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暗闇に耳を塞いだ
1 / 2 「じゃあ、Aから。アインザッツ揃えて」 本日のオケ練習。恵介の振る指揮に合わせて始まったのは“チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲”。梨子がソリストを務める曲だ。 「ストップ。もう一回頭から」 がしかし、さっきからなかなか梨子の出番まで回ってこないのだ。何度やっても恵介の耳は満足できないらしい。 「今回はいつにも増して厳しいな」 「このペースだと完成まで軽く三年はかかるんじゃ……」 梨子同様に未だ出番がこない管楽器組もさすがに三年は言い過ぎながら不安そうだ。 しかしそこは英大のエリート軍団。恵介の指示を確実に再現してようやく独奏ヴァイオリンの出番までやってきた。 静かに入った独奏ヴァイオリンはやがてこの曲の象徴とも言える主題へ。 (っ、イイ音出しやがる) 恵介は指揮をしながら、思わず笑みがこぼれてしまった。梨子の奏でる音が前回の練習よりも更に一段と磨きがかかっている。 (……あいかわらずスゴイ) (これで年下だもんな) 伴奏をしている大学部メンバーも梨子の演奏に圧倒されていた。が、次の瞬間、 「おい!セコバイ勝手に走んじゃねぇ!」 梨子の演奏に気を取られて指揮に集中していなかった2ndヴァイオリンの数名が少々テンポを早めてしまっていたらしい。ほんの少しの違和感を恵介の耳が聞き逃すはずがなく、あえなくやり直し。 そして数時間後。 「とりあえず一回休憩入るか……。15分後にEから再開。で、宮川ちょっと来い」 メンバーたちがそれぞれ席を立ち休憩に入る中、一人呼ばれた梨子は何を言われるのかと内心ヒヤヒヤしながら恵介のもとへと近付いた。 「私、何か失敗しました?」 「は?」 こいつは何を心配してやがるんだ。自分が何か言う前から既に叱られた子犬のように元気のない梨子を見て恵介は呆れた。 「何を思ったか知らねえけど勝手に落ちてんなよ。別に梨子の演奏に文句つけるために呼んだんじゃねえって」 「え?」 「梨子の意見が聞きたい。ここから第一主題までの部分、さっきの演奏聴いてどう思った?」 恵介が指差す総譜を覗き込みながら、梨子は先程の演奏を振り返った。しかし何と伝えたらよいか戸惑っていると、 「思ったままでいいから」 そう優しく言われ、梨子はようやく語り始める。 「……解釈としては、私はすごく好きです。その後の第一主題の華やかさもうまく引き立ってますし」 「本音は?」 「…………私のイメージではこの辺りはもう少し強弱はっきりさせて弾く感じでしたし、あとここは気持ちもう少しためてもいいかなと思いました」 総譜を指し示しながら素直にイメージを伝える梨子に恵介は頷いた。 「やっぱりな。……わかった参考になった」 「私なんかの意見で本当に役に立ちました?」 「おかげさんでイメージが完全に固まった。サンキュ。梨子に聞いてよかった」 思いがけず恵介の力になれたことが嬉しくもあり、それと同時に恥ずかしくなった梨子ははにかみながら笑った。 (くそ、なんでこいつはこんなに可愛いんだよ) 近距離で梨子の笑顔を見た恵介は同様しつつ、それを隠すように 「休憩中に悪かったな。たぶん外のソファに潤がいるから行ってやれ。ぜってえ喜ぶから」 「恵介先輩は?」 「俺は外で一服」 恵介がズボンのポケットから取り出したのはタバコの箱とライター。 「身体に悪いですよ?」 「大人には大人の事情があるんだよ。ほら、さっさと行け」 「6つしか違わないじゃないですか!」 恵介に追い立てられながらホールを出て行った梨子。そのすぐ後にホールを出た恵介は梨子とは反対方向に行き音楽科棟の外に出た。 (6つしか違わない、ね) タバコに火をつけながらついさっきの梨子の言葉を心の中で反芻した。 * * * |
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