凍る気持ち


 とある新月の夜。遅番シフトが入っていた俺は、いつものように仕事をしていた。そろそろラストオーダーという時間に、その客はやってきた。
 いかにも金持ち、というふうな派手ななりをして、高そうな装飾品を身に着けて、となりには女が寄り添っている。年齢は四十後半くらいで背が高く、ダンディな顎ひげを蓄えている。

「いらっしゃいませ」

 男が俺をちらりと見て、ふと、女に向けていた下心満載の笑みを消した。なんだ、と思う間もなく浴びせられた言葉に、唖然とする。

「なんでオメガがこんなところで接客をしている?」
「は……」
「ここがどこだか分かっているのか?」

 何を言われたのか一瞬分からなくて、戸惑う。まごついた俺に、男はさらに言葉を浴びせてきた。

「オメガはおとなしくアルファに足を開いていればいいものを」
「……」

 ようやく気づく。オメガ性が差別されているのだということに。頭の奥が真っ赤になって何も言えないでいる俺の耳に次々と届く男からの罵倒。吐きそうだった。
 異変に気づいたチーフマネジャーが飛んできて、俺をいったん下がらせる。同僚の女の子に連れられてバックヤードに引き上げ、椅子に座らされる。

「だいじょうぶ?」
「……」

 思っていた以上のショックを受けたみたいで、彼女の声にすぐに反応できなかった。
 母親がオメガだから、俺はオメガに対して差別的な感情を抱くことはほとんどなかった。せいぜい、オメガやベータよりもアルファが優秀だという逆差別くらいだ。オメガだから能力が劣るのではなく、アルファだから能力が優れるのだと思っていたくらいで。
 今まで接してきたアルファの中で、オメガは劣っている、と思っているやつがいなかったわけではない。でも、オメガ本人に向かってあんな言葉を吐くようなやつはいなかった。
 自分がああいうヘイトにも近い差別の対象であること、そういう差別をたやすく投げつけてくるやつがいること、それを受け取り続けなければならないこれからの人生。それらを思うと、頭がぐらついてまともに立っていられなくなりそうだ。

「……ああいうお客さんはチーフマネジャーが追い出してくれるから、だいじょうぶだよ」
「野本……」
「それに、アルファとかオメガとか関係なく、叶くんはすごく接客丁寧で、ミスもないし、わたしは尊敬してる」

 うなだれて、顔を手で覆う。たぶん、この問題は俺が仕事ができるとかできないっていうものではない。いくら俺が仕事ができようが、ああいうやつはオメガが接客しているというだけで不満なのだ。
 野本はベータだけど、それこそ彼女の細やかな対応とか、客が求めることをきちんと先回りして理解し提供する仕事ぶりは尊敬している。彼女の言う通り、たぶんそれに性は関係ないのだ。でも、同じ対応ができるならどこで差別化を図るかというと、ああいうやつは性で判断する。それに、俺は引っかかってしまったのだ。
 場所柄、ああいう輩が今後来ないとは絶対に言えない。そのたびに俺がこうしてショックを受けていたら仕事にならない。

「ごめん、だいじょうぶ。傷つくだけ無駄だ」
「……」
「ちょっと落ち着いたら、戻るよ」

 水でも飲んで落ち着いて、そうしたら仕事に戻る。そう告げると、不安そうにしながらも野本は一足先に戻っていく。
 洗面台で顔を洗って水滴を拭い、両頬を叩いて気合を入れる。俺はあんな理不尽な罵倒に負けるほど弱くない。だいじょうぶ。
 ホールに戻るとさっきの客はいなくなっていた。ただ、チーフマネジャーから申し訳なさそうな顔で、告げられる。

「しばらくは、来るかもしれない。もともと最上階をよく利用する方で、理不尽なクレームが多いからそろそろ出禁になるんはずなんだけど……まだお互いの弁護士を通して協議中でね……」
「はあ……」

 ぼんやりと、この前の満月の夜に支配人まで出していたクレーマーの話を思い出した。もしかしてあいつか。

「不愉快な思いをさせてごめん」
「いえ……だいじょうぶです」

 こうして気を使ってくれる上司だっただけまだよかったのかもしれない。涙が浮かびそうになったのをこらえ、仕事に戻る。
 ラストオーダーはすでに過ぎていて、あとは残っている客を見送り閉店作業が残っているだけだ。今夜ここに泊まっていくらしい最後のカップル客を送り出し、ラウンジを閉める。
 後片付けをしていると、野本と三宮がそっと近づいてきた。

「だいじょうぶ?」
「うん、平気。ありがとう」

 眉を下げて俺に問いかける野本の背後で、三宮も眉間に皺を寄せている。笑顔で応えると、ほっとしたように野本も笑う。三宮は、俺の笑顔を見てもなんだか納得がいかないようにむすっとした顔をしていたけれど。

「あんなの、客じゃねえよ」
「三宮」
「だいたい何なんだよ、あの金持ち丸出しの嫌味ななりは。品が感じられない。あんなのが同じアルファだって思いたくない」

 ぶちぶちと文句を垂れながらテーブルを掃除する三宮に、野本と顔を見合わせて笑う。よかった、俺の職場、少なくとも仲のいい人にこういうふうに言ってもらえて。それだけで安心する。

