不安になる
他人の言うことなんて気にしても仕方ないと思ってるけど。分かってるけど。「あ、そうだ」
「ん?」
「今度の週末、文化祭なんです」
「へえ」
「来てくれますか?」
「行かないよ」
「なんで!?」
吉川さんと家に帰る道を手をつないで歩きながらふと文化祭のことを話題に出すと、吉川さんが冷たい一言を吐いた。思わず立ち止まると、吉川さんは空いているほうの手で短い髪の毛をくしゃくしゃと引っ掻き回して言った。
「だって……俺が行ってどうすんの?」
「い、一緒に回るとか」
「いや、それはちょっと……」
吉川さんは難しい顔をして唇を尖らせた。それからもう一度、行かないよ、と言う。
今度はあたしが唇を尖らせる番だ。せっかく、吉川さんと回れると思ったのに。ぶうたれていると、吉川さんが手を引っ張って歩き出す。
なんで来てくれないのだろう、と考えながら引っ張られていると、もうあっという間に家についてしまった。日が暮れるのが早くて、もう辺りは暗い。吉川さんの家を出た時は、まだ明るかったのに。吉川さんといると時間が経つの、早いな。
アパートの階段を上ると、もうそこはあたしの家で。吉川さんはぱっと手を離してしまう。
「……あの」
「ん?」
「えっと」
何を言えばいいのか分からなかったけど、何か言って吉川さんを引き止めたくて、あたしは言葉を選ぶ。
吉川さんは黙ったままあたしが口を開くのを待ってくれている。
「ぶ、文化祭」
「まだ言ってんのか」
苦笑した吉川さんは、三度目の行かない発言をした。どうして来てくれないのかなって考えながら、まだ引き止める言葉を探す。
あたしがまごまごしているのを不審に思ったらしい吉川さんが顔を覗き込んでくる。
「何?」
「あ、えっと……えっと」
「……?」
なんにも思いつかない。でも何か言おうって思って顔を上げた時、うちの部屋のドアが開いた。
「あ……」
出てきたのは、帰り支度を済ませた伴田さんと、見送りらしいお母さんだった。吉川さんが背筋を伸ばす。
伴田さんが、あたしを見て吉川さんを見てそれから盛大に眉を寄せてあたしの名前を呼んだ。
「新ちゃん……」
「……」
何も言えなくてうつむく。ぎゅっと唇を噛むと、吉川さんがぼそっと呟いた。
「じゃあ、俺はこれで」
「え、待って!」
「またな」
うつむいて見えていた吉川さんの靴が、踵を返して階段のほうに行ってしまった。呼び止めたのに、吉川さんはそのまま帰ってしまって、あたしはなんだか泣きたい気持ちになる。
そんな空気をぶち壊す声がした。
「今のが、お付き合いしてる人?」
「……」
「ちょっと信じられないな」
はあ、とため息をついた伴田さんに掴みかかりたい気持ちになったけどかろうじて顔を上げるだけにとどまった。
「僕より年上なんじゃないの。新ちゃん、騙されてるよ。あんな年上の人が新ちゃんみたいな若い子と真剣に付き合ってくれると思ってるの?」
「……」
「どうせ、女子高生と付き合いたいとか、保護者気分なんだろう」
「あなたには関係ないじゃないですか!」
「新ちゃん」
思ったより鋭い叫び声が出た。喉が震える。顔がぐしゃぐしゃに歪む。ぼろぼろ涙があとからあとからこぼれてきて、あたしはドアの前に立っていたお母さんを押しのけて部屋に入った。
ドアを閉めて、そのまま玄関に靴を履いたままうずくまって膝に顔を押しつけて泣いた。
ドアの向こうでお母さんと伴田さんが何か話している声が聞こえる。それから、ドアが遠慮がちに開いた。
「新」
「……」
伴田さんは帰ったみたいだ。お母さんがあたしの背中に手を置いた。
細くて、小さい手。吉川さんのそれとは全然違うけどやっぱり馴染んだ感触で、少しだけ安心する。
それでずっと泣いていると、お母さんがぽつりと言った。
