福ノ子
 団地アムネジア2


 何とか午前中でホワイトデーのお返しを済ませた宏夢は、足早に大学の門を出た。
 待ち合わせの前に、駅のパティスリー「ドルチェ」に寄るためだ。
 店内は非常に込み合っており、足を踏み入れた途端、濃厚なバターとチョコレートの甘い香りに包まれた。
 芸術品のようなケーキが並ぶショーケースから手土産を選び、いそいそと会計を済ます。桜のご両親と、双子の兄の八重、それからもちろん伊織の分も。少し多めに買っていけば間違いないだろう。
 伊織の喜ぶ顔が目に浮かんで、にやつきながら店を出ると、丁度坂を上ってくる桜の姿が見えた。

 彼女の実家は、ローカル線を乗り継いだのどかな郊外にある。駅から歩いて5分の「団地アムネジア」は、その3号棟102号室が雛城家だ。
 到着しただだっ広い敷地内に、満開に咲く梅の木立が見える。うららかな春の匂いを運ぶ風に花びらが楚々と散り、そこだけゆっくりと時が過ぎているようだった。

「やあ、春らしいな」
「前に来た時も同じこと言ってたわよ」
「そうか?」
「小さい頃に梅の木から落ちた話、したじゃない」
「そ、そうか……」

 見かけによらず、破天荒な幼少期を過ごす桜には、相変わらず舌を巻く。

「ただいま〜」
「おじゃまします」

 扉を開けると、狭い玄関に大きなスニーカーとスリッポンが脱ぎ散らかしてあった。どうやら先客がいるらしい。
 居間へ入ろうとした桜が唐突に立ち止まったので、何事かと背後から様子を窺う。
 最初に見えたのは、開け放たれた和室と、風に膨らむカーテン。それから、こたつの上のポテトチップスとサイダー、テレビに繋がれたままのゲーム機。
 最後に、部屋の隅で重なった二つの裸体。
 対面座位で向かい合った、八重と龍二だ。
 彼らの周りには、破かれたコンドームの袋と丸まった衣服が散らばっている。
 どうやらセックスの真っ最中らしい。
 こちらに背を向けている八重は気づいていないが、ブリーフの絡まった足を担いだ龍二が、はっと顔を上げた。しかし「邪魔するな」と視線を寄越しただけで、すぐに律動を再開する。
 結合部から溢れる濡れた音と、気持ち良さそうな喘ぎ声が、この異様な空間に響き始めた。

「あふ……あ、あんっ……おく、きもちい……っ」
「もっと腰振れよ、八重」
「う、ん……っ、ちんこ、揺れちゃ……ああん……っ、あは、あっ」

 素直に体を揺らす八重が、畳をもどかしく引っ掻いている。
 桜と俺はそっと背を向けると、まるで何も見なかったかのように玄関の扉を閉めた。
 兄が男とまぐわう現場は、さすがにショックだったんじゃないかと心配したが、桜は意外に飄々としている。

「お前、平気なのか」
「もう見慣れたから」
「…………」

 そんなアホな話があるのかと思ったが、どうやら本当らしい。
 八重の喘ぎ声が未だにこびりついている気がして、勝手に赤くなった耳を擦った。

「なあ、伊織はどこに消えたんだ」

 目的の小さな姿は、どこにも見当たらない。そういえば玄関にも、子ども用の靴は一足も無かったように思う。

「二人がいちゃついてるってことは、うちにはいないのかしら」
「流石にいないだろう」
「うーん、じゃあ駆蹴の所かも」
「え……だ、誰?」
「同じ団地に住んでる私の幼馴染みよ。最近仲が良いって八重が言ってたの」

 容易に桜が当たりをつけたので、思わずどもってしまった。
 聞きなれない名前に、眉根が寄る。自分以外に伊織が親しくしている男がいるなど、初耳だった。


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