独占欲が満たされない


 新入りの下らん粗相で怪我をした自分の右腕を見舞うことがそんなにおかしいか。
 晴市がそう嗤うと、宇藤はベッドの上で居住まいを正し、いいえそんなことは、と殊勝な返事をした。それに満足した晴市は、見舞いの品だ、と長三の茶封筒を彼に押しつける。
 宇藤が中身を検めると、そこには粗相をした新入りのなれの果ての姿を克明に写した写真と、コンビニでも買える銘柄の煙草に百円ライターが入っている。

「ボス、これは」
「入院は何かと暇だろ、それを肴にヤニでも吸ってろ」
「……病室は禁煙ですよ」
「そうかよ」

 晴市の手が煙草とライターを奪う。そのまま用事は済んだと言わんばかりに病室を出て行く背中を見やり、手元に残された新入りの惨殺死体写真を手に、宇藤は額を押さえため息をついた。
 春色の風が吹き抜けてゆく。
 病院の中庭に設置されたベンチに腰かけて、晴市は宇藤から取り上げた煙草の箱を開けた。一本咥え、ライターを持ち手をかざしたとき、声をかけられる。

「ごめんなさい、敷地内は禁煙なんです」
「…………」

 伏せていた顔を上げると、ナース服に紺色のカーディガンを着た細身の女が、申し訳なさそうに突っ立っている。
 たっぷりと黙ったあとで、晴市は舌打ちして煙草とライターをジャケットの胸ポケットにしまった。
 女が、安堵の表情を顔に乗せる。
 幸せに羽が生えて逃げていきそうな顔をしていやがる、と晴市は思った。
 困ったように垂れた薄い眉に、物憂げに潤んだアーモンド形の瞳、ちょいと摘まんだような小さな鼻とその下の色のない薄い唇。細い顎を支える首も細く長く、勤務中だからだろうか、結い上げて団子にした髪の毛は、明るい茶色だった。

「お見舞いの方ですか?」

 晴市が渋々身に着けていた見舞いバッチに視線を流し、女がふわりとほほえむ。

「ああ、馬鹿がヘマしたせいで、輸血が必要になった部下がいてね」
「……そうなんですか、お大事になさってくださいね」
「あんたは仕事中だろ、こんなとこで油売ってていいのか」
「お昼休憩なんです」

 ふと視線を落とすと、細い足がナースシューズに包まれていて、小さい足だ、と靴のサイズを値踏みしてしまう。
 全体的に小柄な女だ。その骨や肉の薄さたるや、晴市のそれの半分しかないのではないかと思うくらい。
 それにしても、と思う。
 晴市は自分が少々、女子供から怖がられる容姿をしている自覚があった。目尻こそ優しげに垂れているが、体格も立派だし身長も高い。数多の命の断末魔の瞬間を捉えてきたその眼光は、誰がどう見ても堅気には見えない自負がある。
 女の胸元を見る。名札に、西田、と記されている。

「西田さん」
「ええ、はい」
「俺が怖くねェのか」
「……?」

 女は首を傾げ、晴市のとなりの空いたスペースに座る。思わず眉を寄せれば、彼女は手にしていた弁当の袋を少し持ち上げて、それからベンチを示した。

「日当たりがいいでしょう」
「……」
「毎日ここでお昼を食べているんです」
「……んなこたあ聞いてねえよ」

 会話がうまくはまらないことに苛立ちを隠さず、晴市は舌打ちした。しかし女は怖がらない。訝しくなって目を細めると、彼女が儚げに笑う。

「もしかしたら、あなたは怖い人なのかもしれませんが……、私を頭ごなしに怒鳴ったりはしないでしょう」
「……ア?」
「暴力で服従させようとしたり、脅迫して屈服させようとしたりしないでしょう」
「……」

 する、とは到底言えない。もちろん、今しがた出会ったばかりのこんなか弱そうな女にはしないが。
 ただその口ぶりが気になった。どう控えめに推測しても、この女は今までに頭ごなしに怒鳴られたり、暴力や脅迫により危うい立場に置かれたことがあるのだ。
 その手の男と交際しているのか、と思うが、晴市にはこの女がまだ成人しているようには見えなかった。

「……男か?」
「え?」
「まあ、いかにもそういうダメなクソ野郎を引っかけそうな顔してるよ」
「……どういう意味ですか?」

 不思議そうに眉をひそめた女に、晴市は嘲るように笑みを浮かべる。

「男の支配欲を煽る顔してる。俺がいないとこの女は不幸になる、って男に思わせる顔してンだよ」
「……褒めて……いないですよね?」
「どうだかな」

 鼻で笑うと女は少々むっとしたように表情を歪めたが、すぐに困ったような顔になる。

「でも……そうですね……、同じようなことを言われたことはあります」

 その顔だ、と思う。その顔が、俺の独占欲を、支配欲を煽り立てるんだ。
 立ち上がり、晴市は女を見下ろして呟いた。

「あんたここの看護師か?」
「いえ、総合受付の、事務員です」
「なるほどね、じゃあ、受付に行けばいつでもあんたに会えるわけだ」

 女が、きょとんと首を傾げた。

「会ってどうするんですか?」
「そりゃ、口説くんだよ」
「……え?」

 色事に関して物分かりの悪い女は嫌いじゃない。遊び慣れてこなれた手合いより、初心な反応を返されたほうが燃えるというものだ。
 一瞬の間があって、女は白い透き通るような頬を赤く染めた。その反応に満足して、晴市は病室で退屈しているだろう右腕のことを考える。
 この見舞いバッチは不格好だが、その退屈を埋めてやってもいい。

