天敵と馬

 とある日の放課後、あたしとみこちゃんとほか数名のクラスメイトで、当番になったため裏庭を掃除していると、すぐ近くの校舎の窓から早坂先輩がひょっこり顔を出した。
 さっと辺りを見回すと、ちょうどみこちゃんはゴミ捨てに行っていていなかったので、しめたとばかりにあたしは先輩を無視することに決めた。

「あっ早坂先輩」

 決めたのに、クラスメイトの女の子が果敢にも声をかけてしまったため、彼はこちらに注意を向けたようで、しかもあたしに気づいたらしい。
 じとりと睨みつけると、睨み返してくる。丸い目玉がきゅっと細くなり、不快感もあらわといったところだ。

「昨日の片割れだな」
「昨日はどうもです〜、あんな大人気なく怒る早坂先輩が見れてうれしかったです〜」
「……」

 嫌味もあらわに言ってやると、早坂先輩の顔がぐぎぎと歪んだ。彼に声をかけたクラスメイトが、どういうこと、と興味深げに聞いてきたので、本人を前に遠慮なく答える。

「みこちゃんが、早坂先輩格好いいって言うからバスケ部の練習見てたら、怒られた」
「え、なんで?」
「気が散るから見るな、だって」

 ふんっと鼻を鳴らして早坂先輩を流し見る。わなわなと、唇が震えて彼の苛立ちが頂点に達しつつあるのが分かった。

「うるさくしてたの?」
「あたしとみこちゃんでそんなうるさくなるわけないじゃん」
「どうかな。新けっこううるさいじゃん」
「あたしがうるさいの吉川さん限定だしね!」
「それもそうかな」

 ちなみに今の会話で分かる通り、クラスメイトにはあたしが旧校舎工事の作業員さんにお熱であることはわりとオープンだ。というか、あたしがうるさいのですぐばれた。毎日みこちゃんやほかの友達相手にあれだけ熱意を込めて喋っていれば、まあばれないほうがおかしいというものだ。
 早坂先輩が苦々しげな表情で口を開く。

「練習を妨害しといて、いけしゃあしゃあとお前……」
「事実じゃないですか。みこちゃん、しょんぼりしちゃって可哀相だった!」
「それはお前らが騒ぐから……」
「何してんの?」

 みこちゃんが戻ってきてしまった。ぎくっと身体を強張らせると、みこちゃんは早坂先輩に気づいて、あっと視線を落とした。だいぶ気まずそうだ。いつも明るいみこちゃんをここまで落ち込ませるとは、許せない。

「昨日の……」
「あの、すみませんでした……」
「分かればいいんだよ」
「うわっ、上から目線だ! あたしこの人嫌い!」
「新! そういうのは本人がいないところで言うんだよ!」

 みこちゃんが慌ててあたしの口をふさぐも、覆水盆に返らずである。早坂先輩が頬をぴくぴく引きつらせて、あたしを睨んだ。

「奇遇だね、俺もお前みたいなきゃんきゃんうるさい女は嫌いだよ」

 あたしはたしかにきゃんきゃんうるさい。それは認めよう。
 ただしこんな数回話をしただけのよく分からない男にそんなことを言われる筋合いはない。

「新……」

 みこちゃんがお説教モードになっている。あたしは、慌てて自分をかばうことにする。

「別に、早坂先輩に嫌われたところで痛くもかゆくもない!」
「うるせー黙れちょっとかわいいからって調子乗るなよ」

 微妙に、口説かれたのかけなされたのか分からない。もちろん早坂先輩に口説かれようがけなされようがあたしには関係ないことではあるのだが。あと、別に調子には乗ってない。

「とにかく、女子がきゃっきゃしてると、部員が集中できないし風紀が乱れるんだ。気をつけろよ」
「すみませんでした」

 あたしが目尻を吊り上げているうちに、みこちゃんが殊勝に謝って、早坂先輩はさっさと廊下の向こうに消えた。
 あんな人にぺこぺこするの、悔しい!

