福ノ子
 団地アムネジア2


「誰だお前は」

 いや、こっちの台詞だ。
 桜に連れられて「應武」と書かれた表札のインターホンを押すと、背の高い無愛想な男が現れた。
 年は同じくらいに見えるが、切れ長の瞳から受ける印象はひどく冷たい。くたびれたシャツとローライズジーンズ。さらに印象を悪くしたのは、微かな煙草の匂い。彼が汚く見えないのは、その姿勢の良さと、憎いほど整った顔の作りからだろう。かといって拭いきれないアウトローな雰囲気に、たちまち不信感は募る。

「駆蹴、久しぶり〜」
「ん……? ああ、桜か」
「伊織、こっちに来てない?」

 このコミュ障っぽい男の部屋に、本当に伊織がいるのか疑わしかった(というより信じたくなかった)が「ああ、いる」との返事に、卒倒しそうになった。

「かけるしゃん?」

 奥から聞こえた舌足らずな声に、慌てて部屋の中を覗く。
 なぜかフルチンの伊織が、廊下に突っ立っていた。

「んあー! ひろむくん!」
「伊織!」

 笑顔でとてとて駆け寄ってきた伊織を、ひしと抱き止める。

「…………お前、なんでちんこ出してんだ」

 よもやこの男に、卑猥な悪戯などされていないだろうか。まだ朝顔の蕾みたいなのに、決してそんな間違いがあってはならない。

「ジュース溢したから、今乾かしてたんだ」
「ごめんなしゃい」
「…………」

 確かに、奥のベランダに干されているのは、伊織のくまさんブリーフと半ズボンである。拍子抜けした俺の横を、ひらりと桜が通り過ぎた。

「……なんか、変な想像してない?」
「し、してないから」
「おじゃましまーす」

 冷静を装った否定をあっさり無視した桜は、パンプスを脱ぐと先にあがってしまった。

 駆蹴はどうやら一人暮らしをしているらしい。
 余計な物が一切置かれていない部屋は、どこか退廃的な雰囲気さえ漂っていたが、午後の陽射しがたっぷりと入るおかげで静かな居心地の良さがあった。
 擦り切れた畳、使い込まれたちゃぶ台。灰皿の中身は綺麗に捨ててある。ベッドの上には、丸まって眠る黒猫が一匹いた。
 まあ、嫌いではない雰囲気だ。
 しぶしぶ部屋の隅に座ると、ドルチェの箱に気づいた伊織が弾んだ声を上げる。

「いおり、ケーキだいしゅき!」
「みんなで食べようよ」

 呑気な桜の提案に、無言で立ち上がった駆蹴が冷蔵庫から麦茶を出してきた。
 お前に食わせるケーキは買ってきていない。が、今更拒否する訳にもいかない。

「ひろむくん、ありがとう」

 それに何より、伊織の笑顔に勝るものはないのだ。

「いいんだ。今日はホワイトデーだから」
「えっ」
「チョコありがとな、伊織」

 いつ見ても綺麗な白花の髪を撫でまわしてやると、伊織はてれてれと嬉しそうにしている。
 どうだ見たか駆蹴。俺は伊織にチョコを貰った男だ。

「ドルチェのケーキとは、ずいぶん気合いの入ったお返しね」
「あ、えっと、桜の分もあるよ」

 今朝、マカロンを手渡した桜にじと目で見られて、変な汗が出る。決まりが悪くてちらりと駆蹴を見たが、一切表情を変えずに箱の中のケーキを取り分けていた。

「お前……、宏夢? 何食うんだ」
「あ、いいよ。俺は余ったので」
「いおり、もものやつ!」

 当然のように駆蹴の膝に座った伊織が、薔薇色の瞳を輝かせてはしゃいでいる。
 この顔が見たかった訳だが、なんだ、何かちょっと違う。

「かけるしゃん! いおりが、あーんしてあげゆ」
「いいよ、やめろ」

 仕舞いにはいちゃつき始めた二人を直視できずに、俺はトイレに立つ振りをして席を外した。さすがに心配してくれたのか(面白がっているのかもしれないが)桜が後を追い掛けてくる。

「ちょっと、元気出してよ」
「……伊織は、駆蹴にもチョコを贈ったんだろうか」

 嫉妬むき出しの俺に、桜が肩を震わせて笑い出す。
 直感が正しければ、伊織の本命は駆蹴に違いなかった。


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