水族館デート
楽しみすぎて、待ち合わせの駅前に約束の三十分前に着いた。いつも下ろしている髪の毛を今日はゆるく三つ編みにして結んでみたんだけど、海沿いは風が強くて崩れてほどけちゃわないか、心配だ。服は、みこちゃんと学校帰りに買い物に行って、新しいふわふわのニットを買った。ベージュで、肩から上はオーガンジーのレースで透けている。吉川さん、変だって思わないかな……。
そわそわしながら待っていると、電車が着いた音がして人が改札に向かってたくさんやってきた。さっきから、人混みができるたびに吉川さんの姿を探すけど、よく考えたら待ち合わせの何分も前なので来るわけがないのである。今のだって、十分前の電車だから、いないのだ。
「新ちゃん」
「えっ」
うつむいて、マカロンピンクのコンバースの足元を見ていると、急に声をかけられた。慌てて顔を上げると、吉川さんがぽかんとした顔で立っていた。
「どしたの、気分悪い?」
「い、いいえ! そんなことは! まったく!」
急いでかぶりを振って吉川さんのそばに駆け寄りぎゅっと腕に抱きつく。あまりに久しぶりだから、くらくらしてしまう。
吉川さんは、抱きついたあたしをぺろっと簡単に引きはがし、手をつなぎ直してくれた。大きくてごつごつしていて、あたたかい手。顔がぽかぽかと赤くなってくる。
「行くか」
「はい!」
「ちょっと歩くみたいだな」
「はい!」
海沿いにある水族館に向かって歩きながら、吉川さんはぽつんと呟いた。
「……お母さん、なんて?」
「あ、えっと、様子見、って」
「そう……」
何か考えるように黙った吉川さんに不安になるけど、あたしはあの日吉川さんが言ってくれたことを信じているので、あまり考えないようにする。今は、それよりもデートが大事だ。
けっこう歩いて水族館に到着し、チケットを買う。
「おとな二枚」
吉川さんがチケットを差し出してくれたのでお財布を出すと、へらりと笑って首を振った。
「奢られとけって」
「え、でも……」
「おじさんは価値観が古いからな、女の子には奢りたくなってしまう」
「……」
そう言ってる時点で価値観がすでに古くない……。たぶん吉川さんが奢ってくれるのは、あたしが女の子だからではなく、おとな二枚でもこどもだからだ。
そのまま、やや強引にお財布を鞄に戻されて、しぶしぶ受け入れる。……当たり前だけど、対等じゃない……。
でも、とあることを思い出して、まあいいかと思い直した。あれで挽回するのである。
「吉川さん! お魚がいっぱいです!」
「うん、水族館だからな」
「あっ、なんか、かわいい!」
吉川さんの手を引いて水槽にへばりつく。休日なだけあってけっこうな人だかりだけど、そんなことは全然気にならない。
巨大な水槽を泳ぐ鰯の大群に目を惹かれつつ、つないだ右手も熱い。
水族館か動物園、と言われたときに真っ先に思い出したのは、小さい頃お父さんに連れて行ってもらった動物園のことだ。たしか、キリンが怖くて泣いた。
だから、水族館がいいと思った。実は水族館には行ったことがなくて、しかも今もちょっとだけ大型の動物は怖いのだ。
水槽の中にいる分には、サメだって巨大なエイだって、かわいいものである。
「すっごい……」
エスカレーターを上りながら上を見ると、百八十度水槽になっていて、いろんなお魚が泳いでいる。かわいい。
「も、もう一回」
「……あとでな」
エスカレーターを上り切ってしまって、わがままを言うと、吉川さんは困ったように笑ってそう言った。
そのあとも水槽を見て回って、吉川さんがそういえば、と言った。
「腹減ったな……レストランとかあるのかな」
「あっ、あのあの! あたし!」
「ん?」
「……お弁当つくってきました」
吉川さんが目をぱちくりさせる。
大きめの鞄からお弁当箱を取り出してあたりを見回す。一応建物の外に出たけど、座る場所、あるかな。
座る場所を探して歩いていると、海のほうを向いたベンチが空いていた。
「ここで食べましょう!」
「うん」
座って、なんだかそわそわしている吉川さんにお弁当を渡す。
「どうぞ!」
「うん。新ちゃんの弁当、久しぶりだな」
そう言えばそうだ。夏以降つくっていない。吉川さん、うれしいかな、だったらいいな。
十月の終わりともなると風は冷たいが、あたしの気持ちはぽかぽかとあたたかくて、ずっとどきどきしている。
今日のメニューは、吉川さんが大好きな出汁巻き玉子とから揚げとポテトサラダ、あと付け合わせと彩りに小松菜の煮びたし。吉川さんが玉子焼きをつまんで口に運ぶ。それをじっと見ていると、視線に気づいて気まずそうに笑う。
「見られると食べづらい」
「あっ、すいません……」
「美味いよ」
咀嚼しながら吉川さんは笑ったまま、落ち着く味、と感想を述べた。
感想の意味は分からないけど、喜んでもらえて宮本新、このデート一片の悔いなしです……。
「新ちゃん、食べないの?」
「た、食べます」
慌てて自分の分に箸をつける。から揚げを挟んで、ちらりと吉川さんのほうを見ると、頬を緩めてポテトサラダを頬張っていた。
自分のから揚げを見る。吉川さんのお弁当箱を見る。吉川さん、食べるの速い。
若干急いで食べていると、から揚げを豪快に喉に詰まらせた。
「げほ」
「え、大丈夫?」
「うぐぐ」
胸の少し上が苦しい。顔をしかめて飲み込もうとしていると、吉川さんが手を背中に置いてとんとん叩いてくれる。
