夏の午後

 来てみたはいいものの、旧校舎と違って勝手が分からないので、あたしはとりあえずマンションのエントランスのところで立ち止まり、中をおそるおそるうかがう。そうっと覗き込むと、明るい茶色の瞳と目が合った。

「あっ」
「お、来たなクソガキ」

 まあくんさんが汗を拭きながらこちらに近づいてくる。それから、ぐいとあたしの腕を引っ張ってマンションから引き離した。

「危ねえから近づくな」
「……吉川さんは?」
「コンビニ」
「ええええ!?」
「なに?」

 至近距離で大きな声を出したのは申し訳ないと思うけど、デコピンしなくてもいいと思う。
 そんなことより、あたしがお弁当をつくってきたというのに、コンビニに行っただと。いや、もちろん吉川さんはあたしがお弁当を持ってくることなど知らないのだが……。

「あたし! 吉川さんに! お弁当を!」
「お嬢ちゃん、何してんの?」

 まあくんさん相手にわあわあわめいていると、背後から声をかけられた。振り向けば、コンビニ袋を提げた吉川さんが怪訝そうな顔で立っている。
 あたしが瞬時に、喚き散らす相手を変えたことに鋭く気づいたまあくんさんは、そそくさと車のほうに行ってしまった。

「吉川さん! あのですね!」
「うん」
「あたしお弁当つくってきたのになんでコンビニに…………」

 文句の途中で、言葉がしぼんでいく。吉川さんがコンビニ袋から出したのは、彼が飲むとは到底思えないような、甘いお砂糖の入ったミルクティーだけだった。

「お嬢ちゃんが来るような気がしたから、一応な」

 そう言って照れくさそうに後頭部を掻くので、何も言えなくなって赤い顔で黙り込む。
 しおしおと勢いをなくしたあたしを見て、吉川さんが顎をくいと動かした。

「あっちに、公園があるんだ。テーブルとベンチもあるぞ」
「……行きます」
「おう」

 とことこと公園までついて行って、お弁当を広げる。気合いの入ったそれは、から揚げやだし巻き玉子を筆頭に、吉川さんの大好きなものばかりである。
 いつもの調子で美味い美味いと平らげてくれた吉川さんをちらりと見る。満腹になったらしく、ぼんやりとしているその様子に、そういえば……と思いついたことがあるものの、それをそのまま言うのは恥ずかしくて、どうしようかちょっと考えた。

「吉川さん!」
「ん?」
「勝負です!」

 ついていた頬杖を解いて、ぽかんとした様子の彼が、勝負、と繰り返す。

「はい! 腕相撲です!」

 一拍、間をおいて、吉川さんがあきれたように呟く。

「お嬢ちゃん、それ勝負になんないよ」
「ハンデはつけます! あたしは両腕使っていいんです!」

 いや〜それでも余裕だと思うぞ〜、とかのんきな顔をして笑うので、唇を尖らせる。

「なんで急に?」
「負けたら、なんでもひとつお願い聞いてくださいね!」

 反論の隙を与えずに、さっさと吉川さんの腕を掴んでセットして、あたしも両腕をセットする。吉川さんが体勢を整える前に、急いでよーいスタートと言って腕に力を込めた。
 出遅れた吉川さんの腕が一瞬傾ぐものの、すぐに立て直される。

「不意打ちは卑怯だぞ」
「さ、作戦のうちです……!」

 おかしい、すっごくおかしい。
 あたしは両腕使ってぐいぐい押し込んでいるというのに、全力で吉川さんの腕に意識を集中させているのに、吉川さんはと言えばのんきな顔をして必死なあたしを面白そうに見ている。なんでだ。
 一生懸命腕を押したり引いたりしてもびくともしないので、ちょっと疲れてきて息が乱れる。

