先輩としてのお仕事

 とある放課後、あたしは不名誉なことに数学の小テストで見事クラス最下位を飾り、プリントを二枚も渡されて、終わるまで帰ってはいけない刑を言い渡された。逃げられないように職員室の隣の空き教室でやらされている。そこまでしなくても、別に逃げたりしないのに。
こんなことがお母さんにばれたらなんて言われるか。とほほ、と思いつつ空欄を黙々と埋めていると、廊下の向こうから足音がした。それはだんだん近づいてきて、隣の職員室に入っていく。たぶん、さっきから数度あるそれは部活で残っている生徒が顧問などに用があるためだ。正直なところ集中できない。
 そしてプリントが難しくて唸る。職員室に行って先生のヘルプを借りるべきか。と悶々としていると、ドアががらりと開いた。

「先生ここ使っても……あれ?」
「……げっ」

 制服姿の早坂先輩が大量のプリントを抱えてそこにいた。少し怪訝そうに眉を寄せた先輩が近づいてくる。

「お前、何してんだ」
「……先輩には関係ないです」
「数学?」

 無遠慮にあたしの座る机の手前までやってきて、手元を覗き込まれる。一番見られたくない人に恥ずかしいところを見られた気分で、あたしは慌てて両腕でプリントを隠した。
 ああ、でも吉川さんに見られるよりはましかもしれない。吉川さんなんかに見つかった日にはきっと、学生さんは大変だなあ、とか年上らしくもっともらしく言うんだ。それは悔しい。
 そんなことをもじもじと考えていると、抱えていたプリントをあたしの座る机の横の机に置いた早坂先輩がため息をついてあたしの腕の隙間を指差した。

「ここ。計算間違ってるから証明できないんだよ」
「えっ?」

 早坂先輩の指の先を見ると、たしかに単純な計算ミスを犯していた。慌てて消しゴムでそこを消して書き直す。そうすると、計算が合ったことで式がうまく成立した。なんだ、公式を間違えていたわけじゃないんだ。

「あとここ、解の公式違う。マイナスをつけないと計算合うはずないだろ」
「あれ……」

 見直すと、たしかにそうだ。ほかのところはきちんと公式を使えているのに、ここだけマイナスをつけ忘れている。
 早坂先輩が、椅子を引いてきてあたしの机の手前に座った。きょとんとしていると、先輩がやれやれと言うような顔で机に頬杖をつく。

「ほかに分かんないところあるか?」
「……」

 これは何かの策略だろうか。

「お前今失礼なことを考えたな」
「別に……」

 図星なので何も言うまい。早坂先輩は、大量のプリントを分けてホッチキスで留めながら、あたしのプリントにも目を通す。

「計算は間違ってないんだけど、うーんなんだろ、なんか、要領悪いな」
「……」

 図星なので何にも言えない。文系だから、とか言い訳するわけではないんだけど、数式に関するセンスというものがあたしには備わってない。早坂先輩はコツと言うほどでもないけど、と前置きしてコツのようなものを教えてくれた。
 先輩がホッチキスで全部プリントを処理したのとほぼ同時くらいに、あたしの居残りプリントの解答欄がすべて埋まった。

「あの」
「ん?」
「……ありがとうございました」

 悔しいが、早坂先輩のおかげでなんとかなった部分が大きいのでお礼は欠かさない。そこまであたしは無神経ではない。

「はあ?」

 まさかお礼を言われるとは思ってもいませんでした、と言わんばかりの顔をしている。なんだ、あたしがお礼を言うのはそんなに滑稽か。少々むっとしながらも、もう一度はっきりと言う。

「教えてくれて、ありがとうございました」
「……べ、別に暇だったからだし!」
「そうですか……?」
「お前、もう旧校舎行くなよ」
「えっ、あっ」

 早坂先輩はそそくさとプリントをまとめて立ち上がって行ってしまう。暇、ではなかったよね。プリントまとめていたよね。
 変なの、と思いつつ、あたしも立ち上がり、先生に提出すべく教室を出る。早坂先輩はどうやら生徒会室に向かうらしい、そちらの方面に背中がぼんやり見えていた。その背中にいーっと舌を出して、最後のご忠告は無視することに決めた。



 そして今日も今日とて、完全に早坂先輩に目をつけられたあたしは、捕まって説教されている。
 廊下でぐだぐだと、風紀、倫理、品位、鷹宮学園の生徒としてのナンチャラ、淫行、とくだを巻かれているあたし、傍目に見ても絶対超可哀相だ。
 早坂先輩を、格好いい、と言っていたみこちゃんですらちょっと引いている。テレビの中のアイドルは性格が極悪人でもバラエティで笑顔ならそれでいいけど、身近なアイドルはそうもいかない。

「おい、聞いてんのか」
「聞いてません」

 ぶすっとしてそう答えると、早坂先輩はますます苛立ったように畳みかけてきた。
 あたしがそちらの思い通りにならないのでイライラするのはようく分かりますけれども、あたしだってイライラしているんだぞ!