なんとか飲み込んで息をついていると、吉川さんはちょっとあきれたふうに笑う。
「そんな慌てなくてもいいだろ」
「だって……」
「ゆっくり食べな」
変わらず背中をさすってくれる大きな手が、頭のほうに伸びてきてぽんぽんと撫でられた。
お水買って来ればよかった。と思いつつも、ゆっくり食べる。となりに吉川さんがいるだけで、味が全然分からないくらい緊張する。前はこんなことなかったのに。
何とかして全部食べ終えて、お弁当箱をしまう。味がほんとうに全然分からなかった。これ、美味しかったのかな。
「よ、吉川さん」
「ん?」
「美味しかったですか……?」
きょとんとした顔の吉川さんが、あたしをじいっと見つめて首を傾げた。
「なんでそんな顔すんの? 美味かったよ」
「……!」
「いつもありがとな」
「そんな……!」
感極まって泣きそうになったあたしに、吉川さんが俄然慌てだす。
「え、なんで泣きかけ? 俺なんかまずいこと言った?」
「うう……」
「新ちゃん……?」
あたふたしている吉川さんに抱きつくと、意味不明、みたいな顔のままあたしの頭を撫でてくれた。
「あの……」
「吉川さん大好きです」
「え」
そっと、吉川さんの胸に埋めていた顔を上げると、吉川さんは頬を染めて困ったように笑っている。それからゆるく抱きしめ返してくれた。
今だったら死んでもいい。
そんなことを思って、あたしはもう一回、吉川さんのたくましい胸に顔を預けて目を閉じた。
◆
そして楽しい時間というのはあっという間なのである。
水族館をすっかり満喫して外に出ると海は夕焼けに染まっていた。もう帰らなくちゃいけないのか、と思うとしょんぼりしてしまう。
知らず知らずのうちに、駅に向かうあゆみが遅くなる。もうちょっと、一緒にいたい。
あたしがそんなことを思っているとは夢にも思わないのだろう、吉川さんは来たときと同様の速度であたしの手を引いて歩いていく。
「吉川さん」
「ん?」
「ちょっと、寄り道していきません?」
「駄目に決まってるだろ」
だって、駅に着いたらばいばいだって思うとすごくさみしい。吉川さんは平日仕事があるから、会えるとしてもまた来週だし、毎週は会ってくれないかもしれないし。
吉川さんは、さみしくないの?
「家まで送るから。それでいいだろ?」
「……ほんとに?」
「危ないからな」
駅でばいばいじゃない。ちょっとだけうれしくなってしまうあたしは、ひょっとしてものすごく単純なのかもしれなかった。
電車は少し混んでいて、カーブで揺れるたびに吉川さんのほうに倒れそうになってしまったけど、支えてくれたその手がとっても優しくて、心臓がきゅうっとなった。
電車を降りて、アパートまで手をつないで歩く。
「吉川さん」
「ん?」
「来週は、会えますか?」
「あー……たぶん」
「ほんとに?」
「嘘言ってどうすんの」
「じゃあ、またデート……」
「……うん……」
吉川さんがそっぽを向いた。ほんとうは嫌なのかな、その気がないのかな、と思って顔を覗き込めば、ちょっとだけ顔を赤くしてしかめっ面をしていた。
「……吉川さん?」
「あの、あれだな、デートとか、口に出されると、さすがに」
「え?」
「あれだよ……ちょっと照れる、よな……」
「…………かわいい」
「……」
気まずそうに頬を指で掻いた。
「四十越えたおっさんにかわいいはないだろ……」
そして吉川さんが立ち止まる。ふと見れば、そこはもううちのアパートの前だった。もう、お別れなんだ。
部屋の前まで送ってもらう。
「あの」
「ん」
「たまには、吉川さんからもお電話ほしいです!」
「……マメじゃないから、つい忘れるんだよな……。うん、たまにはな」
「はい!」
「じゃあ、戸締りしっかりな」
「……」
そのまま吉川さんはあたしがドアを開けるのを待っている。さみしい。
「あの」
「ん?」
「おやすみの」
「ん?」
恥ずかしくて蚊の鳴くような声になってしまい、吉川さんが少しかがんであたしの口元に耳を寄せた。
「……おやすみの、キス……」
「……」
自分からねだるのなんて恥ずかしくてはしたないかもしれないけど、やっぱりしてほしい気持ちが勝って。ちらりと吉川さんを見る。
なんだか嫌な感じのしないため息をついて、あたしの後頭部を引き寄せた。
「ひゃあ!」
唇をぺろりと舐められて、思わず変な悲鳴が出る。至近距離に困ったような太い眉があって、顔に熱が溜まる。
「あの、あのあの」
「……すまん」
「や、やじゃないんです、でも、でも」
「うん」
「びっくりして」
「うん」
「恥ずかしい」
「なんかそう改まって言われると俺も恥ずかしい」
そのままあたしは、吉川さんの手が離れたのを合図に逃げるように部屋の中に滑り込んだ。お母さんは出かけているみたいで、廊下もリビングも真っ暗だった。
へなへなと玄関に座り込み、顔を両手で覆う。あれは、大人のキスの入口だよね? あたしが変な声出してなければ、たぶん……。
「うわあ……」
ぶんぶんと首を振って顔の熱を飛ばそうとするけど、全然効果がない。
まだまだ恥ずかしくってくっつけるだけのキスだって全然慣れないのにそんなことできない。
でも、吉川さんは、したいんだよね、きっと。
悶々としたまま靴を脱いで、自分の部屋に入って着替え終えても、顔は赤いままだった。
宮本新、恋愛初心者ゆえに未熟です……。