酔わせてほしいの
会えない夜は、決まって少し遠回りをして帰る。
つまり、月曜から木曜まで、亜里香はずっと遠回りだ。たまに、金曜も。
金曜に会えない時は少し湿った気持ちで、私の誕生日が土曜だったように七分の一の誰かが誕生日なのかもしれないと考える。
彼は、晴市は、仕事が立て込んでいた、と一言次の金曜に言うけれど。特に何の感慨もなくそう言うので、ああ彼は私と会えなかったくらいで日々を取り零すことのない人なのだ、と改めて思い知る。
亜里香は会えない金曜に慣れない酒を飲むのに。
「アリちゃん今日はデートじゃないんだね」
「……えっと……?」
「だって金曜はだいたい、きれいなお洋服着て帰るじゃない?」
同時刻に退勤する年上の同僚にそうからかわれ指摘され、亜里香は頬を染める。
他人の着替えなど見ていないようで意外と、人は見ているのだ。なんと言ったらいいか分からなくて、亜里香は口ごもった。
「今日は予定ないの? じゃあ、ちょっとごはん付き合ってよ」
「え? でも、阿川さんこそ予定があるんじゃ……」
「ないから誘ってるの!」
気さくでいい人だと思う。今日は晴市に会えないし、どうせコンビニでアルコール度数の低い酒を買って家で飲むだけなのだから、と頷いた。
シャツとスカートに着替え、コートをはおりロッカーを出る。阿川の私服は少々スカートが短かった。
◆◆◆
アリちゃんってもうハタチ過ぎたんだっけ、過ぎたよね? じゃああたしのオススメの居酒屋に行こうよ、アジアン系大丈夫? お酒が安いんだよね〜。
病院の最寄り駅から乗り換えて根岸線の磯子駅で降りるまで、阿川はずっと喋っていた。
もともと亜里香はお喋りなほうではないので、相手が気まずさを感じないのなら黙ってくれていても良いが、喋るのが好きな相手でも支障はない。
晴市は、お喋り、というわけではないし亜里香のことを聞きたがるが、聞き上手なのか、寡黙な自覚がある亜里香でもつい喋ってしまう、と思いながら阿川の話に応え相槌を打つ。
「ここ、ここ」
ふつうの、住宅街のような街並み、マンションの一階部分に何軒か並んでいる店のひとつだった。インド人がやっているカレー屋のようなたたずまいに、店員が日本人じゃなさそうだ、と思いながら、ふたりしてドアをくぐる。
案の定迎えてくれた店員は、日本人ではなかったが、感じのよさそうな人だった。
「まずは、何飲む?」
「……私あんまり、まだ飲み慣れてなくて……弱いのがいいです」
「なるほど。パクチーのサワーとかは?」
「へえ、珍しい……」
特に嫌いなものがない。パクチーは好き嫌いが分かれる食品だという認識はあるが、まったく問題なく食べている。飲み物になったらどんな具合だろう、とパクチーとライムのサワーを頼んだ。
いくつか料理も頼み、やってきた酒で乾杯する。
「ねえ、彼氏ってどんな人?」
「えっ?」
「金曜はいつもは、その人とデートなんでしょ? ずっと気になってたけど……アリちゃんあんまり自分のこと話さないし、ランチも交代制だからなかなか時間かぶんなくて聞けなくて」
晴市は彼氏ではない。亜里香は晴市の情婦なのだ。
しかし、期待で目をきらきらさせている阿川にそんなことを告白するのはとても残酷な気がしたし、ここは晴市には悪いが彼氏の体で話を進めるのが吉と見える。
なるほどこんな味がするのか、とまあまあ好感触のサワーで唇を濡らし、亜里香は口を開いた。
「……背が高くて、格好良くて、スーツがよく似合う人。いつもいろんなところに連れて行ってくれて、私のわがままを悪態つきながら聞いてくれます」
「へえ〜! なんのお仕事してるの?」
「…………」
亜里香は、首を傾げた。
晴市はいったい、何の仕事をしているのだろう? 裏社会というものがいまいち分かっていない亜里香は、彼が何をしているのかまでは理解できなかった。
「え、知らないの?」
「……うーんと……、たぶん、たぶんどこかの会社のえらい人なんだと、思うんですけど……」
「社長とか?」
「うーん……たぶん……」
亜里香に、ほかの女に、あんなに惜しみなく金を使っているのだ、当然稼ぎはあるのだろう。
晴市のことを、亜里香は何も知らない。そのことに少々ショックを受けていると、阿川は追加で質問してきた。
「何歳?」
「……たしか今年で二十九歳に……」
「芸能人で言うと誰に似てる?」
「えっ」
あまりテレビの世界に興味のない亜里香は、知識が乏しい中でも記憶している俳優やタレントの顔を思い浮かべながら、焦る。
晴市の顔を思い浮かべてみるものの、雰囲気が合致する男がいないのだ。
「……ぱっと浮かばないけど、イケメンとか美形って言うよりは、男前、って感じです」
「写真ないの?」
「ないです」
「ええ……」