「だいたい、あんな年上の人を恋愛対象にするなんてな……」

 その一言で、あたしの堪忍袋の緒がぷちっと切れた。

「なんですか! 人の気持ちを風紀とかそんなくだらないもので踏みにじって!」
「なっ」
「恋したことないくせに!」
「えっ」

 あたしの反撃に、早坂先輩がびくっと肩を揺らして口をつぐんだ。

「ははーん、図星ですかあ? どうせその堅物な性格のせいで今まで女の子に相手にされなかったんでしょ? ははーん、あたしのこと羨ましいんだ〜」
「な、なっ」
「恋愛感情知ってからそういうえらそうなこと言ってくださいよね! じゃっ、あたし吉川さんにお弁当渡すので、さよなら!」
「ちょ、まっ」

 言ってやった。言いたい放題の早坂先輩に言い返してやった。これでちょっとは溜飲が下がったし、あの人も少しは懲り……ないだろうな、どうせまたなんだかんだ難癖をつけてくるのだろうな。
 唖然とした顔で廊下に立ち尽くす早坂先輩を置いて、あたしは小走りで旧校舎に向かう。
 と、その道すがら吉川さんの姿を発見する。どうやら本校舎に用事があった帰りらしい。

「吉川さん!」
「ん? ああ、お嬢ちゃん」

 突撃してとなりに並ぶも、反応が少々鈍い。

「今日は、特製ミートボールです!」
「ああ、うん……」
「……? 吉川さん、どこかお具合悪いのですか?」
「いや、別に」

 なんだか様子がおかしい。吉川さんがぐだぐだと煮え切らないのはいつものことだけど、今日はなんだかそういうのじゃなくて、あえて表現するなれば覇気がない。いや、ううん、いつも覇気に満ち満ちているかと聞かれたら全然そのようなことはないのだけども……。

「お嬢ちゃん、さあ」
「宮本新です」
「あの、英語の先生いるだろ」
「ん?」

 自己紹介が華麗にスルーされるのはいつものことなので、もう今更言及しない。はて、英語の先生とな。

「ええと、英語の先生はいっぱいいるんですけど」
「女の、わりと若い先生」
「熊野先生ですか?」
「いや、名前知らないんだけど」
「英語の女教師は熊野先生だけだと思います」
「おんなきょうし……っていう言い方……」
「え?」
「いや」

 若い女教師、という点で、あたしのアンテナがぴこっと反応する。

「まさか吉川さん……」
「え?」
「だっ、駄目ですよ!」
「何が?」
「熊野先生はもうすぐ産休に入るんです! いくらなんでも妊婦は駄目です!」
「何の話?」
「えっ!? 吉川さんが職員室で熊野先生に惚れて口説き落とそうと……」
「アホか!」

 すこーん! と吉川さんのチョップが気持ちよくあたしの頭上に決まる。地味に痛いし、ショックだしで涙目になったあたしを見て、吉川さんがあたふたしだした。

「あ、ごめん、手を上げるつもりはまったく……」
「うっ……吉川さん駄目です……」
「だっから、そういうのじゃないって」
「じゃあどういうのですかあああ」

 半泣きで吉川さんの作業着の襟を掴んで揺さぶるあたしは最高にウザい。そんなことは分かっている。だがしかしほかにどうすればいいと言うのか。弱り切った顔で、吉川さんが自分の作業着を鷲掴みにしているあたしの手首を握った。

「いや、あの、その熊野先生? が、お嬢ちゃんのことを話してて」
「えっ」
「落ち着きはないけど、いい子ですねって笑ってたよ」

 熊野先生、そんなふうに思っていたのか。……あたしやっぱり、傍から見て落ち着きないのか……。

「しっかり釘刺されたけどな……」
「え?」

 襟を離すと、吉川さんががしがしと頭を掻きながら、呟いた。
 釘、とはなんのことだろう。

「別に、あの生徒会の坊主の言ったことを気にしてるわけじゃないけど……」
「へ?」
「その、あれだぞ、こんなおっさんに入れ込んでも何もいいことないぞ」
「は?」
「あんまり、周りに言わないほうが……」

