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限られた時間の中で
1 / 2 「ブラームス、シベリウス、ベートーベン……」 「なーに呪文みたいにブツブツ言ってんの?」 「うぉっ!なんだ潤か。お疲れさん」 大学では四講目が行われている時間帯。一人カフェテリア内において定期演奏会のための候補曲リストを険しい顔で見ていた恵介の背後から潤がひょっこり顔を出した。 「はい差し入れ」 「サンキュー」 潤は恵介の前の席に座り、ここに来る前に買った二つの紙カップ入りコーヒーのうち一つを恵介の前に、もう一つは自分の前に静かに置いた。 「難航してるっぽいね」 「してるさ」 「俺もしてる」 「コンクール用?」 「うん」 恵介は定期演奏会の曲選考に、潤は自分のコンクールで演奏する自由曲選びに頭を悩ませていた。 「で、結局演奏会はどういう感じになりそうなの?」 「小品、協奏曲、交響曲の計三曲」 定期演奏会では指揮者とコンマスがある程度相談をしあうことになっている。今までの演奏会のプログラムも考慮しながら二人で大雑把な話し合いはしたが、最終的な決定権は指揮者である恵介にあるのだ。 「協奏曲だけは決まってる、と。当初のプラン通りだね」 潤が恵介の目の前に置かれた候補曲リストを見ると、協奏曲だけ赤い丸で囲まれていることに気付いた。 「これだけは譲れねんだ」 「知ってるよ」 「悪いな」 「何が?」 「付き合わせて」 潤は一瞬狐につままれたような顔をしたが、すぐに笑い出した。彼とは反対に恵介は不満そうに潤を睨む。 「なんで笑うんだよ」 「だって恵介がそんなこというなんてどう考えてもおかしいでしょう」 潤の考える恵介とは、基本は“俺のやることは絶対”という俺様道を貫く男であり、そこに音楽が絡めばそれはさらに際立つ。 しかし、まさか今のように周りを気遣う言葉が彼の口から飛び出るなんて予想だにしていなかったわけで。 「そもそも謝る理由がないでしょ」 「だって、これは俺の我が儘だから」 「どんな理由があろうとオケのメンバーは指揮者が選んだ曲を精一杯演奏する。それだけだよ。だいたいさぁ、誰も反対とかしてないでしょ。これから謝るべきおかしなトリックでも仕掛けるのかもしんないけどさ。でもそんなの関係ないよ。とにかく今までみたいに恵介が好きな曲やればいいんだよ。第一、俺その曲好きだし。いいじゃんやろうよ」 潤は一気にまくしたてた。勢いに押されて目を丸くしていた恵介はしばらく潤を見つめた後、片手で目の辺りを覆って俯いたかと思うと肩を震わせはじめた。 「え。泣いた?」 「泣くかよ馬鹿」 恵介は勢いよく顔を上げた。その顔は嬉しそうに笑っている。 「なんで笑ってんの?」 「やっぱり潤だと思って」 「意味がわからないんですけど」 「わからないままでいいよ」 「うわー何それ」 自分の相方が潤でよかった。その一言に尽きる。恵介にとって潤は音楽を表現するうえで最大のパートナーだ。 しかしそれを今さら面と向かって言うことはできないけれど、音楽でならきっと伝えることができるだろう。 その潤はというと、不満そうな表情を浮かべつつも「まあいっか」と言って候補曲リストを手に取って目を通しはじめた。 「で、それ以外の曲は……え、マーラー?!」 「うわっ、ちげぇよ!」 「違わないよ、だってマーラーの五番って書いてあるでしょ?!」 潤は恵介に一度奪い返されたリストを再び奪いとった。その用紙の交響曲の欄には候補曲として“マーラー 交響曲第五番”と確かに記されている。二人で話し合った時には挙がっていなかったはずだ。 「そういう意味で選んだんじゃねえって」 「そういう意味ってどういう意味?俺まだ何も言ってないけど」 わかっているくせにすっとぼける潤に恵介は苦虫を噛み潰したような顔をした。 「ただ、編成が多いから高等部の奴らも参加させてやれると思って」 「なんだ、梨子ちゃんへのラブレターじゃないんだ」 「ゲホッ、ゴホッ」 コーヒーを口に含んだ途端潤がとんでもないことを言い出したために恵介はむせ返ってしまった。 「おま、ふざけんな!」 「だってマーラーの五番といえば“愛の告白”でしょう」 マーラーの交響曲第五番はマーラーが年下の娘、後に彼の妻となるアルマに恋をして熱烈アタック中に作曲されたもので、特に第四楽章は“アルマへの調べ”として書かれており、つまりは“言葉なき愛の告白”である。 このマーラーとアルマの関係を潤は恵介と梨子に当てはめたのだ。 「本気で恋しちゃったんでしょ、お坊ちゃま?」 「その呼び方はやめろ」 “お坊ちゃま”なんて呼ばれていたのはもう何年も前の話だ。ハタチを過ぎてから呼ばれると鳥肌が立つ。 「あれ、恋しちゃった部分は否定しないんだ?」 「……お前、タチ悪いぞ」 「でも否定しないでしょ?」 「……しねぇよ」 潤に上手い具合に誘導されてしまった感は否めないが、恵介は渋々認めた。 「可愛いもんね、梨子ちゃん」 「それだけだったら良かったんだよ」 ただ可愛いだけならこんな気持ちになんてならなかった。 きっかけは梨子の笑った顔だった。純粋に惹かれた。梨子の音を聴いてもっと聴きたいと思った。そして彼女のことをもっと知りたいと思った。 「単純に興味を持ったんだ」 「まさか恵介が女の子に自らそんな興味を示すなんてね。高等部時代は興味なんてなくても来るもの拒まずだったのに」 「あれは若気の至りだ」 高等部時代は恵介にとって黒歴史といってもいい。一般的に整った顔立ちで、英大付属高校で指揮の勉強をしており、かつ良いところのお坊ちゃんでもある彼のバックボーンを知れば比較的簡単に女の子たちはついてきた。 それでも恵介は音楽以外のものにはほとんど興味を示さなかった。異性に対してもまたしかり。 だが恵介にも人並みに性的欲求というものがあるわけで、近寄ってきた女の子たちとその場限りの関係を持ったこともあった。 |
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