遠いから逃げる臆病者
12

「……ああ、なんだ、梨乃ちゃんか」
「なんだって失礼な」

 図書室のカウンターで、その辺に転がっていた雑誌を読みながらイヤホンで音楽を聴いていると、目の前にどさっと数冊の本が置かれた。イヤホンを取って目を上げると、そこには梨乃ちゃんが無表情で立っていた。

「先輩、図書委員だったんですね」
「そうだったみたいだね」
「ちゃんと仕事してください」
「はいはい」

 置かれた本のバーコードを読み取って貸し出し処理をしていると、頬杖をついた梨乃ちゃんが俺をじっと見ている。

「何?」
「いや、よく我慢できるよなって思って」
「は?」
「性欲」
「せ……」

 何を言い出すかと思えば、比奈に聞いたんだな。この間挙動不審になっていた比奈の態度と言葉を思い出す。梨乃ちゃんが別れるとか我慢とか、勝手に言っていたという話を。

「比奈に変なこと吹き込まないでよね」
「あたしは事実を言っただけですよ」
「俺今無性欲状態だから」
「はぁ?」
「比奈にそういうことはあんまり求めてない」
「……あなたほんとに先輩?」
「うわっ、失礼」

 俺をじろじろと見て、梨乃ちゃんが信じられない、とぼやく。まあ、俺の今までの行いからすればそれも仕方ないのか。
 梨乃ちゃんに処理を終えた本を渡すと、それを鞄に乱暴に突っ込んでさらに言い募る。

「だって先輩、比奈と付き合い始めてから誰ともやってないんでしょ?」
「うん。やるわけないじゃん」
「今まで入れ食い状態だったのに……」
「入れ食いって、あのねぇ……」
「だって、八月からで、もうすぐ十ヶ月でしょ? 何もないなんて……」
「別にいいじゃん。付き合ったからやんなきゃいけないなんて決まりどこにもないし」
「先輩が正論言うとなんかむかつく」
「さっきから失礼だよ」

 思わず眉を寄せると、梨乃ちゃんは心のこもっていないすいませんを呟き、首をかしげる。彼女の眉間にもしわが寄る。

「でも、比奈ってそういう知識ゼロだから、うやむやにしてやっちゃえる気がするんですけど」
「それがさ、拒否するんだよ」
「何されるのかも分からないのに?」
「うん。まあ、仕方ないとは思うけど」
「え?」
「こっちの話」

 先日胸を触ったら真っ赤になって両手で俺の手をがしっと掴まれた。何されるか分かってるの、と聞けば、わかんない、でも恥ずかしいし、怖い、と言われた。恥ずかしいのはとにかく、怖い、というのが本人も引っかかっているらしい。なんで怖いのか分かんないのがいやだ、と嘆いていた。
 またある別の日、キスしながらスカートの中に手を滑り込ませたら危うく叩かれるところだった。ほとんど触っていないのに涙目で拒否されたら、続けるわけにはいかない。

「ま、いいや。先輩がまともになったし、比奈に優しいし」
「まともって、それどういう」
「先輩!」

 図書室の入り口から、甲高い声が俺を呼んだ。比奈の姿を認めた梨乃ちゃんが、じゃああたしはこれで、と俺と比奈に手を振って図書室を出て行った。手を振り返しながらとたとたとこちらに歩いてくる比奈を見て、俺も雑誌を置いて立ち上がる。

「帰ろっか」
「え、図書委員のお仕事は?」
「いいよ、俺の他にも何人かいるし」
「えーっ」

 仕事をちゃんとしろ、と言いたげに眉を寄せ、それでも俺が手をつなぐと顔を赤くして黙ってついてくる。まったく単純で可愛い子だ。
 外に出ると、五月の終わりの晴れ晴れした空気にさらされた。木々が緑色を競い、さんさんと輝く太陽がいくつも木漏れ日を作って、青と緑と黒、そして光のコントラストがまぶしかった。
 きらきらと、ガラスの破片のような輝き。あまりにまぶしいので、つないでいないほうの手をまぶたに当てて光を遮る。梅雨前の精一杯の抵抗のような太陽の光は、去年とはまるで色を変えて俺を焦がすようにただ存在していた。

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