「ほんとに吉川さんのところに行ってたのね」
お母さんもきっと吉川さんを悪く言う。そう思ったら余計に涙が止まらない。
「ちゃんと、夕方には新を送ってきてくれて、少し驚いた」
「……」
「きちんとしてる方なのね」
「……」
「てっきり、新のことだからまた帰らないとか言い張ってるんじゃないかと思ったけど……」
お母さんが立ち上がってサンダルを脱いで、あたしの手を引っ張った。ブーツ脱ぎなさい、と言われてようやく、あたしはそこから動く。でもまだ涙で顔がべちゃべちゃのままで、お母さんに引っ張られてリビングに行く。
「伴田さんには、ちょっときつく言っておいたわ」
「……」
「嫌よね、いきなりあんなふうに言われたら」
「……」
「でも、伴田さんもね、新と家族になりたいだけなのよ。新のことが心配なの。それは分かって」
そんなの分かりたくない。吉川さんの悪口言う人はみんな嫌い。それじゃ駄目なのも分かってるけど、あたしは伴田さんと家族になりたいと思っているわけじゃない。あたしのことも、吉川さんのこともよく知らないままああいうことを言える人を、父親とは呼びたくない。
黙ったままのあたしにため息をついて、お母さんは頭を撫でた。無言で立ち上がって部屋に向かうあたしの背中を見て、お母さんはどう思ったんだろう。
部屋で、コートを脱いで鞄を床に落としてベッドに寝転がる。
伴田さんの言ったことなんて気にしなきゃいいのに、やっぱり頭の中で反響する。
保護者気分なんだろう、って。
いったん引っ込んだ涙がまたじわじわと枕を濡らしていることに気付いたころ、鞄の中のスマホがぶるぶる震えている音にふと気が付いた。
起き上がって鞄を開けてディスプレイを見て、息を飲んだ。
吉川さんだ!
「も、もしもし!」
『ああ、新ちゃん』
さっきと変わらない穏やかな声。一気に安心してしまう。
「で、電話、うれしいです」
『……おう』
「あの、文化祭」
『まだ言ってんのか、懲りねえな』
行かねえよ、と四回目の柔らかな拒否。
あたしは、伴田さんの文句を言おうとして、少しだけためらった。もし吉川さんが否定してくれなかったらどうしよう。信じてるけど、不安になるから。
『あのさ』
「……?」
『……泣いた?』
「え」
『鼻声だけど』
「……」
無言は肯定なのである。吉川さんがため息をついてぼそぼそと言う。
『あの、あれだぜ? 行かないっつーのは、その、なんだ、新ちゃんと文化祭回ってもたぶん親子にしか見えねーだろっての分かるし、高校の文化祭って俺にはよく仕組み分かんねえからちょっと尻込みするっつーか』
泣いた理由を勘違いしているみたいだけど、それも仕方ない。あたしがしつこく粘ったせいだ。
「あの、違うんです。それはもう、いいんです。泣いてないです」
『そう?』
「伴田さんにいやなこと言われて」
『やなこと?』
「……吉川さんが、本気であたしみたいな女子高生と付き合ってくれるはずないって……」
『……』
吉川さんが黙った。一気に不安が突き抜ける。また、目に涙が浮かんできた。
『……俺はさ』
「……」
『逆だと思ってるよ』
「え?」
『別に、女子高生と付き合いたいわけじゃねえんだけど、俺らくらいの年からしたら新ちゃんみたいな女の子とは縁がないし、女子高生が本気でオッサン相手にするとは思ってねーんだ』
「あ、たしそんなことない……」
『うん……。分かってんだけど、普通は皆そう思うから、あんまりその、ばんださんのこと悪く思うなって』
「……」
口調は穏やかだけど、なんだかやんわりと拒絶されているようで、怖い。
いつか吉川さんがあたしといるのを面倒になってどこかに行ってしまう気がして。あたしみたいな小娘に付き合っていられないって思う気がして。
すごく、怖かった。