 ◆◆◆

 結局、晴市は仕事中の彼女に茶々を入れるような真似はしなかった。
 真面目に宇藤の病室に顔を出し、昼休みは交代制らしく現れる時間がまちまちな彼女を、中庭のあのベンチで煙草も吸わずにスマートフォンで部下に指示を出しながら待つ。

「瀬戸さん、今日もいらしたんですね」
「よぉ、亜里香」
「瀬戸さんにこんなふうに献身的に見舞っていただけるなんて、部下の方は幸せですね」

 幸せ、ね。
 晴市が健気に病室に足を運ぶ理由を知った宇藤に、馬鹿にしたようにため息をつかれたのだ。「相手は堅気の女ですよ、正気ですか」と釘を刺すことも忘れない、出来た右腕だ。
 わりと早い時期に、晴市は自分の身分を明かした。自分は恫喝や暴力で他人を支配するようなタイプの人間であると告げてある。
 それでも亜里香は、晴市を拒絶しなかった。

「瀬戸さんは、少し不思議な方です」
「……?」
「私、あまりお喋りなほうではないんですが」
「ああ」
「なんだか瀬戸さんには喋ってしまいます」

 亜里香の、鈴の音のような儚く細い、けれど芯のしっかりとした声は鼓膜にやわらかく馴染む。
 この女を庇護下に置いて支配したい気持ちは変わり映えしないものの、思慮深い性格や軸のぶれない強い意志など、深く知れば知るほどに、優しく甘やかしたい気持ちが芽生えてくるのだ。
 明日、宇藤が退院する。

「なあ、亜里香」
「はい」
「俺は見ての通り堅気ではねえし、ろくな生き方をしちゃいない」

 肯定も否定もせず、亜里香は黙って聞いている。

「俺の女にならねえか」

 宇藤が、部下が見ていたら、目を見開き顎が外れるほど口を開き、頬を引きつらせたろう。それほど、自分が優しい顔をしている自覚があった。
 亜里香は、少しだけ沈黙を守り、それから、たおやかな風に乗せるように囁いた。

「……うれしいです」

 さびしげな、いつも何かを憂いているような表情が、花の蕾が綻ぶようにほぐれ、やわらかな笑顔に変わる。
 可憐なそのほほえみに心奪われた晴市は、周囲に人がいるだとか、そういうことを気にせずに、吸い寄せられるように顔を近づけた。
 幸い、人の気配がなかったことに気づいたのは、亜里香が晴市の唇を受け入れたあとだった。

「ここに、いつでもかけてこい」

 表立って使っている名刺の裏に、亜里香からボールペンを借りて、プライベートの番号を書き記す。名刺を受け取った亜里香は、それがとても大切なものであるかのように、両手の指でつまんだ。
 あ、これは駄目だ、溺れる。

「……お前、土日は仕事がないだろ?」
「え、はい」
「毎週金曜、逢い引きといこうぜ」
「……あ」

 亜里香が、何かに気づいたように、あ、と声を上げる。なんだ、と眉を上げるが、彼女はそれ以上何も言わなかった。

 ◆◆◆

 晴市としては、亜里香が掌中に落ちてきてくれたのだと思い込んでいたのだが、数度の逢い引きを経たのちに、どうやらそうではないらしいことを理解した。
 亜里香は、あのとき「うれしい」と言ったくせに、それほど晴市のことを好きではないようだったのだ。
 晴市の行動に一切口を出さず、何が食いたいどこに行きたいなどの問いかけには答えるものの、彼女の口から放たれる「好き」は随分とあっさりしている。
 逢瀬を重ねるごとに浮き彫りになる認識や恋の熱量の違いに、晴市は思い悩むこととなり、すっかり完治した宇藤に「ボスは色事に関しては詰めが甘いんだな」と馬鹿にされる始末である。

「晴市さん、これとっても美味しい」
「そうかよ、じゃあもっと食え」

 目の前でフレンチのディナーに舌鼓を打つ女を、晴市は片頬杖をついてやわらかく見つめた。
 亜里香が好きでもない男に処女を捧げるような尻の軽い女だとは思いたくはない、が、初めて会ったときに、彼女に無体をはたらく男がいると暗に告げられたのも事実だ。
 その男からは純潔を守ったようではあるが、もしかしたら心は踏み荒らされたのかもしれない。
 じわりと、晴市の感情が波立つ。そんな胸裏を露とも知らず、目の前の愛する女はポワレを口に入れて噛み締め、幸せそうな顔をした。

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