 熊野先生があたしのことをどのように言ったかは不明だが、もしかして元気がなかったのは、それのせい、熊野先生にあたしのことを言われたからなんだろうか。
 ところで周りに言わないほうがいいとは、どういう意味なのだ。言いふらされたら迷惑だと言いたいのだろうか。

「吉川さんは、迷惑ですか」
「え、いや、迷惑とかそういうのじゃなくて」
「迷惑では、ない?」
「いや、どっちかって言うと」
「今日のミートボールは史上最高傑作です! ぜひご賞味ください!」
「……あ、うん」

 話しているうちに、いつの間にかいつものベンチに着いていた。吉川さんと座り込み、お弁当を手渡す。吉川さんがミートボールを箸でつまんで口に入れるのを見守っていると、口に入れる前に吉川さんが気まずそうに言う。

「あの、あんま見られると食べづらいんだけど」
「はっ、す、すいません、つい」

 慌てて目をそらして、またそうっと見ると、吉川さんはすでに口をもぐもぐさせていた。それから、満足そうに微笑んだ。

「……うまい」
「……」

 吉川さんの飾り気のないいろんな言葉が、いつもあたしの胸をいっぱいにしてることなんて、きっと知らないんだろうな。でも、知らなくてもいいや、あたしが大事に胸の奥にしまって取っておけばいい言葉だから。
 思わず顔を赤くしたあたしの反応など気にならないのか、吉川さんはふたつめのミートボールをひょいと口に運ぶ。咀嚼してぐっと飲み込んでから、吉川さんは少し考えるように視線を上のほうにめぐらせた。

「お嬢ちゃんは……将来何になりたいの?」
「えっ?」

 ぽつんと吉川さんが呟く。

「いや、こんだけ料理が上手なら、コックさんとかになりたいのかなって」
「料理は好きですけど……」

 料理を仕事にしようと思ったことは、一度もない。あたしの将来の目標は、きちんと大学まで行ってちゃんと卒業していい会社に就職して高給取りになってお母さんに楽をさせることだからだ。

「好きなことを仕事にできるのは、いいことだろ」
「でも」

 好きなことを仕事に、とかそういうふうに自分の都合のいいように考えたことはない。だって、好きなことが仕事になった時に好きなことを嫌いになったりするのは怖い。それに、コックさんって修業とか下積みが長そうで、そんなことをしていたらお母さんに楽をさせるのも遅くなってしまいそうだ。
 そんなことをぼんやり考えていると、吉川さんが照れたようにわずかに相好を崩して頭を掻いて言った。

「俺は選択肢もなかったから、こんななってるけど」
「そんなことないです!」

 思わず、弁当箱を持ったまま立ち上がる。吉川さんがぽかんとした顔で見上げてくる。

「よ、吉川さんは、お仕事いつもがんばってて、格好いいです。こんなじゃないです!」
「……」
「吉川さんは自分のお仕事が嫌いなのかもしれないけど、でも、まじめにがんばってるのを、あたし知ってます!」
「……うん、座りなよ」
「お仕事してる吉川さん、世界一格好いいです!」
「うん、叫ぶのやめよう。人来る」

 わたわたと辺りを見回しながら、吉川さんがあたしを止めようと両手を上げた。それから、ふへっと吹き出した。

「そんなふうに言ってもらったのは、初めてだな」
「えっ」
「別に、嫌いじゃないよ」

 突然の笑顔に、あたしはおとなしくベンチに腰を下ろした。ぽうっと見とれていると、吉川さんの手が伸びてきて、あたしの髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜる。乱れちゃう、と思いながらそれでもあたしはその手を止めることができなかった。

「今は、天職だなって思ってる」
「……」
「馬鹿にする奴もいるけど、俺たちがこうやってきれいにした建物を誰かがまた新しく使うっていうのは、すごく気持ちいいことだろ」
「……」
「お嬢ちゃんたちが、使ってくれるんだろ?」
「……吉川さん」
「ん?」
「手をどけてください」
「え、あ、ごめん、痛かった?」

 慌てて吉川さんがあたしの頭からぱっと手を離した。ぐるっとそのまま吉川さんから体ごと顔をそらす。
 吉川さんが、ごめんなと言いながらあたしのことを気遣っているのは、分かってるんだけど、それでも、あんな笑顔で大きなあたたかい手で髪の毛をぐしゃぐしゃにされるのは心臓に悪すぎる。

「お嬢ちゃん」

 心配そうに声をかける吉川さんに、こんな真っ赤にした顔は見せられないお昼休みなのであった。