胃袋鷲掴み

 昼休みの始まりを告げるチャイムが鳴るや否や、あたしは教室を飛び出そうと椅子を蹴って立ち上がった。

「こら、宮本さん! まだ授業終わってない!」
「……はあい……」

 先生に睨まれてしぶしぶ席に着く。先生が、最後の付け足しのように解説をくっつけて教卓で出席簿と教科書をまとめた瞬間、再び立ち上がる。

「宮本さん……落ち着きのない子ね」
「すみません! 急いでるんです!」

 苦笑した先生のお小言をバックに、今度こそ教室を飛び出した。転がるように廊下に躍り出て、階段を駆け下りて旧校舎に向かって突進する。
 旧校舎の、いつも作業員さんたちがお昼を食べるのにたむろしているピロティに行くと、吉川さんの姿はなかった。

「あれっ、あのっ、吉川さんは?」
「昼飯買いに行ったよ」

 茶髪の若いお兄さんがお弁当を食べながら答えてくれる。なんだと。

「あたし今日吉川さんにお弁当つくってきたのに!」

 地団駄を踏むと、一番年かさに見えるおじさんが感心したように呟いた。

「お嬢ちゃん、やるなあ」

 やるとかやらないの問題ではない。お昼ご飯を買いに行ったということは、吉川さんはあたしがお弁当をつくってくると言ったことを本気に取っていなかったのだろうか。茶髪のお兄さんが、食べる手を止めて少し考えて言う。

「大丈夫、吉川さん、買ってきた弁当もお前の弁当も食うよ」
「ちげえねえ!」

 作業員さんたちがどっと笑い出す。そこへ、吉川さんがコンビニの袋を提げて戻ってきた。

「吉川さん!」
「ああ、お嬢ちゃんこんにちは」
「こんにちは! ……じゃなくて!」
「へ?」

 あたしは、吉川さんの目の前に、お弁当が入った巾着袋を突き出した。弁当箱を買ったはいいが、それを入れる巾着までは考えが及ばず、くまさんのかわいいやつしかうちにはなかったが、そこは目をつぶっていただきたい。

「お弁当、つくるって言ったじゃないですか!」
「え、マジで?」

 コンビニ袋を地面に置いて、吉川さんは困ったように頭を掻いた。それから、ううん、と唸っているうちに、ほかの作業員さんたちはそそくさと荷物をまとめて去っていく。

「あっ」

 それに気づいた吉川さんは、毎度のことながら間抜けな声を出す。

「吉川さん……お弁当、食べてくれますか……?」
「うっ」

 上目使いでお弁当を差し出すと、腕を上げたり下げたりと何か言いたそうにして何度か口を開いたり閉じたりしたあと、諦めたようにだらりと腕を垂らしてうなだれた。

「食う、食うよ……」
「やったあ!」

 旧校舎から少し離れた森の入口に設置してあるベンチに腰掛けて、あたしと吉川さんはお弁当を膝に置く。あたしのほうをちらちらと気にしながらぱかっとふたを開けた吉川さんは、目をしばたいてから大きく見開いた。

「これ、お嬢ちゃんがつくったの?」
「そうですよ。あっ、何か嫌いなものありました?」
「いや、俺なんでも食えるけど……」
「どうかなさいましたか?」

 煮え切らない態度の吉川さんに疑問を覚えて顔を覗き込むと、困ったような顔で、ぽつんと呟いた。

「もっと、冷食オンパレードの女子高生っぽいかわいい弁当が出てくると思ったから……」
「……」

 お弁当がかわいくなかった。自分の分を見る。たしかに、冷凍食品がないのもあるけど、何より栄養やバランス重視で華やかさも毒々しいまでの色鮮やかさもない。それはつまり、イコール女子力が低いと思われた?

「えっ、あっ、かわ、かわいくなくてごめんなさい……栄養第一だと思って……じょしりょく……」
「じょしりょく? いや、褒めてんだけど」
「へ、あ?」
「まさかお嬢ちゃんみたいな年の子が、こんなまじめなすごい弁当つくれるとは思ってなくて」
「えっ」

 パカパパーン、と脳内でファンファーレが響き渡る。すごい弁当、だって。褒められた。吉川さんに、褒められた!