いろいろと質問してくるわりには、阿川との会話は不愉快ではなかった。
それはひとえに、彼女が一線を越えてくる気配がないからなのだろう。亜里香が少しでも嫌がるそぶりや答えづらい雰囲気を醸せばそれ以上は踏み込んでこないからだろう。
学生時代の友人とも最近会えていなかったので、亜里香にとって阿川との食事は久しぶりの女子会となった。阿川は晴市と同様聞き上手で、さらに話し上手で、亜里香は少し羽目を外してしまった。
つまり、飲みすぎたのだ。
「アリちゃん、大丈夫?」
「ん……平気です……」
「アリちゃんの家ってここから近いんだっけ」
「私戸塚……」
「近くはないなあ……」
磯子駅まで戻ってきて、阿川は少し困ったように首を傾げた。
「飲ませすぎちゃったなあ……ごめんね」
「いいえ、私が自分で飲んだから……」
「ひとり暮らし? 誰か迎えに来てくれる人とか……」
「いないです……」
ふわふわ、を通り越してぐらぐらしてきた頭を持て余し、亜里香は、戸塚駅から徒歩十五分の自宅のことを考えた。店から駅まで歩くのがすでに少しつらかったのに、こんなことで家に帰れるだろうか。
そういえば今何時だろう……とスマートフォンを取り出し時間を見ようとしたところで、亜里香はそれに気がついて、火照った顔を一気に真っ青にした。
「どしたの?」
「電話忘れてた……」
「え?」
晴市からの着信が三件入っていた。毎晩、家に帰ったら連絡することと言いつけられていたのをすっかり忘れ、今日は外で食事をすると伝えることも忘れ、すでに今の時間は二十二時近い。
寄り道して帰っても遅くとも八時には、亜里香は家に着いている、通常なら。着信は、八時過ぎ、九時過ぎ、九時半過ぎに入っている。
慌てて、かけ直す。ワンコールで即座につながったことが、亜里香をますます焦らせる。
『亜里香』
「ご、ごめんなさい、伝えるのをすっかり忘れていて……職場の人と、食事に行っていたんです、ごめんなさい」
『……お前、酔ってんのか?』
若干呂律が回らなくなっている口調を突かれ、亜里香は黙る。晴市は、少し黙り込んだあとで、今どこだ、と低い声で囁いた。
「磯子駅です……」
『迎えに行く。動くな』
「えっでも」
通話は切れてしまった。おろおろしている亜里香に、阿川が声をかける。
「彼氏?」
「あ、えと、はい……」
「なんて?」
「迎えに行くから動くなって……」
「うわ、助かった〜! この状態のアリちゃん置いてくの、怖かったもん」
彼氏が来るまでは、あたしが一緒にいてあげるからね、と言われ、自分が限界を超えて飲んでしまったのに、厚意を向けてくれる阿川や晴市に、申し訳なくなる。
それに、今日会えなかったということは晴市は仕事かほかの女と会っているのだろうに、迷惑をかけてしまった。
待つこと二十分、タクシー乗り場に晴市の車が滑り込んできた。降りてきた晴市が、辺りを見回して亜里香の姿を探している。
「晴市さん」
「……随分飲んだな」
「ごめんなさい」
ふらふらと駆け寄ると、腰を抱き寄せられて、熱い額に口づけられる。
「じゃあ、阿川さん、また来週」
「あ、うん……」
晴市がちらりと阿川のほうに視線を投げたが、亜里香を腕に抱いている状態で言葉を交わすことはしなかった。阿川に背を向けて、助手席に乗り込む。
運転席に座った晴市が、深いため息をつく。
「外で飲むなとは言わねえ。ただ、力量をわきまえろ」
「楽しくって、つい……ごめんなさい……」
「……ここからだとトリアノンか……?」
「え?」
「チッ」
舌打ちして車を発進させる。聞き取れなかった亜里香は、え、と問いかけた。
「仕事は片付いた。泊まっていくだろ」
「……でも」
「泊まっていくだろ」
「……」
これは問いかけではない、決定事項だ。酒が回ってぼうっとする頭でそう理解した亜里香は、頷いた。
◆◆◆
そして月曜。亜里香は朝からロッカー室で阿川に捕まっていた。
「すごい男前だったね、彼氏!」
「……ありがとうございます」
「無事に帰れた? って、まあ、心配する必要もないか」
「ええ、まあ」
実際には、彼にしては安価なホテルの一室でひどく甘く抱き潰されて無事ではなかったのだが、そんなことは阿川に伝える必要のないことである。
着替えながら、阿川は興奮したように晴市のことを語っていたが、ふと、首を傾げた。
「あたし、あんな男前なら絶対忘れない自信があるんだけど、なんでだろ、どこかで会った記憶があるようなないような?」
「…………」
そりゃあ、少し前まで彼はこの病院の常連だったから。
とは言わず、亜里香は曖昧にほほえんで、シャツを脱いだ。
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