「……結局あれでしょ? みこちゃんがかわいいから、そっちばっかり気になっちゃって部活に集中できないっていう言い訳でしょ?」
「新、ポジティブだね……」
「だってみこちゃんかわいいよ」
「私は新のほうがかわいいと思うけどなあ」

 あたしはたしかに、ちょっとだけかわいい自覚はある。お父さんの遺影は、女子か、ってくらいかわいい顔だったし、それにそっくりなあたしだってまあまあの顔をしているのだ。
 でも、みこちゃんはかわいい。そこは譲れない。
 そのまま、掃除を続けて、みこちゃんはやっぱり今日はバスケ部の練習を見ないみたいだったので、ちょっとだけしつこくお願いしてゴミ捨てのついでに旧校舎に寄り道してもらった。

「吉川さん、いるかなあ」
「仕事の邪魔したら駄目なんじゃない?」
「見るだけだよ!」

 シートがかけられた旧校舎に向かうと、吉川さんが何か鉄の板のようなものを抱えて歩いているのを発見した。いつにも増して、半袖の服から覗く腕の筋肉が張っていて、格好いい。
 陰からきゃあきゃあ言っていると、呆れたようにみこちゃんが言う。

「やっぱ、汗臭そう」
「抱きつきたい」
「えええ」

 後ろからぎゅっと抱きついて、あのたくましい背中に顔をうずめ、そしておでこをぐりぐりと擦りつけたい。
 吉川さんの背中が消えてからもしばらくそこに立ち尽くすあたしに、みこちゃんは完全に呆れ切っていた。

 ◆

「でね、みこちゃんの好意を踏みにじってですね、邪魔とか言うわけですよ!」
「……」
「なんか、俺はイケメンなんだぞ、生徒会なんだぞえらいんだぞーって感じで、あの人いやです!」
「……」

 翌日、吉川さんとお弁当を食べながら体育館での出来事や昨日の裏庭での出来事を離すと、吉川さんは何とも言えないような顔で相槌を打つでもなく静かに聞いていた。
 それから、何か考えるように視線をめぐらせて、まあ、でも、と言う。

「まあ、でも」
「?」
「お嬢ちゃんはまだ若いんだし、そういうのも楽しいのうちだろ?」

 そういえば吉川さんがちょっと前に、あたしに、もっと楽しいことがあるだろ、と言っていたのを思い出す。
 なんだと。

「楽しくなんかないですよ! あんな人のバスケ練習見るくらいなら、お仕事してる吉川さんを見ていたほうが絶対百万倍有意義です!」
「……あ、そう……」

 頬をぽりぽりと掻き、微妙なおももちでおかずを口に入れる。もぐもぐしているその顔がなんだかかわいい。
 と、そこへざりざりと地面を踏む音が響いて、何気なく振り返ると、今一番見たくない顔がそこにいた。