「ありがとな、ふたりとも」
「今度あいつ来たら、俺たち判断で追い出そうぜ」

 除菌スプレーを必要以上にスプレーしながら、三宮が鼻息荒くまくしたてる。

「……三宮、おまえいいやつだな」
「今更気づいたか」

 掃除が終わって、締め作業も終わって着替えにロッカーに向かう途中、従業員通路を駆け足で織がやってきた。なんとなく予想していたけど、このタイミングで織には会いたくなかった。なんでって言われても、よく分からないんだけど。すっと、となりを歩いていた三宮が器用に気配を消そうとする。

「琥太郎!」
「……」

 視線だけ向けると、転げるように走ってきて俺の真ん前で止まり、目にきらきらと光るものを携えて縋りついてくる。

「琥太郎、玉城さんのことは、あたしに任せといて、絶対社会的に抹殺してあげる」
「たまき……?」
「あたしの琥太郎に暴言吐きやがったゲス男よ!」

 あの金持ちアルファ、たまきっていう名前なのか。
 というか、織には関係ないし、彼女が首を突っ込むと余計面倒なことになりそうなんだが。うんざりして睨みつけるのだが、案の定織には効果が塵ほどもないのである。

「……いいよ、別に。織がでしゃばる話じゃないだろ」
「何言ってるの? あたしのつがいを傷つけておいてただで済むと思ってほしくないわ」

 つがい。その言葉が、疲れた心に重たくのしかかる。どれだけ言っても織には分からない。俺にとって「つがい」という言葉は運命じゃなくて呪いにしか聞こえないこと、その言葉を織が口にするたびに織が見ているのは俺自身ではないと思い知らされること。
 運命のつがいが織にとって大切なのなら、それがたとえば俺じゃなかったとしても織は受け入れた。俺は、織の、運命でしかないのだ。そうでなければ見向きもされない。
 それが、俺が織に抱いている気持ちがどうであれどれほど苛立つことか、きっと彼女には一生分からない。

「もういい加減にしてくれ」
「琥太郎?」
「おまえと違って俺は運命に振り回されるのはごめんだし、それを盾にして織が好き勝手するのも許せない。俺が今日受けた差別は俺の問題だし、おまえが出てきたら話がややこしくなることすら分からないのか? もういいだろ、俺は、もうおまえの思い通りにはならないし、自分のつがいくらい自分で探す」

 しゃべりながら、そう言えばと思い出す。
 そういえば、アルファ相手じゃないともう子孫を残せないと思ったけれど、きっとそんなことはない。俺が異性愛者だからそう思ってしまっただけで、たぶん俺がオメガの女の子を妊娠させることだって可能だ。

「……俺は、織である必要性なんてこれっぽちも感じない」
「…………」

 果たして、オメガの俺の子をほしいと思ってくれるオメガの女がいるかどうかは疑問だが、道がないわけじゃない。織じゃなくてもアルファの女もたくさんいるのだし。

「もう、俺に近づくな」
「お、おい、叶」

 気配を消そうとがんばっていた三宮が、控えめに制止の声をかける。でも、自分でも思った以上に気が立っていたところに、火に油をそそぐように畳みかけてきた織に、苛立ちはピークだった。

「分かったらとっとと消えてくれ」

 織の細い指が俺の腕に触れたのを、振り払った。返事を聞かないままロッカールームのドアを開けて中に入った俺に続いて、三宮が入ってくる。ドアが閉まる前に、小さな声で俺の名前がささやかれたけれど、織の顔を見る勇気はなかった。

「叶、言いすぎだろ、まずいよ」
「何が」
「支配人の娘だぞ、おまえ首になったり……」

 ため息をつくと、三宮が一瞬ひるんだが、それでもまだ言ってくる。

「俺、おまえと働けなくなるのやだよ」
「首にはならないよ」
「なんで」
「支配人は、俺に織がかかわることを困ってるくらいだったから」

 黙り込んだ三宮に、特にこれ以上内情を話してしまう必要はないかなと思って着替え始める。
 どうせ織が引き下がるとは思わない。俺も、いつまでもこの苛立ちが続くような気はしていないし、お互い少し頭を冷やすにはいい時間だ。引き下がられたら、それはそれまでだったというだけの話だし。

「じゃあ、またな」
「……おう」

 着替え終えてロッカールームのドアを開けて廊下に出る。織の姿は、すでになかった。一瞬、待っているかもと思った自分に気がついて、首を振ってその妄想を払う。
 帰り、家までの道を歩きながら、今更になって織をずいぶん傷つけたかもしれないという後悔がわいてくる。間違ったことは言っていないけど、織は運命を大事にしている。人の大事なものを踏みにじってしまったのは、ほかでもない俺だ。恋愛やそれらの感情からじゃなく、運命のつがいというシステムのせいでも、織は俺のことについて腹を立ててくれていたのに、それをむげにした。
 心が波立っていたからって、十七歳の女の子に大人げないことをしたよな。

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