04


 戴冠式を明日に控えたヴェルデの執務室で、シディアンは書類の整頓に追われていた。
 明日、ヴェルデは正式に王となる。騎士団軍師の位は、別の人間に引き継がれることになった。その引き継ぎ作業で多くの人間が入れ代わり立ち代わり執務室に入ってくるごたごたに乗じて、彼は姿をくらましたのである。
行き先はだいたい分かっているが、別に捕まえて引き戻そうとは思わない。戴冠式を済ませたあとは、きっともう今までのように気軽に会えなくなるだろう。そう思えば、この忙しい時に作業をすっぽかされることくらい、可愛いものである。
 子爵は極刑を免れなかった。いったいいつから悪事に手を染めていたのかは不明だが、数えきれないほどの女子供をやり取りしていた書類が屋敷から見つかったのだ。売買を担当している人間たちは知りえなかったことだが、彼は自分自身でその売り物となる人間を見定めていた。仕事熱心なことである。
 子爵を捕らえたことにより、芋づる式に組織の幹部があぶり出され、そのまま組織はあっけなく解体した。シディアンの心残りは、末端の人間すべてまでは手が届かなかったことである。どうせなら、殲滅したいと思っていたのだ。セレネや弟、そしてたくさんの人間を苦しめて甘い汁を吸っていた彼らを。
 アージュは、王の情けがかかり流刑にとどまった。それでは甘いと、ヴェルデが声を荒らげたが、温厚な彼がそうして声を上げるのは、後にも先にもきっとあの時だけだろう。
 そして残ったのは、行く当てのない女子供たちだった。天涯孤独の身や、セレネのように親に売られた子供がほとんどだったのだ。弟は、やっぱりいなかった。分かっていたが、それでもつらい。
「まったく、ヴェルデ様は……こんな時に仕事を放り出すなんて、ほかの人間に示しがつかんな……」
 隣で、新しく軍師になる第二部隊の隊長がぼやきながら書類に判を押していく。それを分類しながらシディアンは苦笑した。
「自由に羽を伸ばせるのも今日までと、本人も分かっておられるからいいのではないか」
 一応、ヴェルデの弁護をしてみると、予想外のところに噛みつかれた。
「シディアン。君は自分の恋人に男が会いに行っているというのに何も思わないのか?」
「……」
 そう言われると、答えは否だ。何とも思わないわけがない。ましてや相手は、セレネがよくなついているヴェルデだ。何もないとは思うのだが、やはり心の内はあまりよろしくない。
「都合が悪くなるとすぐに黙り込むのはよせ。嫌われるぞ」
 誰に、とは言わなかったが、彼はそうからかうように笑いながら手を動かし、そういえば、と呟いた。
「そういえば、これは俺たちの管轄じゃないが……助け出された女子供はどうなるんだ。百人近くいるそうじゃないか」
「男の子は、希望するなら皆兵士の宿舎に入れるらしい」
「育成が大変だな、団長さんよ」
「……そうだな」
 シディアンは、アージュの失脚により空いた穴を埋めることになった。つまり、事実上の昇進が決まっているのだ。一応、内示というかたちで本人たちに通告がすでにされており、明日の戴冠式のあとに公示がある。だから、まだ団長と呼ばれることには慣れない。それを分かっていて、彼はあえて役職で呼ぶのだ。
「それで、女性や女の子たちは?」
「さあ……そこまでは、俺も知らないんだ」
 シディアンの目下の心配事は、セレネのこれからの身の振り方である。今までどおり、シディアンの家に暮らし家事をして帰りを待っていてくれるならそれが一番いいに決まっているが。
「まあ、ヴェルデ様のことだ、何か考えていらっしゃるのだろう」
「そうだな」
 それ以後、二人は言葉を交わすこともなく黙々と整頓作業を続けた。口を動かす暇があるなら手を動かせ、という暗黙の了解がそこにはある。
 と、そこへ執務室の扉が開き、颯爽とヴェルデが戻ってきた。
「ヴェルデ様、こんな忙しい時にどこへ行ってらしたのですか」
 白々しくも新しい軍師がそう聞けば、ヴェルデはにっこりと笑って言う。
「仕事ですよ。新しい使用人の内示をしていました」
「……」
「新しい使用人?」
 首をかしげた男の隣で、シディアンは嫌な予感しか感じ取っていなかった。
「解放された女性たちは、希望する者を全員城の使用人にすることにしたんです。侍女も料理人も庭師も、慢性の人手不足でしたから」
「ああ、なるほど、そうですか」
「シディアン団長」
「……なんでしょう」
「セレネは、庭師がいいそうです」
「……そうですか」
 深々とうなだれる。そんなことだろうと思った。自分としては、セレネをあの家に縛り付けておきたいが、セレネが望むのなら諦めるしかないではないか。
 うっすら微笑んで、ヴェルデは執務机の椅子に座り、すぐ近くにある窓の外を眺めた。
「この景色も、見納めですね」
「何か、心に留めておきたい風景でも?」
「いえ……何気ないものでも、こうなってしまうと感慨深いものです」
 執務室の窓からは、広い庭が見える。特に何があるわけでもないその風景を見て、ヴェルデはそう言って笑った。
 ようやくその日の仕事を終え、明日を控え城をあとにしたシディアンは、急ぎ足で自分の家に急ぐ。もう危険はないと分かっていても、やはり気になってしまい急いで帰るのが習慣となっている。
 帰り道でシディアンは、ヴェルデの言葉を思い返してただひたすら憂鬱だった。
「そうだ。使用人は皆、使用人の宿舎に入っていただきますし、少し増設しましょうか。ああ、もちろん、セレネも例外ではありませんよ」
 よっぽど、シディアンのセレネに対する態度が気に食わないと見た。
 きちんと優しく接しているつもりだが、という反論は心の内に秘め、シディアンは深くため息をつく。
 家が近づくにつれ、シディアンはきっと帰ればセレネが、家を訪れたヴェルデの話と新しい仕事の話を嬉々としてするのだろうと思い、憂鬱には拍車がかかるばかりだった。
 意外と、自分に束縛する気持ちがあることにうんざりする。セレネが庭師をやりたいと思ったならそうすべきが一番であることは分かっているのに、セレネがその話をする時に絶対に笑顔を浮かべられないだろうことを思い、シディアンはがっくりと肩を落とした。

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