
服を着て出ると、案の定ベッドメイキングされたベッドにうつぶせに寝そべって、織がタウンガイド誌を見ている。
「あ、ねえ琥太郎。このお店のシナモンフレンチトーストおいしそう、今度行こうよ。あとね、こっちのお店はラクレットが食べられるんだって、…………琥太郎?」
「あ、ああ、うん……」
「どうしたの? 眠たい?」
「うん、そうかも」
雑誌を放り出し、織が間接照明以外の灯りを消した。それから、俺を手招きする。
「おいで」
いざなわれるまま、そちらに向かいながらも、織のとなりに身体を横たえながらも。
なああのピアス誰のだよ、俺以外は部屋に入らせないんじゃなかったのか、あのピアス、男物だろ……。
織を信じていないわけはない。でも、動かぬ証拠のようなものを見てしまって、俺は思ったより動揺していた。でも、何も聞けなくて。明日顔を洗った織がきっと、あのピアスを見つけて何か言ってくれる、誤解を解いてくれる。そう願って目を閉じる。
翌朝、織は何も言わなかった。織のあとに洗面所を使うと、俺がたしかに洗面台の目立つところに置いたはずのピアスは、ゴミ箱に捨てられていた。
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modoru