「あっ、ありがとうございます!」
「……いや、うん……」

 はっと吉川さんが顔色を変えて頬を引きつらせた。あたしの上機嫌を悟って、何か思うところがあったようだ。

「明日からも、お弁当つくってきますね!」
「え、でも」
「あたしの趣味なので、大丈夫です!」
「……」
「さっ、お召し上がりください!」

 しまった……、と覇気なくぼやいた吉川さんは、目をうろうろとさせて少し迷うそぶりを見せてからだし巻玉子に箸をつける。吉川さんは、好きなものを最初に食べちゃう派、と。そして、その玉子焼きを挟んで持ち上げて、口に放り込む。もぐもぐ口を動かして飲み込んで、瞠目してぽつりと言う。

「うまい」
「ほんとうですか!」

 弾みで落ちたようなその言葉に感激してしまう。その一言だけで、今までだし巻玉子を一生懸命練習してきたのはこの日のためだったと思い込んでしまうような気持ちになる。
 その後も、吉川さんはおかずをいちいち褒めながら全部残さず食べてくれた。

「ああ、うまかった。ごちそうさま」

 吉川さんが、ぱんっと手を合わせてお弁当に向けて軽くお辞儀をする。ごちそうさま、に胸が高鳴って、うつむいた。

「あれ、お嬢ちゃん、全然食べてないけど」
「あたしはもうおなかいっぱいです!」
「は?」

 怪訝そうな顔で、あたしの顔を覗き込んできた吉川さんの手が伸びてきて額に触れた。ぴくっと身体が跳ねる。ごつごつしたてのひらの感触が少しだけ恥ずかしくて、でもすごくくすぐったい気持ちになる。

「具合悪いのか?」
「全然! むしろ絶好調で!」
「そ、そうなの?」

 吉川さんがちょっと引き気味だけど、あたしは満足だった。吉川さんが、おいしいって、米粒ひとつ残さずに食べてくれた。それだけで胸がいっぱいでおなかまでいっぱいになってしまったかのようだ。明日からも、お弁当作りがんばらなくちゃ。
 と思っていたら、申し訳なさそうに吉川さんが足元のコンビニ袋を持ち上げた。

「お嬢ちゃんの弁当のあとで悪いんだけど、ちょっと弁当箱小さくて……せっかく買ったし、食っていい?」
「ど、どうぞ、お気の済むまでどうぞ!」

 茶髪のお兄さんが「両方食べる」みたいなことを言っていたのを思い出す。そうか、いっぱい動いてカロリー消費しているから、こんな小さいお弁当箱じゃ足りないんだ。
 おにぎりを食べている吉川さんを横目に、あたしも自分のお弁当を食べる。少しの沈黙も時間の無駄のようで惜しくて、あたしは食べる合間に吉川さんに話しかけた。みこちゃんに負けていられない、あたしも情報収集せねば。

「あの、好きな女性のタイプって、どんなですか」
「えっ」

 じっと見つめると、困ったようにへらりと笑って、別に、と言う。

「タイプがないとか、好きになった人がタイプとか、そういうのはなしですよ!」
「……」
「遠慮なく、ずばっと言ってしまってください!」
「……いや、そりゃ」

 がしがしと頭を掻いて、吉川さんはもごもごと言いづらそうに口の中で言葉を転がしている。なんだろう、もしかして人には言えないような特殊なお好みがあるのだろうか。

「芸能人で言えば誰々、とか」
「……」
「目がおっきい子が好き、とか。そういうのでもいいんで」
「……そりゃあ」

 ようやく、何か喋り出す。

「……かわいくて、胸のでかい子が好きだろ、男は」
「むね」

 そっと自分の胸を見下ろす。つるりんぺったんこだ。若干制服が持ち上がっているように見えるのは、所詮パッドの力である。ほぼ自力でないことだけは、自分の裸を見ているので分かる。

「よ、吉川さんも、胸のおっきい人が好きなんですか」
「そりゃ、ないよりはあったほうが……」
「胸」

 照れくさそうに気まずそうにしていた吉川さんの視線が、ちらりとこちらを見る。そして、あたしが胸元と吉川さんを交互に見つめているのに気づくと、はっとして慌てたように言った。

「いや、別に! 理想と実際好きになる人は違うだろ? ないから好きにならないとかそういうのはねえよ、俺はそこまで非人道的じゃない!」

 フォローがフォローになってないのだということにまるで気づけていない吉川さんである。

「お嬢ちゃんだって、外見だけで男を選ぶわけじゃないだろ? でもイケメンは好きだろ? そういうことだよ!」
「……ほんとですか?」
「ほんと!」
「あたしのこと好きになってくれますか?」

 ん、と言い訳が止まる。
 話の流れを一生懸命頭の中で蒸し返している様子の吉川さんに畳みかける。

「吉川さんの好みの女性がたとえスタイルがいい美人だったとしても、あたしを好きにならないわけではないですよね?」
「いや、それとこれとは話が別……」
「毎日牛乳飲みます!」
「いやだから」