「お嬢ちゃん」
「なん、です、か!」
「負けたら一個お願い聞かなきゃいけないんだよな?」
「そう、です、よ!」

 よっ、と吉川さんが声を出した。

「あっ!?」

 ものの一秒で、あたしの腕があっさり傾いて、テーブルについてしまった。

「うそ!?」
「嘘じゃないんだな、これが」

 だから言ったろ〜、なんてのんきな声が降ってくるが、あたしはそれどころではない。
 せっかく吉川さんの連絡先を手に入れるチャンスだったのに。教えてください、なんて今更過ぎて恥ずかしくて言えなくて、だから、勝てば言えると思ったのに。
 もう言えない。もう吉川さんの連絡先分かんない。
 いじけてテーブルに突っ伏していると、咳払いが聞こえた。

「お嬢ちゃん」

 昨日は名前で呼んでくれたのに、と思いながら、それにもいじけて顔を上げないでいると、小さく。

「……新ちゃん」
「っ」

 がばりと身を起こすあたしはとっても現金なやつだ。
 ほんのりと頬を染めた吉川さんが、お願い、と言う。

「お願い、一個聞いてくれんだろ」
「……はい」

 いったい何をお願いされるんだろう、とびくびくしていると、彼はまるで想定外のことを言った。

「……あいつをまあくんって呼ぶのやめてほしい」
「…………」

 まあくん。さん。

「嫉妬ですか?」
「お嬢ちゃんはほんとにもう……!」

 今度は吉川さんがテーブルに突っ伏した。白髪混じりの頭頂部を見ていると、ちょっとうれしくなってきてしまって頬が緩んで、にやにやしていると、公園に遊びに来ていた小さな男の子に不思議そうな目で見られてしまった。

「……あの」
「なんだよ」

 意地でも顔を上げないつもりらしい吉川さんに、あたしは告げる。

「お昼休み、終わっちゃうんではないですか?」
「やべっ」

 天岩戸のように突っ伏していたのがあっさり顔を上げて、せかせかと準備をする吉川さんに、連絡先は明日聞こう、と思う。
 今勇気を出して聞いても、急いでいるのだし迷惑だろうし、それに、電話番号を教えて、それだけの言葉がなんだか重たく舌の奥のほうでつっかえているし。
 立ち上がって、吉川さんとマンションに戻りながら、そういえば……、と吉川さんが呟く。

「携帯とか、持ってるよな?」
「え? はい、持ってます……」
「なんかあったときのために、電話番号とメルアド教えて」
「……」
「お嬢ちゃん?」

 あたしがわなわなと身体を震わせているのを怪訝に思ったのか、吉川さんが眉を寄せた。
 吉川さんは、昨日、あたしが好きだと言ったとき、なんでそんなこと簡単に言えちゃうのかなあって言っていたけど、あたしに言わせればそっちこそだ。
 無言で携帯を取り出すと、そっか、と言う。

「スマホかあ」
「……ガラケーなんですか?」
「うん。使い方がいまいち分かんねえんだよな」

 そして、そのまま暗記しているらしい番号をすらすらと口にしだすので、慌ててそこに電話をかける。

「あのっ、今電話をかけておいたので、あとで登録してください!」
「うん、で、メルアドは、masanobu0720アットマーク」
「……個人情報がダダ漏れですね」
「ほっとけ」

 下唇を突き出した吉川さんは、でもすぐに、へらりと笑ってあたしの髪の毛をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。

「夜ならだいたい電話出られるから」
「……毎日電話してもいいんですか?」
「電話代大丈夫な範囲でな」

 料金プランは、通話料無料のやつになっていたはずだ……ということは、いくら電話をしてもOK? 吉川さんの声が聞き放題!
 にやにやしていると、吉川さんは不思議そうな顔をして、じゃあな、と言ってマンションに入っていった。

「あっ」

 さよならし忘れた……。
 もう見えなくなってしまった吉川さんにぶんぶん手を振って、あたしはしばらく、そこに立ち尽くしていた。
 諦めなくて、信じていてよかったって。やっぱり、あたしが吉川さんを好きなことは間違ったことでもなんでもないのだって。
 そう、強く思う。