「げっ」
「げっ」

 向こうも同じリアクションなのがますます腹立たしい。

「お前、こんなとこで何してる」
「何してても先輩には関係ないと思いますけど」
「……旧校舎の、作業員の方ですか?」
「あ、うん、まあ」

 あたしから、吉川さんに視線を流した早坂先輩は、なぜか吉川さんのほうに食いついていく。

「この子と知り合いなんですか?」
「うん、まあ、……知り合い? うん……」
「邪魔しないでください! 邪魔です!」

 たまらず口を挟むと、いらいらした気持ちもあらわに、早坂先輩があたしの首根っこを掴んだ。

「ぎゃっ! 何するんですか!」
「お前が何してるんだ!」
「何って?」
「作業員さんの仕事の邪魔をするな!」

 耳元でがなり立てられ、鼓膜が破けそうだ。負けじと言い返す。

「邪魔なんかしてない! 一緒にお昼休みにお弁当食べてただけ!」
「弁当?」
「吉川さん、お弁当おいしいですもんね!?」
「え、あ、うん」
「……」

 じとりとあたしを睨んだあと、彼は言い放つ。

「作業員さんとそういうことをするな。風紀が乱れる」
「は?」
「校内で淫行成立させるつもりか!」
「淫行!?」

 なんて言い草だ。ひどすぎる。
 がしかし、吉川さんが青い顔をして固まってしまったので、それ以上の反論ができなくなってしまった。こういう場合の大人の側からすると、たしかにその単語はできればなるべく聞きたくなかっただろうとは思うので、吉川さんが青い顔をするのも分かる。
 そのまま早坂先輩は、あたしを引きずるようにベンチから転がし落とし、腕をぐいぐいと引っ張って本校舎の方角に連れ去ろうとする。

「何するんですか!」
「うるさい! このスーパー問題児!」
「吉川さん助けて!」
「作業員さんに迷惑をかけるな!」

 吉川さんに助けを求めるも、彼は呆然として固まって動かない。
 くそっ、早坂先輩、嫌いじゃない、大嫌いだ!
 そのまま本校舎に引きずられてがみがみとお説教され、とりあえずこうべを垂れてしぶしぶ聞いている体はとったが、中身はまるで聞いていなかったあたしは、放課後懲りずに旧校舎に向かう。
 吉川さんは発見できなかったが、茶髪のお兄さんがあたしに気づいて手を振った。

「よお」
「吉川さん、いますか?」
「上」

 仕事中らしい、旧校舎の上のほうを指差したお兄さんにがっくり肩を落とすと、ああそうだ、と荷物をあさって弁当箱と巾着を取り出して手渡してくれた。

「お前が来たら渡しとけって」
「あっ、そっか」
「え、これ取りに来たわけじゃねえの?」
「全然忘れてました」

 吉川さん、些細なことにも気がつくんだなあ、素敵。
 巾着をいそいそと鞄にしまい込みながら、はてところで、と思う。

「お兄さんは……吉川さんと仲がよろしいので?」
「仲いい、っつうか……まあいい上司と部下、いい同僚って感じじゃねえの?」

 ひらめいた。

「お兄さんのお名前はなんですか?」
「は?」
「お名前を教えてください! できれば連絡先も!」
「なんで?」

 怪訝な顔のお兄さんに、隠し事ができない、変化球も投げられずごまかすこともできないあたしは正直に告げる。

「将を射んと欲すればまずは馬を射よ、と言いますよね!」
「……なんだそれ」
「つまり、馬に乗っている人をやっつけたいときは馬を先にやっつけたほうが効率的、という意味です」
「なるほど」

 感心したような顔のお兄さんに、きらきらとした視線を向けると、眉を寄せて、へっ、と鼻で笑われた。

「ガキに名乗る名前はねえよ」
「そんな」
「あと、俺別に吉川さんの馬じゃねえし」
「うぐ」
「あー、でもあれだな、俺のこと、まあくんって呼ぶのどうだ?」
「まあくん?」

 唐突なニックネームの提供に、頭にクエスチョンマークが乱立する。お兄さんはにやにやしている。

「吉川さんの名前知ってるだろ。雅信っつうんだけど、まあくんって、雅信の愛称みたいじゃねえ?」
「た、たしかに」
「俺で練習しとけ。いざってときのために」

 そうか、吉川さんとお付き合いとかそういう感じの雰囲気になれたあかつきには、あたしは吉川さんをまあくんと呼ぶことになるのか。むふふ。

「まあくんさん! 連絡先を教えてください!」
「やだ」

 笑うと、ちょっとコワモテの顔がきゅっと幼くなったお兄さんあらためまあくんさんが、八重歯を露出させてあたしの頭をわしわしと撫でた。

「ま、せいぜいがんばれ」
「じゃあまあくんさんのお好きな食べ物を教えてください!」
「イチゴ」
「超意外ですね!?」
「どういう意味だ」

 途端に不機嫌な顔になったまあくんさんに、とりあえず賄賂でイチゴを入れたタッパーを差し入れることを決意した。