遠いから逃げる臆病者
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 ああ、違う、こんな不毛な言い争いをしたいわけじゃない。ここで挑発に乗ってしまったら意味がない。もういい大人だ、冷静になれ。
 咳払いをして、眉を寄せ言葉を探す。

「悪かったと思っている。口に出すべきじゃなかった」
「でも思ってるんだろ?」
「それは……やめよう、こんな言い争いは利益にならない」
「あのさ、お前は、俺とルカを会わせて何をしたいんだよ。会って何がどう変わるんだ?」
「……俺はただ、和解してくれればいいと」
「和解?」

 心底馬鹿にしたように、ヒサトが鼻を鳴らす。

「そんなもんできると思ってるの? 疫病神とその元だよ」
「ヒサト、自分を貶めるような言い方をするな」
「疫病神以外のなんだって言うんだよ、俺がいて誰が得したってんだ」
「人間の存在は損得ではない!」
「望まれて生まれたお前にこんな気持ち、分かってもらおうとか思ってない」

 吐き捨てて、それきり口を利かなくなったヒサトは、キッチンから部屋に姿を消した。落ち着け、と自分に言い聞かせながら粉々になったコーヒー豆に湯を注いでいく。こぽこぽといい音がして、ほろ苦い香りがキッチンに広がる。落ち着け、落ち着け。ああ、いい香りだ。よし、大丈夫。
 ふたつのマグにそれぞれ並々とコーヒーを注ぎ部屋のほうへ行くと、ヒサトが洗濯物をたたみながらタマを構っているところだった。ローテーブルにマグを置き、ヒサトの隣に座り込む。ヒサトは目に見えていらついている。
 何か言おうと口を開くと、それと同時にインターホンが鳴った。ヒサトが立ち上がって、玄関のほうへ向かう。聞こえてきたのは、ヒナの甲高い声とそれに応えるヒサトの声だった。

「あ、拓人さんこんにちは!」
「Ciao,bella、……おや、髪の色を変えたのかい?」
「イメチェンです! 大人っぽく!」
「そうか。Cioccolataのようで可愛いね。よく似合っているよ」

 裾に大振りのフリルがついたプリーツの茶色のワンピースにピンク色のシャツを合わせたヒナが、部屋に入ってくる。スカートの裾から覗く細い太股は、相変わらず真っ白だ。
 髪の毛は派手なベージュから落ち着いたチョコレートのような色へ変わっていた。よく似合っているが、幼さを増したような気もして、人形のようにめんこい。
 立ち上がってキッチンへ向かい、ヒナのために残ったコーヒーをマグに注いで牛乳を足す。彼女はコーヒーをブラックで飲めない。

「Ecco,ヒナ」
「あっ、ありがとうございます!」

 マグを受け取ったヒナがにこりと笑う。笑うと、零れ落ちそうな大きな瞳がきゅっと引き絞られて線になる。この屈託のない笑顔が好きだ。ヒサトを簡単に笑顔にさせることができるから。
 先ほどから部屋に漂っていたよくない空気は色を変え、ヒサトが優しく微笑んだ。彼女といるときだけ、彼はそういった慈しむような表情をする。俺はヒサトを憂鬱にさせるばかりだ。