 しまったと言わんばかりの吉川さんを前に、あたしは決意した。これからいろいろ情報収集して、成長して、胸を大きくして、吉川さんにぜひ目に留めていただかなくては。身長ももうちょっと伸びたらいいなと思っていたし、身長がもうちょっと伸びれば胸だって膨らむはずだ。

 ◆

 そして今日も放課後はバスケ部の見学である。つまらない。まったくもって、つまらない。

「吉川さんの仕事風景を見学していたほうがどれほど有意義か……」
「うるさいなあ、もう」

 けらけら笑って、みこちゃんが目をハートにして体育館の中を見る。
 バスケなど全く知らないし、こんなにコート内をくまなく動き回るスポーツにポジションも何もあるものなのかと思っていたのだが、みこちゃんによると早坂先輩はセンターとかいうポジションらしい。

「センターって何する人なの」

 と聞いてみると。

「知らないけど……格好いいよね」
「……」

 これだからミーハーって怖い。口には出さないがひそかにそう思う。でもたしかに、バスケをしている早坂先輩は格好いいとは思うし、そんな早坂先輩を一生懸命目で追っているみこちゃんはかわいい。
 吉川さんとか、作業員さんたちって、こういうの得意かなあ。あれだけ毎日重たいものを持ち上げたり、不安定な足場をすいすいと行き来しているのだから、腕や腰の力はあると思う。でも、バスケの選手はわりと細身の筋肉のつきかたをしている気がする。吉川さんみたいにがっちりしていない。
 なんて思いながらぼんやり体育館を覗き込んでいると、早坂先輩が不意にこちらを見た。目が合った。みこちゃんが小さくきゃあと叫ぶ。うん、文句なしにかわいいな。
 そのまま視線は逸れるものと思っていたが、早坂先輩はまさかのまさかで、こちらを見たまま近づいてきた。そしてあたしたちのところまでやってくると、男の子にしては少し高めの冷たい声で言い放った。

「女バスは今日休みだよ」
「えっ」
「入部届なら、女バスの顧問に出して」

 どうやらあたしたちを、まじめにバスケ部の見学に来た新入生だと思ったようだ。

「あ、別に入部希望ってわけでは」
「じゃあ、マネ希望?」
「いいえ」

 みこちゃんがしどろもどろになる。あたしははらはらしながら事の次第を見守っている。

「それなら騒がないで、気が散るから」
「す、すみません」

 矢継ぎ早に言葉を重ね、みこちゃんがおどおどしたのを見て早坂先輩はふんと鼻を鳴らした。しゅんとしたみこちゃんと早坂先輩を見比べる。彼は、迷惑そうに顔をしかめている。
 何なんだこの人、むかつく。
 ぷくっと膨れると、みこちゃんがあたしの腕を引っ張って、帰ろう、と小さな声で言う。

「うん……」

 すっかりしょんぼりしてしまっているみこちゃんと中庭を歩きながら、あたしはぶつぶつ文句を垂れる。

「ファンは大事にしなきゃ駄目なのに」
「でも、騒いでたのはたしかだし」
「ほかに言い方あるじゃん、何あのえらっそーな態度!」
「新、声大きいよ」
「むかつくー!」
「新!」
「吉川さんのほうが絶対格好いいよ!」
「結局そこかよ!」

 早坂先輩ウォッチングは早々に幕を閉じるようだ。さすがにああまで言われて部活見学に行くのは腹が立つし、みこちゃんだって、あんなふうに拒絶されてはさすがに行きづらいだろうし。
 みこちゃんに元気を出してほしくて、あたしは早坂先輩の話題を切り上げて何かほかの話を探すことにした。

「みこちゃん、あのね、作業員さんにあんなのよりもっと格好いいお兄さんいるよ!」
「はあ?」
「結婚してるらしいけど」
「意味ないじゃん!」

 はて。イケメンは見ているだけでいいという話とつじつまが合わない。結婚していても、イケメンはイケメンなのだから、いいじゃないか。
 首を傾げると、みこちゃんが熱弁をふるい始める。

「それはまたちょっと別問題なの。早坂先輩も、彼女がいないから見てて楽しいの」
「何それ」
「特定の女に優しいなんて、つまんないじゃん」
「何それ?」

 みこちゃんの理論がまったく理解できないが、とりあえず結婚していたら駄目なのか。でも、作業員さんの中で一番若くて格好いいのはあの茶髪のお兄さんだし、ほかの作業員さんはおそらく面食いなのであろうみこちゃんのおめがねにはかなわない。なんせ吉川さんを却下するくらいだから。

「新、新。別に作業員さん限定で考えなくてもいいよ」
「でも、あたし同世代の男の子興味ないから、格好いいとか分かんないよ」
「重症」

 そんなことは分かっている。